見出し画像

ショートショートその32『時を駆けるウェルズ』/自著『タイムマシン』で言いたかったことは、ちゃんと未来に伝わっているのか。それを確かめるため、S F作家ウェルズは実際にタイムマシンを開発して、未来へと向かった……

【第一幕:1895年の不穏】

ロンドンの街は、いつもの霧に包まれていた。

H.G.ウェルズは、書斎の窓から通りを行き交う人々を眺めながら、机の上に置かれた一冊の本を睨みつけていた。

それは『タイムマシンの愉快な冒険!』と題された薄っぺらな本で、表紙には彼の小説『タイムマシン』を明らかに模倣した、けばけばしい色使いのイラストが描かれていた。

「なんという愚かしさだ」

ウェルズは溜め息をつきながら、その本を開いた。

ページをめくるたびに、彼の眉間の皺は深くなっていく。

そこには、タイムトラベルを単なる娯楽の道具として描いた、陳腐な冒険譚が綴られていた。

未来への警鐘も、人類の行く末への懸念も、階級社会への批判も、そこにはまったく存在しなかった。

「私の意図が、これほどまでに理解されていないとは...」

暖炉の火が静かにはぜる中、執筆机の上に置かれた『タイムマシン』の初版本が、まるで彼の心情を代弁するかのように、柔らかな影を落としていた。

「ハーバート!」

物思いに沈んでいた彼の耳に、玄関から聞こえてきた声が飛び込んできた。

キャサリンだった。

約束の時間はとうに過ぎていたはずだ。

「キャサリン、すまない。すぐに行く」

ウェルズは急いで外套を羽織り、階段を駆け下りた。



玄関で待っていたキャサリンは、いつものように優雅な佇まいで、しかし少し不満げな表情を浮かべていた。

彼女の茶色の巻き毛が、夕暮れの光を受けて輝いている。

「また執筆に没頭していたの?」

「いや、今日は少し...厄介なものを見つけてね」

二人は並んで歩き始めた。

通りには、工場からの帰り道の労働者たちが行き交い、馬車の蹄の音が石畳を叩く音が響いていた。

ウェルズは、先ほどの本のことを話し始めた。

「私の小説が、こんな形で曲解されるとは思わなかった。タイムマシンは、未来を覗き見るための覗き穴なんかじゃない。人類の行く末を真剣に考えるための...」

「でも、それだけ多くの人があなたの本に興味を持ったということでしょう?」

キャサリンが、優しく微笑みながら言った。

「パロディが生まれるほど、あなたの物語は人々の心に届いているのよ」

ウェルズは足を止め、キャサリンの顔をじっと見つめた。

街灯に照らされた彼女の瞳には、知的な光が宿っていた。

「君の言う通りかもしれない。だが...」

彼は言葉を選びながら続けた。

「私には確かめる方法があるんだ」

「確かめる方法?」

「ああ」

ウェルズは、ふと遠くを見つめた。

「実は、私の地下室で密かに進めている実験があるんだ。まだ誰にも話していないが...」

キャサリンは首を傾げた。

「まさか...」

「その通りだ」

ウェルズの目が、実験家特有の興奮で輝いた。

「私は、実際にタイムマシンを作っているんだ」

夜の街に、教会の鐘の音が鳴り響いた。

ウェルズの言葉に、キャサリンは一瞬言葉を失った。

しかし、すぐに彼女特有の温かな微笑みを浮かべた。

「あなたらしいわ。でも、約束して。もし本当に未来に行けるなら、私のことも忘れないでね」

その言葉に、ウェルズは苦笑いを浮かべた。

彼女には冗談だと思われているのだろう。

だが、地下室では確かに、彼の描いた未来への扉が、少しずつ形を成しつつあったのだ。

霧深いロンドンの夜。

二人の足音が石畳に響き、やがて闇の中に消えていった。

ウェルズの心の中では、未来への扉を開くための計画が、着実に動き始めていた。



実験室の灯りが、不規則に明滅していた。

「これで、最後の調整は完了だ」

ウェルズは、地下室に設置された装置を見つめながら、キャサリンとの別れの言葉を思い出していた。

彼女は最後まで、これを単なる作家の妄想だと思っていたに違いない。

だが、目の前にあるのは、紛れもない現実の機械だった。

真鍮の光沢を放つレバーと、複雑に組み合わされた歯車群。

そして、中心には彼が「時間結晶」と名付けた、不思議な輝きを放つ鉱物が据え付けられている。

これは、某大学の物理学者から、極秘裏に譲り受けたものだった。

「さて...」

ウェルズは、慎重に携帯用の記録ノートを取り出した。

その革表紙には、金色の文字で「未来観察記録」と刻まれている。

「西暦2024年...」

彼は装置のダイヤルを設定しながら、つぶやいた。

なぜその年を選んだのか、自分でもよく分からない。

ただ、直感的にその数字が、何か重要な意味を持っているような気がしたのだ。

「私の小説は、本当に人々の心に届いているのだろうか」

実験室の片隅には、あの薄っぺらなパロディ本が置かれていた。

その存在が、彼の決意をさらに固めた。

「では...」

深く息を吸い込み、装置に腰掛ける。

心臓が早鐘を打っている。

これが失敗だったら? あるいは、成功したとして、帰還できなくなったら?

