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35歳になったようだ。

2024年1月14日をもって、35歳になった。
気が向いたら記載している「〇〇歳になったようだ。」、前年は下書きのままで残されている。最後まで書ききれなかったらしい。
これを書き始めた日付も、2月7日。既に1ヶ月以上経過して、ようやく35歳と向き合っている。タイトルを書くまで34歳の気もしていた。

そんな感覚なので、「よし、35歳はこんな歳にしよう!」みたいな気概は、あまりない。30歳後半だからどうしようという目標もない。
こんな感じなので、年齢なりの含蓄やら厚みのある言葉なんてものは、多分出てこない。
10代でも20代でも30代でも、その時々でぼんやりしていることを、ただただ書き連ねていたように思う。
年を重ねても、そういう意味ではあんまり進歩をしていない。

まあ、だからこそ、特に内容も意味もストーリーもないのだけれど。
最近考えていることなどを、つらつらと書き殴ってみる。


しいたけ占い

新年が始まるにあたって、つい見てしまうしいたけ占い。
2024年上半期の山羊座、なんか目に止まった言葉をピックアップしてみる。

■総論
・2024年上半期は、もうですね、皆にとって「ハチャメチャな修羅場」は越えた
・どう「遊ぶ」か。どう、「こういうのをずっとやりたかった」の時間を取り戻していけるか。

■上半期の運勢
・「自分探しからの(一旦の)卒業」。そして、「長期に渡る、幸せ体制の樹立」という二つの、巨大とも言えるような運勢の同時進行
・2022年から2023年、そして現在までの変化はかなり大きく。だからですね、2024年上半期に入った時点で、あなたの目線や顔つき、そして、胸に秘めている気持ちや計画などは、少し前のあなたとは全然違うものになっています。
・ここまでの山羊座には「自分でも気づかないうちに、10年分ぐらいの成長と価値観の変化」が起きてきました。
・今のあなたの「成長」や「変化」は、周りの人から見ても「あれ、あなた、誰? 」と言われるぐらいに、別人級レベルで変化しています。もう本当、あなた自身が思っている以上に、あなたは変貌を遂げています。
・2024年上半期、あなたは成長した自分をベースに、外での成果を積み重ねていくし、「わき目も振らずに、自分の中で一生懸命に打ち込んでいくテーマ」も発見していきます。
・フワッとした状態で、「今の私に何が起きているんだろうか? 」と状況の整理し切らない状態で、周りから評価されたり、人生の次の階段を着々と登っていく
・具体的には、「立場を得る」「決定、信念、方針などが周りから認められ、信用される。応援されていく」「自分が何をやっていくべきなのかがハッキリする」「自分にとっての幸せの形が明確に見えて、その幸せをちゃんと守っていく」などの動きがかなり強まっていく
・「あなたは何者で、ここまでの人生で何を学んできたか。自分の振る舞いも見直し、何に対して一生懸命になっていくべきなのか」などの、「誰かが“こうしなさい”と教えてくれるわけではない、自分の生き方の姿勢」について、ちゃんと精査して、見つめ直していかなければいけない
・あなたは自らの振る舞い方を周囲から見られていきますし、「小さな約束をちゃんと守り続けられるかどうか」についても試されます。
・人に見られる部分ではなくて、人に見られない部分をどう管理し、自分でどう扱っていくか。
・「信用するからこそ、任せても、離れても、大丈夫」
・あなたが誰かのために使う時間も、「量」ではなくて、「そこに真心があったかどうか」とか、そういう質の部分で測っていってください。
・あなたに縁が出来ていく人は、あなたの取り組みをしっかりと感じてくれるはずです。完璧にやり過ぎなくても大丈夫なので、自分なりのプライドと意地を、爆発させていってみて。

■仕事運
・「他人と交流をして得ていく刺激」よりも、「自分で考え、地味に大変な毎日をどう乗り越えていくのか。その中で、静かに積み重ねていく経験値の財産」の方が重要になっていきそう
・周りからは「もっと色々なことを望んで良いんじゃないか」と思われるかも知れない
・仕事に対する「愚直さ」と「地味さ」と「地道なところで手を抜かないところ」は通していった方が良かったりします

