距離感、だいじ。
2019年6月13日木曜日。映画「モデル 雅子 を追う旅」公開43日前。
先輩との親交をベースに、
「NPO法人スーパーダディ協会」に寄せてもらっている。
僕の役目は主に、動画収録担当だ。
そのスーパーダディ協会が、今夜
「フウフゲンカシンポジウム シブヤ 2019」を開催した。
「2018」は昨年10月に開催され、
僕はその動画収録を担当した。
その内容がまあ凄かった。
濃厚な議論、リアルな体験談、膝を打つ発見、
動画を編集しててもどこを削れば良いのか判らない。
今回も、そんな体験を期待して参加した。
壇上の方々に当てられて、
雅子との「いさかい」を回想しながらお話をさせて頂いた。
そのお話の一部。
今さらながらに象徴的だな、
と思ったので、あらためて書いてみる。
雅子と付き合いだした頃。
常に日傘を差して歩く雅子のそばを、僕も歩く。
そうすると、度々、日傘の「露先」つまり周囲の尖った部分が、
ちょうど僕の目のあたりに刺さるのだ。
ほぼ不意打ちなので、痛さと怖さのダブルパンチ。
そのたびに「痛え、なんだよ…」と独りごちてしまう。
雅子は雅子で、そのたびに「ごめん」と言うのも疲れてくる。
そして互いに機嫌がどんどん悪くなる。
僕にしてみれば、
多少の日光なんてどうってことないだろ、と思う。
雅子にとっての日傘の大切さなんて、想像もつかない。
一方、雅子にしてみれば、
近いところをのしのし身体を揺らせて歩く僕が、
多少ウザかったかもしれない。今にして思えば。
しかし、露先に何度も突付かれるうちに、
「この辺なら突付かれないだろう」という距離が、
なんとなく感覚で判るようになってくる。
いつのまにか、日傘で歩く雅子と歩調を合わせて、
なんの問題もなく和やかに散歩できるようになる。
二人で何を会得したのか。
「距離感」だ。
ここまでは近づいてきて大丈夫。
ここから内側には入られるとキツい。
雅子と僕、双方にとって、そういう「範囲」はあって、
夫婦として付き合っていくうちに、
その範囲、半径、距離感をつかめるようになったのだ。
それは、生活全般に及ぶ。
仕事を家に持ち込まない、
自分から話出さないかぎり相手の交友関係に突っ込まない、
自分の推し物件を無理やり押し付けない、
各々が楽しんでいる分野に無理して踏み込まない。
日傘の半径のように、
雅子にも僕にも「範囲」があって、
夫婦といえどもそこを無理して侵さない、
そんな感覚がいつしか身についたと思うのだ。
だからと言って、徹底してドライな関係ではない。
たまに相手の推しに興味があれば付き合う。
(僕が雅子の推し分野に付き合うほうが、圧倒的に多かった)
ただ、夫婦の間には、双方の推し分野でなく、仕事などでなく、
「夫婦の間のこと」が最優先である、
そういう感じだったと思う。
なので、
夫婦の間でだけ通じる「語彙」「語尾」「隠語」がある。
それは説明するだけ野暮で、他の人には本当に判らない。
いまでもたまに、そういう「語彙」などが浮かんできて、
ちょっと遣る瀬無くなることがある。
距離があるからこそ、
生まれる独特な関係。
これは経験してみないと判らない。
それこそが、相手を自分にとっての唯一の存在にする。
「おれは、雅子さんにとって、どうかね?」
「いいと思う。一生懸命だし。素直だし。……適当にほっといてくれるし」
わざわざ言葉で関係を確かめ合うことなどほとんど無かった。
上の二行は、そんな夫婦生活の中でも貴重なやりとりだ。
悪くないだろ。