「いや、それこそが真の探検というものだろう」

彼は自分に言い聞かせるように呟いた。

机の上には、キャサリンに宛てた手紙が置かれている。

万が一の場合は、彼女に届けられることになっていた。

実験室の時計が、午前0時を指した。

「さようなら、19世紀」

ウェルズは、おもむろにレバーに手をかけた。

その瞬間、不思議な感覚が全身を包み込む。

まるで、体が霧のように溶けていくような...。

周囲の景色が歪み始めた。

実験室の壁が渦を巻き、時計の針が狂ったように回転する。

彼の目の前を、無数の映像が走馬燈のように駆け抜けていく。

第一次世界大戦。
第二次世界大戦。
人類の月面着陸。
コンピュータの誕生。
インターネットの普及。

それらは断片的な映像として、彼の網膜に焼き付けられていった。

「なんという...」

言葉を発しようとした瞬間、激しい光が視界を覆った。

そして──。



【第二幕:見知らぬ世界】

閃光が消えた瞬間、ウェルズの耳に異様な騒音が飛び込んできた。

彼が目を開けると、そこはもはや彼の実験室ではなかった。

薄暗い路地の一角。

周囲には見たこともない高さの建造物が林立していた。

まるで『タイムマシン』で描いた未来都市のように─いや、それ以上に非現実的な光景が広がっていた。

「西暦2024年...ここが本当に人類の未来なのか」

ウェルズはおそるおそる路地を出た。

そこで彼を待っていたのは、想像を遥かに超えた光景だった。

頭上では巨大な映像が建物に投影され、通りを行き交う人々は皆、手の中の発光する板状の装置に目を落としている。

自動車という乗り物については事前に調べていたが、これほどまでに街に溢れているとは。

そして、その騒音と排気ガスの量は、ロンドンの霧とはまた違った種類の重苦しさを街にもたらしていた。

「これは...私が警告した『モーロック』と『エロイ』の世界の別形態か?」

通りの片隅では、段ボールを敷いて横たわる老人の傍らを、高価そうなスーツに身を包んだ会社員たちが、一瞥もくれずに通り過ぎていく。

ウェルズは思わず足を止めた。

「まるで、彼らには見えていないかのようだ...」

ふと、彼の視界に入ったのは、巨大なガラス張りの建物だった。

「Apple Store」という文字が輝いている。

中では人々が、まるで礼拝堂にいるかのように、様々な機械を熱心に覗き込んでいた。

「新たな信仰の対象か...」

思考に沈むウェルズの肩に、突然何かが当たった。



振り返ると、スマートフォンに没頭したまま歩いていた女性が彼にぶつかったのだ。

「すみません!」

その声に、ウェルズは凍りついた。

目の前にいたのは、まぎれもなくキャサリンの面影を持つ女性だった。

同じ茶色の巻き毛、知的な輝きを湛えた瞳。

しかし、彼女が身につけているのは、19世紀のドレスではなく、スマートなスーツだった。

「大丈夫ですか? あの、もしかして...海外からいらしたんですか?」

女性は、とまどうウェルズの表情を見て、そう声をかけた。

彼女の胸には「TECH FUTURE社 企画部 佐々木美咲」と書かれた社員証が下がっていた。

「ああ、その...イギリスから来たばかりでね」

ウェルズは咄嗟につけた嘘に、自分でも驚いた。

しかし、この女性との出会いは、彼に奇妙な安心感を与えた。

「私、実は英文学が専門だったんです。ロンドンには何度か...」

彼女の言葉は、突然大音量の電子音で遮られた。

美咲は慌ててスマートフォンを取り出した。

「申し訳ありません。緊急の会議が...でも、もし良ければ、後でこの近くのカフェで」

彼女は急いでバッグからカードを取り出すと、ウェルズに手渡した。

「連絡先を書いておきました。今度、ロンドンの話を聞かせてください」

そう言い残して、美咲は雑踏の中に消えていった。



