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二人の二塁手:ダリル・スペンサーとドン・ブレイザー

もうすぐ始まるWBCで一番注目している選手は大谷翔平でもダルビッシュ有でもありません。私が一番注目しているのはセントルイス・カージナルス所属の外野手、ラーズ・ヌートバーです。逆輸入(?)選手です。何か新しいものを持ち込んでくれそうで、期待しています。ダリル・スペンサーやドン・ブレイザーのように。

2003年11月14日に他のサイトへ掲載した原稿を加筆修正しました。==================================

それは偶然であるが、ある種の必然でもあったようにも思われる。

ダリル・スペンサー(Daryl Spencer)は1964年、阪急ブレーブスに入団。

ドン・ブレイザー(本名 Don Lee Blasingame)は1967年、南海ホークスに入団。

ほぼ同時代にパ・リーグでプレーしたこの二人は、奇しくもキャッチャーとセンターラインを形成する二塁手だった。そしてこの二人が当時南海ホークスのキャッチャーだった野村克也に与えた影響は計り知れない。それは後年 “ID野球” として結実し、日本野球界の一つの大きな潮流となる。

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身長190センチを越えるダリル・スペンサーは来日早々の記者会見で「俺のバットと頭脳で阪急を優勝させる!」と豪語した。そして予告どおりスペンサーは1年目から打撃で大活躍し、36本のホームランを放つ。そして2年目には野村と熾烈な三冠王争いを展開した。

その巨体からくりだすパワーは打撃だけにとどまらず、猛烈なスライディングで相手二塁手を弾き飛ばしたり、ホーム上でのクロスプレーでは相手捕手に正面衝突したり、スペンサーのド迫力プレーは凄まじいものだった。

だがスペンサーが阪急だけではなく、パ・リーグ全体に影響を与えたものはその “野球筋肉” ではなくその “野球頭脳” ではないだろうか。

かなり大味な野球をプレーしていた当時の日本球界で、「俺のバットで・・・」という発言は理解出来たとしても「頭脳で・・・」という部分を理解するには少し時間がかかったはずだ。しかしこの部分こそがスペンサーのもたらした最大の功績と言える。

今でこそあたりまえの事だが、対戦打者の傾向やクセを把握し、その場で守備位置を変えるスペンサーの動きは他の選手にも影響を与え、野球にも頭脳が必要であるという意識を植え付けた。打撃や 守備だけではなく、走塁技術やインサイドワークなど大リーグ仕込みの緻密な野球を日本に持ち込んだのはスペンサーだと言える。また “サイクルヒット” という概念を日本に紹介したのもスペンサーだ。

野村にとってスペンサーは倒すべき阪急ブレーブスのクリーン・アップの一人であり、守りの要として捕手と共にセンターラインを形成する二塁手だった。野村は相手の巨大戦力であるスペンサーを徹底分析することにより、自分のID野球を少しずつ形成していった。

天敵と朋友

ダリル・スペンサーから遅れること3年後の1967年に南海ホークスへ入団したドン・ブレイザーはシンシナティ・レッズなどでプレーしていたメジャーリーグ経験も豊富な二塁手だった。

1番・二塁手として活躍した期間はわずか3年と短かったが、その間に確実な守備でベストナインを2度受賞している。

偶然にもスペンサーと同じ二塁手として来日したブレイザーが南海ホークスにもたらしたものは、スペンサーと同様に、本場メジャーリーグの野球知識だ。それはグラウンド内のプレーで発揮されるだけではなく、ベンチ内でも発揮された。

ブレイザーが日本の野球界に本当の影響を与えるのは現役引退後の70年からだ。その年から野村は選手兼務のプレイングマネジャーに就任すると、知恵袋としてブレイザーをヘッドコーチとして招聘する。そして77年、野村が沙知代夫人の問題で南海を追放されるまで、ブレイザーはヘッドコーチとして野村をサポートする。選手として野村がグラウンドでプレーしている間、ベンチで指揮をとっていたのはブレイザーだった。

76年に江本孟紀との電撃トレードが成立し、阪神タイガースから江夏豊が南海ホークスに入団した。

先発・完投に固執していた江夏を説得し、ストッパーとして再生させたのは野村の功績のように思われている。だがそこに野球知識が豊富でメジャーリーグ事情にも詳しいブレイザーがいなければ、江夏再生プランはもっと難航して、ひょっとしたら先発からストッパーへの転向は "絵に描いた餅" に終わっていたかもしれない。

キャッチャーと二塁手として、また監督とヘッドコーチとして、野村はブレイザーとの10年間の共同作業期間中に自らのID野球理論をさらに進化・深化させたはずだ。

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ブレイザーは野村と共に南海を去った後、78年広島カープにヘッドコーチとして迎えられる。

その後、79年には阪神タイガースの監督に就任、猛虎再建に着手する。その時にブレイザーが掲げたのが “Thinking Baseball”、つまり考える野球である。しかし残念ながらブレイザーは監督2年目の80年5月、当時の小津球団社長と選手起用の問題で衝突し、阪神を退団している。

そして81年、まるで鮭が最後には自分の生まれた母川へ回帰するように、ブレイザーは凋落が始まった南海ホークスに監督として復帰する。しかしその在籍期間はたったの2年間。それは阪神での監督期間よりも長いが、あまりにも短い。

時はまだ80年代初頭。時代はID野球を理解するには早すぎたのかもしれない。

野村の天敵であったダリル・スペンサーと野村の朋友であったドン・ブレイザー。

この二人の二塁手の存在と貢献を語らずして、今日のID野球は語れない。

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