自分史とFIFAワールドカップ / 1994年 第15回アメリカ大会
2002年7月31日に他のサイトへ掲載した原稿を加筆修正しました。==================================
1992年9月、まだ残暑が厳しい頃、約13年のフランスでの生活を終えて、私は日本に戻ってきた。
普通ならここからが大変だ。食うために、まずは仕事を探さなければならない。
しかし当時はバブル景気も終焉を迎えていただけに、職探しという難関には厳しい時期だった。それに普通に考えれば景気の良し悪しに関係無く、大した資格も持たず、長年ヨーロッパで気ままな生活を過ごしていた人間を採用してくれるような企業は少ない(まず皆無だろう)。
しかし私の場合、パリで勤務していた日系企業の紹介で、なんとかその系列会社に中途採用で滑り込むことが出来たのは幸運だった。後はなんとか日本社会に馴染み、サラリーマン的生活に順応し、仕事を覚えてこなすしか道は無い。いくら精神的に参って胃がシクシク痛み、下痢が止まらなくても毎日会社に行かなくては。少しぐらいはスペイン・フランス帰りの意地を見せなければ。
日本社会に溶け込むため、悪戦苦闘を繰り返す日々が約1年半以上続いた後、1994年6月、第15回アメリカ大会直前、突然のアメリカ出張が決まった。行き先はロサンゼルス近郊の街、パサデナだ。
パサデナで一番有名なイベントは、毎年1月1日に行われる全米大学フットボールの決勝戦、“ローズボウル” だが、そのスタジアムを用いてワールドカップの試合がパサデナでも行われる。これでワールドカップの初観戦もひょっとすると可能か?と一瞬思ったが、残念ながら出張の期間は6月17日まで。つまり開幕戦の日に帰国しなければならない。それに開幕戦が行われるのはロスではなくシカゴだった。
しかしアメリカは本当にサッカー不毛の地だ。パサデナでは開幕間際でも大した盛り上がりも無く、取引先のアメリカ人、J・Cなんかは「World Cup, What ?」程度の認識で、スポーツの話題といえば、シカゴ・ブルスのマイケル・ジョーダンの事や、LA・ドジャースの新人、ラウル・モンデシーの事ばかりだった。ちなみに野茂英雄は翌年の1995年にLA・ドジャースに入団することになる。
そして私にとっても今回の大会は残念ながら “不毛の大会” だった。
日本はいいところまで予選で勝ち進みながら、例の “ドーハの悲劇” でまたしても本大会に参加出来なかったし、第二の故郷・フランスも予選最終戦の終了間際にブルガリアにゴールを奪われ、これまた予選で敗退した。ちなみにブルガリアは前回優勝国のドイツを破って準決勝にまで勝ち進む。
唯一の楽しみは、前回からファンになったオランダの試合だったが、マルコ・ファンバステンは引退寸前、ルート・フリットは監督との確執で大会には出場せず、かつての黄金トリオで唯一出場していたのはフランク・ ライカールトのみだった。しかしオランダの凄いところは、ちゃんと次代のスターを着実に育てていたところだ。ファンバステンの後を継ぎ、オランダのエース・ストライカーの座を掴んだのはデニス・ベルカンプ。
オランダはドゥンガ率いるブラジルとの準々決勝で3 - 2で負けこそしたが、ベルカンプはそのブラジル戦で1ゴールを決め、私のお気に入りとなる。
で、 決勝の地はパサデナのローズ・ボウル。過去にワールドカップを3度ずつ制しているブラジルとイタリアの戦いだけに好勝負を期待したが、そんな夢の顔合わも 試合としては盛り上がりに欠け、両者無得点のまま延長戦に突入するも決着がつかず、ワールドカップ決勝史上初のPK戦を迎えることになる。
そして最後のキッカーとして、ロベルト・バッジョが登場する。絶対に外すことが許されない状況下でバッジョは蹴り出したが、無念にもボールはゴールの上を飛んでいった。ブラジルはPK戦を制し、大会4度目の優勝を飾る。
※ PK戦は勝者を決める手続きに過ぎず、公式記録上、決勝は「引き分け」として扱われている。
第15回アメリカ大会
1994年6月17日~7月17日
中南米と欧州以外の大陸で開催された初めての大会。国際サッカー連盟(FIFA)がアメリカに目をつけたのは、10年前に約2億5千万ドルの黒字を生み出したロサンゼルス五輪の実績による。
既存のアメリカン・フットボールの競技場を用いた今大会は、政府援助のない、初の民営ワールドカップでもあった。これを強く支えたのが放映権料。試合時間は欧州のゴールデンタイムに設定され、約半数の試合が正午から午後2時の間に始まり、夏の暑い日差しの下で選手はプレーした。
アルゼンチンの ヒーロー、ディエゴ・マラドーナがドーピング(禁止薬物使用)検査で陽性となり、大会から追放される。チームの支柱であるマラドーナを失ったアルゼンチンは崩壊し、1次ラウンドで姿を消す。
また、アメリカ戦でオウンゴールを献上したコロンビア代表のキャプテン、CBのアンドレス・エスコバルは帰国後、暴漢に射殺される。アメリカに負けて1次ラウンド敗退が決定した時、多くの代表選手は非難や報復などを恐れて帰国を拒否してアメリカに留まったが、エスコバルだけはオウンゴールに関して説明する義務があると一人で帰国した後の惨劇だった。
オレグ・サレンコ(ロシア)は対スウェーデン戦で1ゴール、対カメルーン戦では5ゴールを決め、フリスト・ストイチコフ(ブルガリア)と共に6得点で得点王に輝く。
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