ウェルズは、手の中の白いカードを見つめた。

そこには、彼には理解できない記号のような文字列が印刷されていた。

「Eメールアドレス...?」

通りの向こうでは、巨大なデジタルサイネージが、新作スマートフォンの広告を映し出していた。

それは、まるで新しい階級社会の象徴のようだった。

金ピカに輝く巨大企業のロゴ、高価な電子機器、そして路上の段ボールハウス。

「これが129年後の人類の姿...」

ウェルズは深いため息をつくと、喧騒の中を歩き始めた。

彼の心の中では、社会改革者としての使命感と、キャサリンに瓜二つの女性への好奇心が、複雑に交錯していた。

頭上では、無数のデジタル広告が、夜空の星々を覆い隠すように、끝なく明滅を続けていた。



「TECH FUTURE」の受付で、ウェルズは戸惑いを隠せなかった。

日本語と英語が混ざり合う看板、そして彼の知らない文字で書かれた案内表示。

彼がタイムマシンの目的地として選んだのは「ロンドン」のはずだった。

だが、時空の歪みか、はたまた装置の誤作動か、気がつけば彼は東京にいたのだ。

「あの、佐々木さんはいらっしゃいますか?」

片言の英語で応対する受付嬢に、ウェルズは名刺を差し出した。

それは朝、美咲から受け取ったものだ。

数分後、エレベーターから美咲が現れた。

「本当に来てくださったんですね!」

彼女の表情には、嬉しさと共に、どこか安堵の色が浮かんでいた。

「実は、朝からずっと気になっていたんです」

「気になっていた?」

「はい。その...あなたの英語の話し方が、どこか古風で。それに服装も。まるで...小説から抜け出してきたような」

ウェルズは思わず微笑んだ。

「君は、よく観察しているね」

「文学部出身の悪い癖です」

美咲は照れたように言った。

「でも、お昼休みはもうすぐ終わってしまうので...よかったら、仕事終わりに近くのカフェでお話しできませんか?」



「Victorian Style Cafe」。

店名を見て、ウェルズは思わず苦笑した。

19世紀のロンドンを模したという店内には、明らかな時代考証の誤りが散りばめられている。

「ごめんなさい。ビクトリア朝がお好きそうだったので...」

「いや、むしろ興味深いよ。現代人の目に映る19世紀とはこういうものなのか」

二人はウィンドウ席に腰掛けた。

美咲は、おもむろに話し始めた。

「実は、私、H.G.ウェルズの研究をしていたんです。大学院で。特に『タイムマシン』について」

コーヒーカップを持つウェルズの手が、わずかに震えた。

「それで、朝お会いした時...あまりにも肖像画に似ていらして」

「なるほど」

ウェルズは深くため息をついた。

「だから声をかけてくれたんだね」

「ええ。最初は、もちろんコスプレか何かだと思ったんです。でも、その話し方や、立ち居振る舞いが...まるで本物のよう」

窓の外では、東京の夕暮れが深まりつつあった。

ウェルズは、決意を固めるように背筋を伸ばした。

「君は、信じられるかな。もし私が、本物のH.G.ウェルズだと言ったら」

美咲は、一瞬笑いかけた。

しかし、彼の真剣な表情に、その笑みは凍りついた。

「まさか...」

「私は、自作の装置で2024年にやって来た。目的地はロンドンのはずだったが、どうやら計算に誤りがあったようだ」

美咲は黙ってウェルズを見つめた。

その瞳には、疑いと期待が交錯している。

「証明することはできます?」

「ああ。例えば、私の小説の原稿段階での内容を...」

ウェルズが詳細を語り始めると、美咲の表情が徐々に変化していった。

そこに書かれていた内容は、未発表の史料にしか残っていないはずのものだった。

「でも、それでも...」

彼女は言葉を探している様子だった。

その時、カフェの壁に掛けられたテレビ画面に、ある映画の予告編が流れ始めた。

