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ショートショートその63『カイホウに至る(前編)』/かつて謎解きブームで一世を風靡した男が変わり果てた姿に。それを見たかつての同僚は……

「♪ライスフィールドにビネガー、ヘアー、ハンド」

冬の曇り空の下、公園のベンチで男がボソボソ歌を歌っていた。

膝の上には古びたノートが広げられ、意味をなさない数字と記号が所狭しと並んでいる。

垢じみた紺のコートは所々が擦り切れ、膝のあたりには黄ばんだシミが染みついている。

伸び放題の髭と、何日も洗っていないような油っぽい髪。

それでも、子供たちの声のする方へ、男の首だけが妙にぎくしゃくと動く。

「ねぇ、あのおじさん、なにしてるの?」

遊具で遊んでいた子供の一人が、男の異様な様子に気づいて指を差した。

「あっち行っちゃうダメ!」

母親が慌てて駆け寄り、子供の肩を掴む。

遊具の近くに集まった母親たちが、ちらちらと男の様子を窺いながら言葉を交わしている。

「あの人、例の……」

「ええ、吉川さんよね」

「テレビの謎解き番組の?」

「番組終わってから、おかしくなっちゃったんですって」

「そうなの。毎週百万人が解いてたって言うじゃない? それが、ある日突然……」

「自分の謎を解いてくれる人がいなくなって、精神を病んだらしいわ」

「会社も辞めたとか」

「奥さんも逃げ出したって」

「毎日ここに来ては、意味不明な言葉を呟いているのよ」

「最近は子供に話しかけようとするから、困ってるの」

「あの様子じゃ薬物かなにか……」 

「だって、急に大声で『解いて!』って叫んだりするのよ」

「先週なんて、小学生の女の子に数字の羅列書いた紙を渡そうとして……」

「ほんと警察呼ぼうかと思ったわ」

母親たちは慌てて子供たちを集め、遊具から離れた場所へ移動を始めた。

「あんな人、公園に来させないでほしいわ」

「でも、かわいそうよね。あんなに頭のいい人だったのに」

「子供に何かあってからじゃ遅いわ」

薄暗い空から小雨が降り始めた。

親子連れもそれぞれ家路に着く。

吉川は雨にも気づかず、ノートに新しい数字を書き連ねている。

その手の動きだけは、異様なほど正確だった。

「♪ライスフィールドにビネガー、ヘアーにハンド……」

ボソボソ歌を繰り返す。

膝の上のノートは雨に濡れ、インクが少しずつ滲んでいく。

そこに一本の傘が差し掛けられた。

「吉川さん」

声の主に、吉川は一瞬だけ目を向けたが、すぐにまた前を向いて歌い続ける。

「♪ライスフィールドにビネガー……」

佐藤律子は、かつての同僚の姿に言葉を失った。

テレビ局で最後に会ってから、八年。

あの頭脳明晰な謎解き作家の面影は、もうどこにも無かった。

「吉川さん、私です。佐藤です」

返事はない。

代わりに、吉川は震える手つきでノートを開き、走り書きで日付を書き連ねていく。

4月1日
3月3日
2月4日
4月4日


「♪ヘアーにハンド……」

佐藤が声をかけるたび、吉川は同じページに同じ日付を書き足していく。

その動きだけは、異様なほど几帳面だった。

「もう帰りましょう。寒いです」

そう言って佐藤が肩に手を掛けた瞬間、吉川は立ち上がった。

佐藤に一枚の紙を握らせる。

それは、先ほどまで書いていた日付の書き写し。

佐藤は思わず足を止めた。

「♪ライスフィールドにビネガー、ヘアーにハンド……」

吉川の歌声が遠ざかっていく。

佐藤は雨に濡れた紙を見つめていた。

4月1日
3月3日
2月4日
4月4日


かつて、彼の謎には必ず意味があった。

一見無意味な数字や記号の中に、確かな意図を隠し持つ。

解く者の頭の中で、ある瞬間にパッと景色が変わる。

そんな謎を作る天才だった。

「まさか……」

佐藤の目が見開かれる。

日付。月と日。それは……

「吉川さん……」

思わず振り返った時には、吉川の姿はもう見えなかった。


【後編に続く】



※作者より
さあ、読者しょくん、吉川が言いたかったことはなんなのか、後編が始まるまで考えてみてください。

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