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自分史とFIFAワールドカップ / 1982年 第12回スペイン大会
2002年7月22日に他のサイトへ掲載した原稿を加筆修正しました。==================================
1982年。私はパリ第1大学パンテオン・ソルボンヌに通っていた。
以前住んでいたスペインと比べ、フランスは圧倒的に物価が高く、慢性的な金欠病に悩まされていた。フランス人の悪友達は金が無かったせいか、自分のアパートにテレビを持っているものは少なかったが、私はポンコツの小さなテレビぐらいはなんとか買うことが出来た。
同じような金欠病に悩む悪友の一人、ベトナム系二世のジョルジュは、ある日突然、小さな中古の白黒テレビを買った。
ジョルジュは読書家で節約家だ。パリ郊外に実家があり、結構裕福な家庭で育った男だが、両親からは必要最低限の生活費しか受け取らなかった。大体、フランスでは親から大金を貰い、何不自由なく過ごしているタイプの学生は確実に軽蔑される。
ジョルジュがテレビを買った理由はワールドカップ・スペイン大会を見る為だった。たまには悪友たちと騒いで酒を飲むこともあるが、私同様にいつも金欠病でヒーヒー言っている男に、中古で白黒ではあるが、テレビを買わしてしまうとは・・・。 これがワールドカップの持つ影響力か!と正直驚いた。しかし新品のカラーテレビではなく、中古の白黒テレビを買うところが、いかにも節約家のジョルジュらしく、失礼ながら少し笑ってしまった。
ジョルジュは自分の行動を正統化(?)するため、熱弁をふるいだした。いかにサッカー・ファンにとってワールドカップが楽しみなイベントであるか、いかにフランス代表チームが素晴らしいか、そして、
いかにミシェル・プラティニが凄い選手であるか・・・。
前回の1978年・第11回アルゼンチン大会に続いて、またしてもプラティニである。このイタリア系フランス人の名前は確実に私の頭の中にインプットされた。
だが6月はフランスの大学の学年末。テストやレポート提出などで、大学生にとっては一番忙しい時期だ。
ジョルジュほど頭の良くない私にとって、ワールドカップより大学の単位を落とさずに取ることの方が先決問題だった。もしその時に熱しやすい自分がワールドカップにのめり込んでいたら、1次リーグならぬ1次試験を突破出来ず、確実に留年していただろう。
残念ながら、ジョルジュご贔屓のプラティニが率いるフランスは準決勝で西ドイツに破れてしまう。
そして決勝ではその西ドイツがイタリアに3 -1で破れる。
翌日、西ドイツで起こった本当の事件。
ドイツ人の熱烈なサッカー・ファンである夫は、妻が食事にスパゲッティを作ったことが気に入らず、口論の末に撲殺してしまう。いやはやワールドカップ熱、恐るべしだ。
第12回スペイン大会
1982年6月13日~7月11日
参加チームが16から24に、試合数も38から52に増えた。
この大会はパオロ・ロッシの大会とも言える。80年のリーグ八百長事件に関係した疑いで、2年間の出場停止処分を受けていたロッシは大会直前に復帰する。徐々に調子を上げ、準決勝の対ブラジル戦でハットトリックを決めるなど大活躍。ロッシは6ゴールで得点王に輝く。
この大会の前年、81年にピカソの名画「ゲルニカ」がスペインに戻ってきた。
スペイン内戦時にフランコ反乱軍を支援したナチス・ドイツはスペイン北部バスク地方のゲルニカ村を空爆。戦争の野蛮さ、惨禍さを描いた「ゲルニカ」は、フランコ独裁政権が終焉し「スペインに真の民主政府が樹立されるまで」というピカソの遺志で、ニューヨーク近代美術館に寄託されていた。
そしてスペイン大会のポスターを描いたのは、ピカソと同じカタルーニャ地方出身のミロだった。
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