「あ!」

美咲が突然、声を上げた。

「それなら、見ていただきたいものがあります」

「なんだい?」

「『バック・トゥ・ザ・フューチャー』という映画です。タイムトラベルを扱った、20世紀の傑作で...」

「私の小説の影響を受けているのかな?」

「それを、確かめに行きませんか?」

美咲の目が輝いた。

「たまたま、近所の映画館でリバイバル上映をやっていて」

ウェルズは、彼女の提案に頷いた。

半信半疑の様子は残っているものの、純粋な知的好奇心に導かれているその姿は、どこかキャサリンを思わせた。

「では、映画館へ行こうか。未来の...いや、現代の物語を見に」

そう言って立ち上がる二人の背後で、夕陽が街並みを赤く染めていた。

ビクトリア朝を模した店内の偽物のガス灯が、いつの間にかほんものの明かりを灯し始めていた。



【第三幕:希望と失望の狭間で】

「これは一体、何という装置なんだ?」

映画館に向かう途中、ウェルズは奇妙な机ほどの大きさの箱型の機械を不思議そうに見つめていた。

ゲームセンターの片隅で、キラキラと光るその装置の前で、女子高生たちが歓声を上げている。

「プリント倶楽部...略してプリクラっていうんです」

美咲は少し照れたように説明した。

「その場で写真を撮って、デコレーションを施して...」

「写真?」

ウェルズの目が輝いた。

「しかし、現像液も感光板も見当たらないが...」

「デジタルカメラなんです。銀塩を使わない...」

「銀塩を使わない写真だと?」

ウェルズは興奮気味に機械に近づいた。

「これこそ、未来の技術というわけだ」

「よかったら...」

美咲は言いよどんだ。

「私たちも撮ってみません?」

「ああ、是非とも!これは見逃せない実験だ」

二人がブースに入ると、ウェルズは思わず声を上げた。

「なんという明るさだ!」

「ポーズを決めてくださいね」

「ポーズ?」

「はい、例えばこんな風に...」

美咲がピースサインをすると、ウェルズは困惑した表情でそれを真似た。

シャッター音が鳴る。

「次は違うポーズで」

「待ってくれ、まだ感光版を...あ、もう撮影は終わったのか?」

「今度は少し楽しい表情で!」

戸惑いながらも、ウェルズは美咲の隣で微笑んだ。

その笑顔は、徐々に自然なものになっていく。

「さあ、次は装飾を加えていきます」

タッチパネルに触れる美咲の手つきを、ウェルズは血眼になって観察していた。

「これは...まるで魔法のようだ」

画面上で、二人の写真にキラキラした装飾が加えられていく。

ウェルズの頭上には天使の輪が、美咲の周りには星が散りばめられた。

「本当に魔法みたいですよね」

美咲は嬉しそうに言った。

「でも、これも結局はテクノロジーなんです」

「テクノロジーが魔法になる...」

ウェルズはつぶやいた。

「これは『タイムマシン』の続編に使えるかもしれないな」

プリントが出てくると、ウェルズは息を呑んだ。

そこには、まるで異なる時代から来た二人が、不思議なほど自然な笑顔で並んでいた。

「これを...持ち帰っても良いかな?」

「もちろんです。私も一枚もらいますね」

美咲がシールを剥がそうとすると、ウェルズは慌てて止めた。

「だめだ!せっかくの写真を傷つけては...」

「あ、これはシール写真なんです」

美咲は笑いながら説明した。

「剥がすように作られているんですよ」

「なるほど...」

ウェルズは感心したように頷いた。

「君たちの時代は、写真さえも進化させたというわけか」

二人は写真を分け合った。

ウェルズは大切そうに、その小さな写真を上着のポケットにしまい込んだ。

「さあ、映画の時間です」 

美咲が時計を確認して言った。

二人が歩き出す後ろで、プリクラ機は相変わらずキラキラと光を放っていた。