■恋愛運
・「憧れの人」とか「自分とは別に分野で活躍している人」など、そういう「すごい人」と縁があったりするのです。でも、あくまで「自分は自分」というか、「私は、誰かによってパワーや安心感を与えられるつもりはない。逆に、そういうものを誰かに与えていくのが私の仕事だ」みたいに、そういう「やせ我慢的な美学」を貫いていく
・周りを見過ぎず、他人の反応を気にし過ぎず、「今の世の中、絶対に私みたいな存在が必要。だって、私から見ても、私みたいな人がいるとありがたいもん」と、自画自賛をちゃんとしていってください

・・・抜粋と言いつつ、気になったのが多くなってしまった。
よくわからんもの、前々から大きな流れの中で兆候がありそうだったもの、1ヶ月ちょいが経ち手触りが見え始めたもの。それぞれあるように思う。

文章(note)が書けるようになってきた

2022年-2023年、noteを書けなかった。
中学くらいからこの方、自分を表現するものは文章だった。それが約2年、文章を書けなかった。正確に言えば、書こうと思って途中でやめた下書きは何個もある。つまり、考えていることを完結させることができなくなった、という言い方な気がする。

原因は恐らく、いやほぼ間違いなく、2022年4月から通い始めた大学院、長野県立大学ソーシャル・イノベーション研究科の所以だと思う。
それまで自分がこの世界を観察するような目線や、それを表現する文章や、それに至るストーリーの作り方は、自分の中でなんとなくのパターンがあった。それは自分の思想を支える坂口安吾や塩野七生や梨木香歩といった作家であったり、風の谷のナウシカや蟲師やもやしもんや海街DIARYや蒼天航路やTYPE-MOON的な世界観であったり、BUMP OF CHICKENやI've soundのような歌詞であったり。
自分というものの感性や思考思想を因数分解していくと、なんとなくそういったあたりに落ち着くものがあったように思う。

ただ、そういったある意味「これまでの経験から依って立つところの地盤」みたいなのが、大学院によってぶっ壊された、気がする。
ソーシャル・イノベーションを起こす人材、つまり「ソーシャル・イノベーター」たり得るには、自身が様々な経験から培ってきた自分なりの世界や社会の見方、即ち「経験バイアス」的なものを取っ払う必要がある。そうでなくては、自身がこれまで気づかなかった違和感やワクワクに気づくことはできない、というのがカリキュラムを支える根本的な思想として存在する。

故に、大学院的には「思考系科目」と言われるような、「哲学思考」「アート思考」「身体性思考」「システム思考」「人類学思考」みたいな科目があり、そして「理解をしきる」ことを全く考慮しない講義がちょいちょい散らばっているw
そこに当てられてしまったあたりが、恐らくは書けなくなった要因なのではないのだろうかと推測している。

いや、正確に言えば、いろいろ書いてはいた。
色々な交付金やら補助金やら助成金の申請は結構書いていたし、4学期制が故に1年間に4回くるレポートラッシュはこなしていたし、所謂修士論文にあたるリサーチペーパーは40,000字くらい書いてしまった。
人間がとある期間中に書ける字数のキャパシティがあるとしたら、もしかしたらそれらを書いてしまったが故に、書こうと思ったことをストーリー作って完結化するまでの思考キャパがなかったかもしれないし、PCを打つ手首と指がオーバーフローしていたのかもしれない。なんなら、「時間がねえ!」という単純な要素もあるかもしれない。
でも、それらはどれも、「仕事」や「大学院」といった、ある意味「所属をしていて、強弱はあれど一定何かしらやらなければならないという義務的なものが課されている」ような類の強制力を伴った要素があると思う。一方、noteはそういったものはない。どれだけ自身が「書きたいことがあるか」であり、その書きたいを言語的に表現し切るまで自分の感性や思考と向き合うエネルギーと時間の根気が必要となる。
何か、その「感性」「思考」「言語表現」が、うまく噛み合っていなかったような気がしている。

2024年に入り、なんとなくこういった記事も書けるようになってきた。
理由は、定かではない。
でも、書くにあたってのマインドセットは、前より気楽になっている気がする。
何かを決めて書くではなく、書くことによって生まれてくる何かを、楽しみながら書いていってみたい。

