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コロナでわしも考えた。

新型コロナウイルスことCOVID-19が猛威を振るっております。私の住む長野県塩尻市も影響を受けています。

今やSNSはどこもかしこもコロナの話題ばかり。
塩尻市の片隅で、コロナと、それが私たちにどういう影響をもたらすのか。
ちょっぴり遠くを見ながら考えたことを記してみます。
(特に関係する写真がないので、塩尻とかの写真で目を癒してくださいw)

ウイルスというものたち

新型コロナはウイルスです。
ウイルスと菌って、あまり区分せずに使ってると方も多いですが、実は全く別物なのですよー。
だからコロナの文脈で「除菌」とか「菌が蔓延」という言葉は実は間違っていて・・・(すごく細かいけれどw)。

ウイルスや菌の定義なんかは細かく話しても仕方がないし、できる自信もないので、wikiとかこんなページとかご参照いただきたいのですが・・・

調べれば調べるほど、ウイルスって不思議な存在。

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生物としての最小単位である細胞を持たないため「非生物」と定義づけられることもある。
自身のみで生存できないので、他の細胞に入り込んで自身をコピーして生きていく。
そのくせ、入り込んだ宿主を殺してしまうこともある(新型コロナウイルスなんてまさにそうですよね)。

もうね、なんのために生まれてきたのかって感じ。根本から存在意義を問い直したいですよね。
君はなんのために生まれて、何をして生きるのかと。答えられないなんてイヤじゃないのかと。

そう、まさに「なんのために新型コロナウイルスは生まれたのか」なのです。

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私は、基本的には自然というものがすごく好きで、自然というものをとても信頼しています。正式な所作なんてものは知らないですが、山に登り自然と戯れ「あー、こん中に神様っちゅーもんは多分おるんちゃうかな」なんてことを思っているゆるふわ神道です(いろんな人に怒られそう)。
だからこそ、その自然が生み出したものについては、必ずなんらかの意味があると思うのです。

今、私たちを悩ませてやまないCOVID-19にだって、なんらかの意味があるはず。
そんな視点で、少し綴ってみます。

新型コロナとラマダーンについて

唐突ですよね。
ラマダーンって、みなさんご存知ですかね?

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ラマダーンはイスラム暦第9月のこと。
イスラム教徒はラマダーンの1ヶ月、日の出から日没まで断食を行います。
ちなみに2020年は4月24日にスタートみたいです、もうすぐ!

ラマダーン中のイスラム教国に行ったこともないし、話も聞いたこともないのですが、私はなんとなく、今の状況がラマダーンに近いんじゃないのかなと推測してます。

イスラム教を国教としている国の中には、ラマダーン中は就業時間を短くする企業もあったりするみたいだし。
何より、陽の出ている間に何も飲み食いできないって、どう考えても通常の生活に比べて生産性が下がりますよね。
それも1ヶ月もの間ですよ。最初は「デトックスだぜ!」みたいなテンションだったとしても、絶対にストレスが溜まってくる・・・

資本主義的な経済原理の中でいう「生産性」に関して、ラマダーン期間中はどう考えても下がっていくと思うんです。
で、現在のコロナの「移動や生産が止まってしまっている」状況って、「通常の生産が明らかに落ちている」という意味で、ラマダーンに似ている気がするんですよね。

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で、ここで「ラマダーンってすごいな!」と思うのですが・・・
毎年1ヶ月間、生産性が落ちる期間があるにも関わらず、それでも人が死ななく、社会が順行であり続けられるような社会システムが構築されている、ということなんです。

あらかじめ「生産性の停滞」を織り込んだ上での社会システムを構築することの凄さ。
そのことは、このような事態が起きた時の対処の仕方を既知のものにすることもなるだろうし、また多少の予期せぬ事態が発生したり不確実性や不安定性が勃発した時にも耐えうるしなやかさというか、レジリエンスとでも言うようなことにつながる気がする。
※ネットサーフィンしてたら「ラマダーンの月は逆に消費が進むぜ!」みたいな記事もあるのであくまで妄想の範疇を出ないですが・・・汗

ともすれば、私たち資本主義の経済原理で生きている人間って、すぐに「進歩する」ことを考えてしまう。
売上や利益を増加させなければいけない。生産性を上げなくてはいけない。成長しなければならない。人口を増加させなければいけない。もっと遠くを目指して、もっと遠くへ進まなければいけない。もっと早く、スピーディに、スケールしていくものを。

多分今の世の中って、その思考で生きている人がほとんど。
だってこの世界自体が、その原則によって構築された社会システムがほとんどを占めるから。
だからこそ、歩みを緩め、そして立ち止まるということって、すごく苦手で、ストレスになってしまう。