その光は、まるで二つの時代を優しくつなぐ架け橋のようだった。



「これが...映画館?」

ウェルズは、巨大なスクリーンに映し出される鮮やかな映像に目を見張った。

美咲の案内で訪れた映画館では、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が上映されていた。

「私の大好きな古典なんです」

美咲は、ポップコーンを口に運びながら説明した。

「1985年の作品ですけど、今でも多くの人に愛されているんですよ」

スクリーンには、デロリアンが炎の軌跡を残して消えていく場面が映し出されていた。

ウェルズは思わず身を乗り出した。

「なるほど...タイムマシンを大衆的なエンターテインメントに昇華させながらも、人間の感情や倫理的な問題を丁寧に描いているな」

「そうなんです! 特に、過去を変えることの危険性について...」

「待ってくれ」

ウェルズは突然、美咲の言葉を遮った。

「君は、本当にその危険性を理解しているのかい?」

美咲は困惑した表情を浮かべた。

「もちろんです。だから映画でも...」

「いや、私が言いたいのは、現実の話だ」

ウェルズは声を潜めた。

映画館の暗闇の中、彼の表情は深刻さを増していた。

「今朝、君のオフィスビルの前で見かけた光景を覚えているかい? 路上生活者の老人たちを。彼らの存在に、この映画を楽しむ観客の何人が気付いているだろう?」

美咲は黙って下を向いた。

スクリーンの光が、彼女の横顔を不規則に照らしている。

「...現代社会の問題は、私も理解しています」

しばらくして、彼女は静かに答えた。

「でも、だからこそエンターテインメントには意味があると思うんです。人々に希望を...」

その時、美咲のスマートフォンが小さく振動した。

「あ、すみません。ちょっと確認を...」

彼女が画面を覗き込む姿を見て、ウェルズは再び言葉を続けた。

「君は気付いているのかい? その小さな機械に、人々が魂を売り渡していることに」

「でも、これのおかげで、世界中の情報にアクセスできるんです。知識の民主化が...」

「本当にそうかい?」

ウェルズは、ポケットから一枚の紙を取り出した。

美咲のオフィスビルで拾った広告のチラシだ。

「『新機種発売! あなたの人生をアップグレード』...こんな文句に踊らされ、人々は借金をしてまでも新しい機械を買い求める。これは新しい形の隷属じゃないのかい?」

映画の中では、主人公のマーティが未来を救うために奮闘していた。

その光景を背景に、二人の会話は続く。

「確かに...その通りかもしれません」

美咲は深いため息をついた。

「でも、このテクノロジーが、人々の生活を本当に豊かにしている面もあるんです。例えば...」

彼女は自分のスマートフォンを取り出し、あるアプリを開いた。

そこには、世界中の子供たちが無料でプログラミングを学べるプラットフォームが表示されていた。

「これは私が関わっているプロジェクトの一つです。貧困層の子供たちに、教育の機会を...」



その時、映画館の非常灯が突然明るく点滅した。

上映システムのトラブルだ。

スクリーンが真っ暗になり、観客たちがざわめき始める。

その暗闇の中、ウェルズは思わず苦笑いを浮かべた。

「皮肉な演出だね。テクノロジーへの過度な依存が、こうして人々を不安にさせる」

「でも、すぐに直りますよ」

美咲は優しく微笑んだ。

「現代の技術者たちは、きっと...」

彼女の言葉が途切れたとき、スクリーンが再び明るみを取り戻した。

観客たちは安堵の声を漏らし、再び物語の世界に没入していく。

ウェルズは、暗闇の中で静かにつぶやいた。

「君は、キャサリンにそっくりだ。同じように、希望を持ち続けることができる」

「え?」

「いや、なんでもない」

