寿命各々
先日、喪中の葉書が届いた。父宛である。
葉書であるから、できるだけ見ないようにと心がけても、どうしても見ないではいられない。ついつい目にしてしまうのが人情である。時と場合によってはそれも良しかと開き直り、文面を読んでみると、一〇五歳で父が他界しましたので、新年のご挨拶はご遠慮願いますと書かれてあった。
差出人はS氏で、父の知り合いである。
S氏の父上は、私は直接お目にかかったことはなかったが、その界隈では名の知れた人だった。理由はその年齢である。八十くらいでは特に騒がれもしないが、これが八十八の米寿を過ぎた辺りから、周囲の関心を集め始める。男の場合、米寿といったら平均寿命をとうに過ぎているものだから、そこから更に年齢を重ねて行くと、それだけでもう驚かれ、何もしていないのに、生きているだけで褒められるのである。おまけにS氏の父上は一〇〇歳を過ぎても自分のことは自分でできるという、誰もが羨む幸運な人生一〇〇歳時代を迎えていた。一度お目にかかりたいと思っていたが、ついにお会いすることなく黄泉の世界へと旅立ってしまわれた。
十一月二十五日は大伯父の祥月命日だった。今から八十年前の昭和十九年、フィリピンのルソン島で大伯父は二十二歳の若さで戦死を遂げた。昨年、回忌で言えば大伯父の八十回忌の年だった。それを機に、私が「ルソン島に散った青年」と題した、大伯父の短かった生涯を追ったドキュメンタリーを書いたが、八十年という歳月は、大伯父が生きた証を無情にもこの世から消し去ってしまっていた。わずか二十二年という短い人生だけではページ数が少な過ぎて、一冊の本にするには不可能だった。
そこで、伝説のピアニスト・原智恵子、幻の映画女優・桑野通子、ブギの女王・笠置シヅ子、ブルースの女王・淡谷のり子といった、同時代を生きた四人の女性芸術家たちの人生を、独自の解釈を交えて書き上げた評伝を一冊にまとめ「ルソン島に散った青年とその時代を生きた女性たち」という、少々長ったらしいタイトルの本を上梓した。
遺骨も何も帰ってこなかった大伯父は、今もフィリピンのルソン島のどこかで静かに眠っていることだろう。もし、今遺骨が発見されたとしても、それが大伯父のものかどうかを確認する術はない。遺族と断定できる弟である祖父のDNAの保存をしていなかった。これが、その子供のDNA(姪)となると、血縁関係の立証までに辿り着くのかどうか、私には分からない。
あまりにも手遅れとなった状態で、何とか間に合ったという感が強かった、不完全な大伯父のドキュメンタリーの完成だった。
S氏の父上は、大伯父より三つばかり年上の一〇〇歳賢者であった。きっと第二次世界大戦の時は戦争にも行っただろうし、様々な地獄を見てきたに違いない世代である。
もしかしたら、自身も戦争で命を落とす一歩手前のこともあったかもしれない。やっとの思いで帰還を果たし、戦後の混乱期、食糧事情もままならないそんな時代に、敗戦を境に二十代の若者は軍国主義から民主主義へと、日本が大きく方向転換を余儀なくされた時代に、適応しなければならないという「大仕事」も待ち構えていた。
大伯父が戦死した昭和十九年から八十年間、S氏の父上は生きて来たということになる。
方や戦死して今年で八十年。方や一〇五歳まで健康に暮らし、人間がこの世で経験する喜びや悲しみといった、種々様々なことを全て経験し尽くしての人生の完結と言っても過言ではない。そんな年数を生きられた。
病気や事故、天災や人災といった様々なアクシデントに見舞われ、与えられ授かった本来の人生とは大きく変わってしまうことがある。
人が生まれ持った寿命というものは、こういうことを回避できる力をも備えて、生き延びる力があるかどうかということも絶対条件の一つであると思わざるを得ない。
戦争さえなければ、大伯父は一〇〇歳までは生きなかったとしても、それ相応の年数を生きて天寿を全うしたかもしれない。そう考えても、やはり同じ条件で戦争へ行っている世代のS氏の父上が、ついこの間まで存命だったことを考えると、やはり大伯父は戦死する運命にあったのだろうか。送られた先が南方だったということも生きては帰れない、片道切符を渡されたようなものだったのだろう。同じ戦場に行くにも、行った場所でその後の生死も大きく左右される。環境というものを考えると、それもまた戦争とは関係なく、人が健康に生きていく上で重要なものの一つであるということは間違いない。
人の寿命というものは、何を以て寿命と言うのだろうかと、考えずにはいられなくなった。そうは言っても、自分ではどうすることもできなかったあの激動の時代、不幸にも戦争に巻き込まれ、方や祖国の母を思い、戦場の露と消えた若き命もあれば、その死にゆく姿をまざまざと目に焼き付けて、その後の長い人生を、責任を感じながらどこか決まりの悪い思いを抱きながら、生きていくしかなかった人間もまた、それはそれで地獄であったことだろう。
八十年という歳月は、人が生まれて死んでいくそれに匹敵する、途方もない歳月である。同時代を生きた人間も次々と死に絶えていく中、その人々が慎ましくも生きて命をつなぎ、種族を絶やさなかったお陰で、今の私たちの暮らしが、そして命があるのである。
世の中の不条理を最も表しているのが、この寿命であるように私には思えて仕方がない。その不平等な寿命で、人はどんな人生を送るのか。それもその人次第なのである。それを直接知る者がいなくなった時、その存在を後世に伝えていくこと。それが、今を生きる私たちの「しなければならないこと」の一つなのではないだろうか。
大伯父が戦死しなければ、今私はこの世に存在しないかもしれない。しかし、どこで間違えたのか、私はこうしてこの世に存在している。大伯父の死を踏み台にして、私の母も私自身も、今こうしていつ終わるとも知れない、寿命と言われる真っ只中を生きているのである。
寿命各々というタイトルで書いたエッセイだが、せいぜい私もいつ終わるとは分からない、その寿命の只中を、これが寿命だったのだと納得のいく最後が迎えられるよう、あまり気張らずに、分かったような顔をせず生きていかなければと思うのである。
大伯父は幸せな人生だったのだろうか。
これからも、私の問わず語りが終わることはない。
2024年11月26日 書き下ろし