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勉強したくて入った大学で授業のつまらなさに絶望した -僕がNPOコンサルになったワケ③-

『僕がNPOコンサルになったワケ』というテーマでの3本目の記事。2本目からかなり間隔が空いてしまったが、整理したり振り返ったりするのに時間がかかるのは分かっていたことなので、ゆっくり書いていきたいと思う。​

大学で課外活動にのめり込んでいったワケ

前回の記事では大学に入学し、2つのボランティアサークルに所属したところまで書いたので、今回からはその2つのボランティア活動について振り返ってみたいと思う。なぜこの記事を書くのに数ヶ月も時間がかかったのかといえば、もちろん仕事が忙しかったのもあるが、ボランティア活動の振り返りを行うということは言ってみれば僕の大学生活そのものの振り返りを行うということだからだ。それ程に僕はこのボランティア活動という課外活動に力を注いでいた。まずは、なぜ僕がそこまで課外活動にのめり込んでいったのかについて振り返っていこう。

憧れていた「大学の授業」の絶望的なつまらなさ

前回の記事で書いた通り、僕が大学でやりたかったのは、社会を見る自分なりの視点を身につけるために「勉強をして知識や考え方を養うこと」と「実際に『社会』に触れるものとしてのボランティアを経験すること」の2つだ。それが、実際にはボランティアという実践の方にばかり時間を使うこととなった。

その理由は端的に言ってしまえば「勉強がつまらなかったから」だ。勉強が、というか授業が。もう衝撃的につまらなかった。今でも当時の衝撃を鮮明に覚えている。僕が入学した年の授業は水曜日から始まったのだが、水曜、木曜、金曜と3日通ってみても一つも面白い授業はなく、相当に意気消沈した。少ないのぞみを週明けの授業に期待したが、月曜日もやはり面白くなく、最後の火曜日の午前中の授業だけが唯一面白いと感じることができた。(後にこの授業を担当していた先生のゼミに入り卒論指導もしていただくことになる)それ以外の授業は、当時の先生たちには申し訳ないが、本当につまらなかった。

つまらない、というだけでは少し言葉足らずかもしれない。なぜつまらなく感じたのか。それは「簡単すぎた」からだ。初回の授業だったからというのもあるかもしれないが「え、そんなレベルから始まるの?」と非常に落胆した。

今から思えば「大学の授業」というものに高望みしすぎていただけだとも感じる。大学での学問は授業で受動的に教わるものというよりは自分の関心や学習スタイルに合わせて自分で組み立て、自分で学んでいくものだと思うし、実際にその後僕は自分なりの大学の活用スタイルを見つけて真面目に勉強してきたと思っている。

それでも、一年間の浪人生活を経て大学にたどり着くまでに「大学での授業」に対する理想と期待がどこまでも高まっていた僕にとって、憧れていた時間がつまらないものだというのは非常につらいことだった。浪人生活をしている間の「予習」として社会科学分野の本も何冊も読んでいて(新書が中心だったのでごく簡単なものだけれど)知識や認識が高校の授業レベルよりはある程度進んでいたことも僕が「そんなところから説明し始めるのか」と感じた原因だったかもしれない。

そんなワケで、大学に入ってやろうとしていたことのうちの一つである「勉強」に対して入学一週間にして大きな落胆をしてしまったことが、自分の大学生活の力点を課外活動に移していったことの背景になったということだ。

授業に落胆したからこそ感じた「筑波に入って良かった」

一方で、授業に落胆したからといって浪人してまで筑波大に入学したことを後悔したかというと全くそんなことはない。むしろ落胆したからこそ「筑波に入って良かった」と感じたのだ。

この感覚は少し回りくどく、そして相当に傲慢な考え方だとも思うのだが、当時の僕が感じたのは「筑波の授業はレベルが低い」というよりは「筑波でもこんなもんか」という感覚だ。それを自分で確かめることができて良かった、と感じていた。

僕が入学した社会学類は当時「少人数制」ということも売りの一つにしていた。教授や講師の数が国内の社会科学系の大学では多く、定員100名程度の学生に対して30名ほどいたように記憶している。一学年で考えれば学生約3人に対して一人の割合で先生がいるということだ。もちろん数がいれば良いという訳ではないが、社会科学を学ぶ環境としては悪くないはずだと感じていた。その筑波ですらこんなもんか、という感覚。

