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ショートショートその39『温泉ボクシング』/デートをドタキャンされて暇になったマモルがたどり着いたのは、血染めのリングのある温泉旅館だった……
温泉の楽しみはそのお湯だけにあらず。
その土地の土地料理や酒、景観、周囲の観光地、そこまでたどり着く車窓の眺めなど、楽しみは多岐に渡る。
ただし、この温泉は違った。
玄関に「当館、死亡事故ゼロ記録更新中!3日」という不穏な看板が掲げられている。
「温泉ボクシング?」
温泉旅館の大浴場の前にしつらえられた、血染めのリングを目の前に、戸谷マモルは戸惑いを隠せない。
リングロープには「前の客が少し興奮しすぎました」と書かれた札が下がっている。
「ね、面白いものがあるでしょう?」
マモルのクエスチョンマークに通りかかりの仲居が答える。
片目に眼帯をした仲居の笑顔が不気味だ。
「普通は卓球台でしょ?でもウチの卓球台は、ラケットで殴り合いのケンカが多発して撤去されました」
「ボクシングの方が平和なんですか?」
「ねぇ、面白いでしょう?」
と、仲居の返答はまるで録音を再生しているかのように空虚だ。
「でも相手がいない」
「待ってれば誰か来ますよ。前の方なんて、一週間待ち続けて...」
仲居は言葉を濁し、使い込まれたグローブを渡してくる。
グローブの赤い染みは、錆びているのだろうか。
マモルはグローブをはめ、サンドバッグに対峙する。
中から何かが「ドクドク」と鳴っているような気がした。
本来なら今頃、会社の同僚である木崎アユミと動物園デートしているはずだった。
昨夜、ドタキャンされてしまった。
動物園では、最近パンダが失踪して大問題になっているという。
「なにこれ、リング? おもしろーい!」
聞き慣れた女性の声。
振り返るとアユミが男と一緒にいた。
男は上司の浜谷。
その手には動物園の制服らしきものが握られている。
マモルはアユミから「浜谷からパワハラを受けている」と相談を受けていた。
その気晴らしのために動物園デートに誘ったのだった。
今、すべての点が繋がった。
マモルは血染めのグローブをひと組み掴むと、浜谷に投げつけた。
「係長、リングに上がってください。動物園の制服、似合ってましたか?」
浜谷の顔が青ざめる。
試合開始。
マモルの拳が、浜谷の顔面に吸い込まれていく。
鼻から噴き出す鮮血が、リングの染みと同化していく。
「そこまでよ」
アユミが手拭いを投げ入れた。
が、風に乗って大浴場に落ちる。
「あ、すみません。取ってきます」
アユミが大浴場に消えた直後、「きゃっ」という短い悲鳴と、どぼんという音が聞こえた。
「待て、アユミ!」
マモルが駆け出そうとした時、仲居が銃を渡してきた。
「まぁ、気を落とすな。気晴らしに射的でもするか?」
引き金を引くと、弾丸が防犯カメラを撃ち抜いた。
「お客様、実弾です。急いで大浴場へどうぞ」
仲居が意味深な笑みを浮かべる。
「そうだ。効能は...」
「うちの温泉の効能は、完全犯罪です」
仲居は眼帯を外した。マモルは息を呑む。
そこにいたのは人間の姿をした仲居ではなく、片目を負傷した真っ黒と真っ白の毛並みを持つ、立ち姿の...パンダだった。
【糸冬】
※この作品は『温泉ボクシング』のセルフリメイクです。