スピードや進歩や規模じゃないことってなんだろう

ここ数年、スピードや機動力が落ちた。
大きな原因の一つは、間違いなく「家族」であり、特に「娘」である。

自分は多分、結構仕事が好きだ。正確に言えば、運の良さも作用して、興味関心があり自分が生きていく中で成し遂げたいことがその先にある仕事をさせてもらっていると思う。
だから、別に仕事以外の時間でも仕事をしていたりとか、あるいは仕事じゃないような活動などなどについて時間を費やすのも、そこまで苦にならない。だから、家族というものがいなかった時期は、手を動かすようなことも思考を巡らせる時間もネットワーキング的なイベントや飲み会に対して、自身の時間やエネルギーを費やすことも多かった。呼ばれればフットワーク軽く顔を出して交流を深め、何かやりましょうというお誘いとかにも「いいっすね」と、自分のキャパやリソースなどほぼ考えずにやろうやろうと言っていた。
それが、結婚し、妊娠を機に市街地から中間山間地域に引っ越し、娘が生まれ、明らかに時間やエネルギーの費やし先が変わった。何かお声がけをいただいたり、企画やプロジェクトが生まれようとしているときに、自身のそれらを意識するようになった。
有体に言えば、今までのようなエネルギーと時間を費やせなくなった。フットワークの軽さは相対的になくなった。スピード感もキャパも落ちている、と思う。

でも、それを、そんなに問題と捉えていない自分もいる。

一つは、前項でも出た大学院だ。
創設者であり研究科長の大室さんが担当する講義「ソーシャルイノベーション論」の初回の資料の最初に記載のある「合理性や効率性、誰にでもわかりやすく、結果がすべて、といった常套句から離れ、持続可能な社会を探るため、批判的にビジネスを捉え、真にこれから求められるであろうビジネスモデルやイノベーション、そして地域のあり方を皆さんと一緒に考えてみたい」という文言から始まる全体思想の影響は大きいのではないか。
スピード感、進歩、規模の拡大。それらを正とする、あるいはそのなさを悪とするようなことは、一般的によく言われる。それを多くの人は「成長」と表現する。でもそれは、根底には資本主義を支えるために張り巡らされた社会システムに基づいた価値観が強いように思う。それはこれまでの社会や豊かな暮らしを作ってきたのは確かだが、一方で諸手を挙げて100%全肯定すべきものではないと思う。繁栄の裏には衰退、進歩の裏には分断、豊かさの裏には貧しさがある。
無自覚無意識で持ってしまうそのような価値観だからこそ、あえてそうではないことを志向した先に、何かが見えてくるように思う。

一つは、プレイヤーの増加である。
さまざまな活動をしたり、地域で活動するような人が、自分が住まう塩尻では徐々に増えてきた気がする。5年前であれば、身の回りにいる誰かの「やりたい!」に対して、自分がとりあえず最初のフォロワーとなって一緒にやることが色々あった。でも、今の自分の身の回りに、「最初のフォロワー」が多くなってきている。数年前と比べて、自分が関わってない企画や活動が増えていってるように思う。
だから「よし、やろう!」と、必ずしも全てに自分が首突っ込んでやる必要は無くなってきている感覚がある。もっと言えば、三枝よりももっといい人材(能力的なものはもちろんだけど、性格的にも笑)が揃ってきている。
目の前に転がっているプロジェクトを手がけていると、そこでの経験でさまざまなものが習得できる。手がける数が減ることによって、その習得はなくなる。無くなったことによって、得たものも何かあるような気がする。

そしてもう一つは、地域や自然的な時間感覚である。
自身の住む中山間地域は、もう本当に徒歩10分も行けば山で、自然が手を伸ばせばある。そしてその中で育まれた文化や習俗がある。自然の中を流れる時間は、多分にして緩やかで、急速な変化は多くないと思うし、それに携わる人為も本来はそれに合わせていたのではないか。特に農業や、山。米のハゼ掛けや木材の輪掛け乾燥、機械の進化で急速乾燥が可能になったが、本来的に自然はゆっくりと変化をするものなのではないだろうか。そして、地域の中で執り行われる小野神社の御柱祭は、6年単位である。なんなら地域の小さな祠の祭りなんて、60年単位である。人の営みでありながら、この時間感覚である。
自然の中で流れる時間感覚は、多分地域の中にも浸透している。それはスピードや規模や進歩を追求するではないように思うし、だからこそ根付いているものがあるようにも感じる。