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私自身も、今年度がスタートしてから色々と実践しようと仕込んでいることが多々ありましたが、それが中止になったり塩漬けになったり。
この状況下でも「発揮できる価値って何か」をチームで考え実践してるところですが、ぶっちゃけ仕込みがストップしたことによるストレスがあるのは否めないです。つい「新しい何か」をしたくなってしまう。

でも、これからの世界、特に日本って、人口が減っていきます。どんなにいろんな政策を打っても、流れを緩めることができるが、減っていくことは止められない。
それって、現状の社会システムを構築している資本主義の思考の根本になっている「人口増加」という大前提がなくなるということ。

なんとなく、私たちが頭で分かっていたような事実。
人口が減っていく中で、これまでの経済成長の前提がなくなること。
歩みを緩め、立ち止まり、時には後ろに退がってみるような。

そういう考え方や生き方。
そして、その前提に立った社会や地域の作り方を、考えていかなければいけない。
今まで通りじゃない形を模索するために、そういった概念が前提になっている社会システムを、もう一度ちゃんと見つめて、紐解いて、ヒントにする。

新型コロナは、そういった「社会を構成する土壌となる思想」の転換を、すごくミクロに(ウイルスの大きさじゃなく「個人という単位」という意味で)突きつけてきている。
それは、今まで資本主義絶対の中で見落としてきた、様々な社会の形や思想を見直すきっかけになるんじゃないかと、そんな気がしています。

地域に住んでいる価値、多様性など

私は今、長野県塩尻市に住んでいます。
人口約67,000人のこの地方都市でも、新型コロナの影響がじわり、じわりと浸透していて(4月18日時点)。
塩尻が属する松本圏域で県独自の蔓延の段階が引き上げられたり、緊急事態宣言が全国に拡大したことで、地域の飲食店が閉まったりしてます。

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新型コロナの影響は2月くらいから出ていました。
コンビニや薬局からマスクが消えるという現象はすぐに見られましたし、今でこそある程度安定はしているものの、トイレットペーパーが薬局から一切消えていたり(ちなみに、納豆が今もスーパーで品薄状態。今日は何故かホットケーキミックスがめっちゃ売れてた。お菓子作りたいのかな?)。

でも、なんていうのだろう、すごく「多分なんとかなる!」感がその時から強いかったなと思います。

塩尻に住んでて、自分が属しているコミュニティがある。
そこに「トイレットペーパーがねえよ!」と投げたら、多分誰かが助けてくれるし、なにより自分が持っているもので誰かの助けになるものなら、とりあえず提供すると思う。

そのことを顕著に感じたのはトイレットペーパー騒ぎの時であったが。
個人的には、これはトイレットペーパーにとどまらず、様々な形で不足しているものや、あるいは物質的なものに留まらないなにか、に当てはまるものなんじゃないかと感じている。

なんというか、地域に存在するコミュニティって、資本主義や経済原理とは全く別の軸として成立していて。
それはどちらかといえば、共助とか互助とか、なんかあったらそんなの関係なく、なんかできることを考えようねという、そういう思想で成り立っている。
と、まだ3年しか経ていない中で、感じること。

そして、そういったコミュニティが単層ではなく。
様々な形やレイヤーや人間関係の中で、多層で多様に存在しているのだ。

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以前から薄々と感じていたことなのだけれど。
なんか、これってとても「持続可能性」という価値観の中で、すごく重要な要素になる考え方なんじゃないかなーと思うわけです。

先日、飛騨古川に行ってきた話を書きましたが、そこで立ち寄った「やわい屋」という民芸と古本のお店の方としていた話が、そのヒントになったような気がしています。

経済原理の中でしか発揮できない持続性は、間違いなくあります。
誰かが本当に必要としているニーズに合わせた「価値」を商品やサービスとして提供して、正当なお金をもらう。ビジョンに共有してくれる方からお金をいただいて、その事業をもっと遠くの「必要としている人」に届けていく。
それは資本主義の原理だからこそできることだし、だからこそ世の中に価値あるもの、私たちの生活を便利にしてくれるものが、たくさん出現してきた。
そして、それらの商品・サービスは経済原理があるからこそなくなることはない「持続可能性」として存在し続ける。

ただ、私たちが「生きる」とか「生活する」時の「持続可能性」は、多分それだけじゃないんだと思う。

地域のコミュニティってのは、もう少し「生態系」とか「エコシステム」みたいな概念に近いもので。
(これについては、今まさに三枝が仕事としているところなので、どこかで詳しく長文で書きたいのだけれど。)
そのコミュニティに対して、コミットしたりGiveしたりすればした分だけ、その中に深く強く絡んでいって。そして、その個体が消えようとした時に、他の強く絡んでいる個体たちが何かしらの消えさせないための支援をする。
それが「生態系」や「エコシステム」的な「持続可能性」の概念ではないだろうか。

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都会は、今まで住んできた中ではどうしても資本主義・経済というもので結ばれる関係性が強いし、順行を支えている思想はそれらが殆どだ。
だけど、私が住んでいるような地域って、そうじゃない要素がほんとにたくさんある。そうじゃない活動や、生産行動をしている人がたくさんいる。いろんな余白が落ちているのだ。

自分が生存する、生きる、生活するといった観念の中で、お金ではない「持続可能性」の価値観が、おそらくは増えてくる。
その中で、地域が持っているものの価値が、ちゃんと見つめられて、明確化していくようになるのではないか。

なかなか言語化が難しいのだけれど。
この観点は、私の中でも引き続き醸していきたい。

新型コロナで自然はどうなっているのか?