筑波に入るために浪人をさせてもらう

本来、我が家では家計事情的に浪人は許されていなかった。その僕がなぜ浪人をしたのか。浪人せざるを得なかったわけではない。僕は現役のときに、国公立の中期と後期ではそれぞれ別の大学に受かっていた。センター試験自己採点結果の判定や実際に受けた試験の難易度からするとおそらくどちらの大学にもトップクラスの成績で受かっていたと思う。

しかし、僕はそこに行く気にはどうしてもなれなかった。特に後期試験で受けにいった国立大の試験会場や行き帰りのバスの中などで、「勉強をせずに受けに来た」「早く遊びたい」などと友人とおちゃらけている会話がいくつも耳に入ってしまった。それは僕が思い描いていた大学生活とはあまりにもかけ離れた言葉だった。

中期や後期の大学で感じたことと、判定的にも自分の勉強の実感からも落ちるはずがないと信じていた筑波に落ちたということ。このギャップから僕は「筑波に行けば僕の考える理想の大学生活があるはず」という思考に支配された。後期試験で受けた大学は父の出身大学だったこともあり相当に親とは揉めたが、それでも浪人をする意思を認めてもらい、入学にこぎつけたのが筑波大学だった。

自分で考え、行動し、確かめること

そしてそんな筑波で出会ったのは簡単すぎる授業であり、きっと頭はいいのだろうけどバカなことばかり言ったりやったりしている同期たちだった。つくづくと「筑波でもこんなもんか」と感じたしもっといえば「東大に行っても一橋にいっても多かれ少なかれこんなもんだろう」と感じた。(後に東大生の知り合いも何人もできてこの感覚は確信に変わった)これは僕にとって大事な感覚だった。

なぜなら、浪人をせず中期か後期の大学に入学していたとしたらどうなっていただろうか、と考えたからだ。やはり同じように授業などに落胆していたはずだが、その後にきっと僕は考えただろう。「筑波に行けていればこんな思いはしなかったのに」と。その鬱屈した思いを抱えながら生きていたらおそらく僕はもっと捻れた人間になっていたと思う。こんなややこしい思考をしている時点で相当に捻れているとは思うけれど。

(今から思えばこの時期にはすでに父は癌にかかっていたはずであり、それが発覚していれば浪人という選択はできなかったと思う。まったくもって「身の丈」には合わない進路選択をして生きてきたものだ、と思う。両親には感謝してもしきれない。)

また、一方で自分の学力的な能力に対しても「こんなもんか」とも感じる機会もあった。僕自身は現役のときも浪人時も筑波大学のみを志望して、筑波に絞って対策をしたし、現役のときも浪人のときもものすごく勉強していた。それでやっと入ったのが僕にとっての筑波だった。だけど、そこに大した勉強や対策や苦労をせずに入ってきている人もたくさんいるという事実を知った。

この事実と向き合うということは、自分の学力的な限界や、容量の悪さや、あるいは勉強というものに対しての過度なほどの徹底的な向き合い方などを、相対的に知るという経験であり、この自分に対しての「こんなもんか」という感覚もまた、経験することができてよかった。こちらの「こんなもんか」はもし現役で入学していたらあまり感じていなかっただろうものだ。

自分が望んだ環境に、自分の全力を使ってたどりついて、自分で良くも悪くも「こんなもんか」と確かめることができた。落胆を感じたという経験ではあったけれど、ある意味では一つの成功体験でもあったということだ。ややこしく長くなったが、それでもこの経験は僕にとって大切なもので、「自分で納得行くまで考えて選択をしたことに対しては結果によらず満足度が高い」という自分なりの感覚、大げさに言えば人生観にまで昇華されている。この感覚は、僕自身が大学卒業後にあまり一般的ではないキャリア選択をしていく際の一つの拠り所になっているものだ。

ここまで書いてみて、授業に対しての落胆も、自分の能力に対しての感覚もどちらも傲慢な捉え方だとつくづく感じる。実際大学に入学した頃の僕は相当に傲慢であり、短気で視野の狭い人間だったと思う。いよいよ次の記事からはそんな僕がボランティアという課外活動の中で何を経験し、何を感じたのかを書いていけたらと思う。

これまでの記事

僕がNPOコンサルになったワケ -大学選び編-

僕がNPOコンサルになったワケ -ボランティア学生時代編-

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堤大介
NPOコンサルや伴走支援者になりたかった数年前の私のような方に向けて仕事をする中で感じたことや考えたことを書いています。 支援者育成やNPO支援の仕組み化などに取り組んでいくために、もしいいなと思ってもらえたら、サポートしてもらえると嬉しいです。