映画は佳境を迎えていた。

未来を変えることの責任の重さと、それでも前に進もうとする人間の意志。

ウェルズは、自分の小説に込めたメッセージが、こんな形で受け継がれていることに、複雑な感情を抱いていた。

スクリーンに映る光と影の物語を見つめながら、彼の心の中では、現代社会への批判と、その中でも光を見出そうとする美咲への共感が、静かに交錯していた。



【第四幕:怒りの閃光】

映画館から出た二人は、美咲のオフィスに向かっていた。

「私たちの新しいプロジェクトをお見せしたいんです」

美咲は少し興奮した様子で言った。

「きっとウェルズさんも興味を持ってくださると思います」

TECH FUTUREのオフィスは、夜になっても煌々と輝いていた。

ガラス張りのエレベーターから見える夜景に、ウェルズは思わずため息をついた。

「まるでバベルの塔だね」

「え?」

「人類の傲慢さの象徴さ。神に近づこうとして...」

その言葉は、エレベーターの到着を告げるチャイムで遮られた。



「これが、私たちの『メモリーエディット』プロジェクトです」

会議室の大画面に、美しいグラフィックが映し出された。

それは、人々の思い出を「編集」できるアプリケーションのプレゼンテーションだった。

「SNSに投稿された写真や動画を基に、AIが別の可能性を生成します。『もし、あの時違う選択をしていたら』という『パラレルメモリー』を作り出すんです」

美咲は誇らしげに説明を続けた。

「例えば、『プロポーズの場所を変えたい』とか、『卒業式でもっと良いスピーチをしたかった』とか...」

「待ってくれ」

ウェルズの声が、冷たく響いた。

「これは、記憶の改竄ではないのかい?」

「いいえ、違います!」

美咲は慌てて否定した。

「これは単なるエンターテインメントで...」

「エンターテインメント?」

ウェルズは立ち上がった。

その姿は、まるで法廷で証人を追い詰める検事のようだった。

「君は、人々の記憶を、娯楽の道具にしようというのか?」

「でも、これは現実の記憶を変えるわけではなく...」

「問題は、そこじゃない!」

彼の声が、会議室に轟いた。

「人生の選択には、それぞれに意味がある。後悔も、失敗も、すべてが人間を形作る。それを『編集』して、都合の良い『可能性』を見せることが、どれだけ危険か分かっているのかい?」

ウェルズは画面に近づき、プレゼンテーションの次のページを開いた。

そこには、広告収益のモデルが示されていた。

「そして、これか。人々の後悔につけ込んで、広告収入を得る。まさに『モーロック』そのものだ!」

「モーロック...?」

美咲は困惑した表情を浮かべた。

「私の小説に登場する、人類の暗部を象徴する存在さ。地下で機械を操り、地上の人々を操作する...まさに、現代の IT 企業そのものじゃないか!」

ウェルズは窓の外を指差した。

「見たまえ。あの広告で埋め尽くされた街を。人々は君たちの作り出す『可能性』という麻薬に魅せられ、現実から目を逸らし続ける。そして君たちは、その依存症から利益を得る」

「でも、私たちは人々に希望を...」

「希望?」

ウェルズは、机の上に置かれた資料を手に取った。

それは、プロジェクトの収益予測だった。

「これが君の言う希望かい? 四半期ごとの売上目標、ユーザー数の目標、広告収入の予測...」

彼は資料を激しく机に叩きつけた。

「そして、最も許せないのは、これだ」

ウェルズは机の上に置かれた別の企画書を手に取った。

そこには、新プロジェクトの宣伝文句として、『タイムマシン』からの引用が並んでいた。

"人類の可能性を解き放つ──H.G.ウェルズが夢見た未来を、私たちは実現します"
"時を超える物語は、今、現実となる"
"過去を変える、未来を変える──メモリーエディットが叶える、あなたの「もしも」"