これから新たに家族が増え、もっと自分のエネルギーや時間は「何かを為すこと」に割けなくなる。手放すものがあるから、得られるものもある。
なんとなく、資本主義的、それを支える社会システムの価値観で正とされているものとは、異なる視点を持っていたい。
それが、何をもたらすのはわからないのだけど。

新型コロナウイルスで人類は、何を学んだのだろう

2023年、コロナが「社会的には」一旦の収束を見せた。生物的には、自然的には、「収束」という表現が正しいかは、分からない。

3年くらい続いた「コロナ禍」で、考えていたことをいくつか綴った。
割に、真面目なことを書いている。

新型コロナウイルスのような変異種は、必ずまた発生する。
それは、歴史が証明している。
では、またあのようなウイルスの変異種が現れ、パンデミックになった時に、人類はどんな対応をするのだろうか。

「対応」という言葉を使うときに、「政府の対応」をイメージする人は多いのではないだろうか。でも、自分が考える「対応」は、そうではない。
コロナ禍で感じた、「正義」の名の下に、個人の自由を保証する権利を安易に政府に売り渡すような、共和国議会がパルパティーンに強い権限を移譲し、パドメが「自由は死んだ、万雷の拍手の中で」と呟いたような、あのシーンを彷彿とさせるような対応が、繰り返されるのだろうか。
多分、繰り返される気がするなあ。

ウイルスとは、生物の進化と多様性、宿主動物の生理機能や生命現象、海洋・土壌の生態系における恒常性維持に関与しているという学説もある。

人類は、新型コロナウイルスを経て、何かしら進化をしたり、多様性を触発的たり、またそれらを許容する寛容さを育めたのだろうか。人の多様性が織りなす生態系の恒常性維持に関するレジリエンスが増したのだろうか。
それはもっと、時が経たないと分からない。
でも、コロナ禍前後で、いろんな人が生きやすい世界に、少しでもなっていればと願う。
そうでなければ、次にまた同じようなパンデミックが起きる未来が来た時に(それは確実にくる)、ウイルスじゃない要因で、耐えきれないような気がする。
誰かの自由を大手を振って奪えるほど、自分の中の正義は、強くない。

なりたい「何者か」について

詰まるところ、自分は何者で、何を為し、そのためにどんなキャリアを歩んでいくのか。しいたけ占いにも繋がる部分はあるなあと思いつつ、今は全く未来が見えていない。
何がしたいのか、どうなっていきたいのか、そのために何をするのか、バックキャスト的な自分の未来が分からない。

Facebookで友人になっている、その感性や感覚をとても素敵だと思っている方が、以下のような文面を投稿していた(一部改変しつつ、ニュアンスをお伝えします)。
「子どもがいることで自分はもう何者になる必要もなく、子どもらが生きていく世界を作っていくことにフォーカスすればいいなあと思えるのは、ありがたい」

この言葉が、ずっと身体の中をリフレインしていて。
その方はそう記載しながらも、間違いなく誰かの「何者か」になっている人だし、だからこそこの言葉に重みがあるのは、「何者か」ではない自分とは、全く違うものだなあとは理解をしている。また、自分は「娘が生きていく世界を作っていくことにフォーカスできる」ことは多分難しくて、それは栄誉や虚栄心や評価されたい欲みたいなのに、まみれているからなのだろう。
嫉妬もする、羨望もする、ないものねだりもする、憎悪もする、そんな自分を持て余すことなんて、日常茶飯事である。
でも、未来を見据えるにあたって「自分が何になりたいか」ではなく「娘らが生きていく世界を、どのように作っていけるか」という視点で、考えて行ってみたいと思う。

まとめ

そんな感じですが、35歳もよろしくお願いします。

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