新型コロナの情報のほとんどが、ヒトにまつわる出来事だ。
ヒトが生存する社会での情報やニュースについては、様々な形で毎日毎時、どこかしらで飛び交っている。

一方で、ヒトだって新型コロナウイルスだって、自然の一部である。
ヒトの社会を俯瞰した時に、もっと大きな目線で見た「自然」は、現在、いったいどうなっていて、どのような変化があるのだろう。

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ヒトの社会において、移動が止まった。
移動が止まって、観光にいけなくなったし、自然の中に足を踏み入れる機会も減った。
日本では北アルプスの山小屋は宿泊と食事の提供を辞めた。カナダでは国立公園が閉鎖した。ネパールではエベレストの入山許可の発行を政府が止めた。
密集するリスクを鑑みて、自然への立ち入りを禁止する国が出てきたし、そもそも個人も感染を恐れて外に出なくなった。

このことによって、自然は今、どのように変化しているのだろうか。

ヒトは、自然に対してアクセスをしやすい世界を構築してきた。
昨年の3月にネパールに行ったが、トレッキングコースの中で、元々そこで生活している人が営む宿を周り、生活道路を歩いた。ただ、昔から往来してきたそのような生活道路以外に、車が走れる道がどんどん奥まで開通して、砂埃を立てながらトレッキング客を載せたジープが走っていた。

お金さえ払えば、自然の中でのどこでもアクセスができる世界になった。
それを受けて、地元の生活者は観光業を営み、貨幣が増えていくだろう。
生活が豊かになれば、人を増やす。そこで生活する人口が増えていく。
当然ながら、人が増えた分、そのダメージは自然に還っていってしまう。

各種のゴミや生活排水は勿論(ネパールの村では川にゴミがめっちゃ溜まっていた)。
人が増えれば家を建てる必要があるので、木を切って山を削る。
そもそも、土地に人が増えた時点で土壌が流出していき、その分土地が荒れてしまう(それでダメになったのが、鳥取県の大山だ。大山は土壌が削られて危険なので頂上まで行けなくしてある)。

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ヒトは、その存在だけで自然に影響を与える。
(生態系が存在する以上、それはヒトに限らないのだけど)
そして、人口が増加して、自然にアクセスしやすくなった結果、そのことだけで自然を荒らしていく結果となる。

新型コロナは、その流れを逆行させたと思っている。
今、ヒトが多く入っていった自然界で、どのような変化が起きているのだろうか。
そして、新型コロナが収束して、またその自然に直面した時に、ヒトはどのような付き合い方をしていくのだろうか。

塩尻という地で感じること。

最近、朝、ランニングをしている。
きっかり4km、ランニングコースはずっと同じだ。
駅付近の住宅地を通り、線路沿いを走り、北アルプスが美しく見えるぶどう畑を抜け、水路が脇を走る家並みを走り、レタス畑を経て、また住宅地に戻ってくる。

3月から初めて、2ヶ月続いている計算になる。
ランニングをしながら、だんだんと春になっていく気配を感じる。
朝の気温や空気感、モクレンやダンコウバイや桜の花、畑にはレタスが定植され、穂高連峰に春霞がかかってくる。空気の香りが、1日1日で変化する。

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ヒトが新型コロナで右往左往している間にも、季節は巡行している。
塩尻での生活は、そんな巡行する季節をちゃんと気づかせてくれるきっかけに溢れている。
だからこそ、人間の社会から少し離れながら、この状況を少し俯瞰して、遠くを見据えて、考えることができるのではないだろうか。

信州にも新型コロナの影響は押し寄せてきている。
今日(4月19日)も、5人の感染者が出たという報道が出た。
そこにばかり目を向けると、とても近視眼的になって。
ついつい、不安や恐怖にとらわれ、怒りが生まれ、「なにかを攻める」ような精神状態になりがちだ。

そうはしたくないし、ありたくないと思う。
だから、自然の巡行に触れ、近視眼的になりがちな目線を、ちょっとだけ広く・遠く持ちながら。
この状況と、自分にできることを、問うてみて、考えて、やっていきたい。

※「写真チャレンジ」
調子乗って写真貼り付けてたら、全然塩尻周辺じゃないのも出てきました。
それぞれ、どこで撮ったか全て当てられたら、なんかあげます。

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