宣伝文句の横には、ウェルズの肖像画まで使われていた。

「私の作品を、こんな商業主義の道具に使うとは...」



その時、会議室のドアが開いた。

夜遅くまで働いている社員たちが、物音に気付いて集まってきていた。

「私は、人類に警鐘を鳴らすために『タイムマシン』を書いた。テクノロジーが人類を分断し、退廃させる未来を防ぐために...」

ウェルズの声が震えていた。

「それなのに、その警告自体が、皮肉にも新たな商品の宣伝文句として使われる。なんという皮肉だ...」

美咲は、黙ってウェルズを見つめていた。

彼女の目には、涙が光っていた。

「私は...私は本当に、人々の人生をより良くしたいと思って...」

「分かっているよ」

ウェルズの声が、急に柔らかくなった。

「君は、キャサリンと同じだ。純粋な気持ちで、人々を助けたいと思っている。でも、時として善意は、最も危険な罠となる」

会議室の空気が、重く沈んでいた。

外の喧騒が、まるで別世界のもののように聞こえてくる。

「すまない」

ウェルズは深くため息をついた。

「少し...感情的になりすぎたようだ」

しかし、彼の目には、まだ激しい怒りの炎が燃えていた。

それは、単なる怒りではなく、人類の未来を案じる者の、深い憂いの表れでもあった。

窓の外では、巨大なデジタルサイネージが、明滅を続けていた。

その光は、まるで現代社会の矛盾を照らし出すかのように、会議室の闇を不規則に照らしていた。



【第五幕:光と影の狭間で】

夜の公園は静寂に包まれていた。

会議室での激しい言葉の応酬の後、二人は無言で歩いていた。

東京の夜景が、遠くで煌々と輝いている。

その光は、19世紀のガス灯とは比べものにならないほど眩しく、そして冷たかった。

「ごめんなさい」

ベンチに腰掛けた時、美咲が静かに口を開いた。

「私、自分が何をしようとしていたのか、本当の意味で理解していませんでした」

ウェルズは黙って夜空を見上げた。

光害で星はほとんど見えない。

「君は謝る必要はないんだ」

「でも...」

「君は、純粋に人々を幸せにしたいと思っていた。それは間違いじゃない」

風が吹き、美咲の髪が揺れた。

その仕草は、あまりにもキャサリンに似ていた。

「私の時代にも、同じような議論があったんだ」

ウェルズは懐かしむように語り始めた。

「産業革命が人々の暮らしを豊かにする一方で、労働者たちを疲弊させていく。進歩は、常に光と影を併せ持つ」

「でも、それでも技術は進歩していくべきだと思います」

美咲は真剣な表情で言った。

「確かに、私たちのプロジェクトには問題がありました。でも...」

彼女はスマートフォンを取り出し、あるアプリを開いた。

「これを見てください」

画面には、世界中の子供たちが、オンラインで学び合う姿が映し出されていた。

「これは、私が個人的に関わっているボランティアプロジェクトです。テクノロジーは、確かに人々を分断することもある。でも、つなげることもできるんです」

ウェルズは、その画面をじっと見つめた。

「君は、私の小説をどう読んだのかね?」

突然の質問に、美咲は少し戸惑った様子を見せた。

「『タイムマシン』は、確かに警告の書でした。でも私は...希望の物語でもあると思ったんです」

「希望?」

「はい。主人公は絶望的な未来を目にしながらも、それを変えようとして現在に戻ってきた。それは、未来は変えられるという希望の証だと...」

ウェルズは、思わず微笑んだ。

「君は、良い読者だ」

彼は立ち上がり、公園を見渡した。

「私は、この時代を非難するためにやって来たわけじゃない。理解するために来たんだ」

「そして、理解できましたか?」

「ああ」

ウェルズは深くため息をついた。

「人類は、相変わらず愚かで、そして素晴らしい」

彼は美咲の方を向いた。

「君のような人がいる限り、未来は暗くない」

「ウェルズさん...」

「私は、自分の時代に戻らなければならない。そして、もっと深く、もっと優しく、人類の未来について書かなければ」

その時、遠くの教会で鐘が鳴り始めた。

「もう、そんな時間か」

「本当に、戻ってしまうんですね」

美咲の声が震えていた。

「ああ。キャサリンが待っている」

「キャサリンって...」

「君にそっくりな人さ。いや、むしろ君が彼女にそっくりなのかもしれないね」

東の空が、わずかに明るくなり始めていた。

「さようなら、美咲。この時代の、キャサリン」

そう言い残して、ウェルズは暗がりの中を歩き始めた。

その背中が、朝もやの中にゆっくりと溶けていくように見えた。

美咲は、手の中の封筒を強く握りしめた。

封蝋には、見覚えのある印章が押されている。

それは、大学院時代に古文書館で見た、あの『タイムマシン』の原稿に押されていたものと、まったく同じものだった。



【終幕:時を超える言葉】

1895年、ロンドン。

実験室に戻ったウェルズを出迎えたのは、実験開始時と変わらない静寂だった。

時計の針は、彼が出発した時刻からほんの数分しか進んでいない。

「やはり、時間は相対的なものなのかもしれないな」

彼は実験机の上に、持ち帰った2024年の新聞を置いた。

その一面には、テクノロジー企業の栄枯盛衰を伝える記事が躍っている。

階段を上がり、書斎に戻ったウェルズは、机の上の薄っぺらなパロディ本を手に取った。

出発前には腹立たしく思えたその本が、今は不思議と愛おしく感じられる。

「これもまた、人類の創造性の表れなのかもしれない」

そこへ、玄関のベルが鳴った。

「ハーバート!」

キャサリンの声だ。

ウェルズは急いで外套を羽織り、階段を降りた。

「キャサリン」

彼は、いつもより強く彼女を抱きしめた。

「どうしたの?まるで何日も会っていなかったみたいな抱擁ね」

「ああ、実は君に話があるんだ」



二人は、いつもの散歩道を歩き始めた。

ガス灯の明かりが、ロンドンの霧を柔らかく照らしている。

「新しい小説を書こうと思う」

「また、未来の物語?」

「いや、今度は違う。現在と未来、過去と未来が、複雑に絡み合う物語を書きたいんだ」

キャサリンは、不思議そうな顔をした。

「具体的には?」

「人類は、常に進歩と破壊の狭間で揺れ動いている。でも、それは決して悪いことばかりではない。むしろ、その揺らぎの中にこそ、希望があるのかもしれない」

ウェルズは、懐から取り出したものは、プリクラ。

「まあ!」

キャサリンが声を上げた。

「この女性、私にそっくりよ!」

「そうだろう?」

ウェルズは微笑んだ。

「不思議な縁というものがあるものだよ」



2024年、東京。

美咲は、TECH FUTUREの辞表を提出していた。

「本当に辞めてしまうの?」

同僚が心配そうに声をかける。

「ええ。でも、これは終わりじゃないの」

彼女は、新しいプロジェクトの企画書を手に持っていた。

そこには「テクノロジーと人間性の共生」というタイトルが記されている。

「個人的なベンチャーを立ち上げようと思うの。利益第一じゃない、本当に人々の役に立つテクノロジーを作りたいから」

封筒の隣には、彼女の大学院時代の研究ノートがある。

その表紙には、かつて彼女が書いた言葉が記されていた。

「技術は人を分断するのではなく、つなぐために存在する」

そして、その下にはウェルズと撮ったプリクラが貼られている。

夕暮れの日差しが、そのプリクラを優しく照らしていた。



1895年のロンドンで、ウェルズは新しい小説の執筆に没頭していた。
2024年の東京で、美咲は新しいプロジェクトの第一歩を踏み出していた。

二つの時代で、二人は同じ言葉をつぶやいていた。

「未来は、私たちの手の中にある」

そして、その言葉は、時空を超えて響き合っていた。

【糸冬】

いいなと思ったら応援しよう!