日光で涙したのは誰か
先日、栃木観光に行ってきました。
一日目には『那須どうぶつ王国』に入国し、国民たる動物達と大いに戯れました。
二日目には『日光東照宮』に行き、涙しました。
実際には涙の雫は垂れてはおりませんが、僕のつぶらな瞳がうるっとしたのは事実です。
何人かの人にその話をすると、前世に何かあったのではないか、という話をされました。
要するに、その場所にゆかりのある人物だったのではないか、と。
なるほど確かにそういう話も面白いけれど、実際に潤いを感じた身からすると、決してそういった類いの感動ではないように感じております。
というのも、僕はあの場所に行って、実在した人物達の生き様ですとか、生活ですとか、出来事ですとか、そういった情景を思い浮かべて明確に感動を覚えたのです。
つまりそれが前世への思いなのでは?と思うかもしれませんが、多分違います。
僕は一度、消防署から救急車がサイレンを鳴らして出動するのを目の当たりにして、なんだか泣きそうになったこともあります。
それは、どこかの誰かに不幸があったのかもしれないとも思ったし、そういう人の為に急いで出動する救急隊員の方はどんな思いであるか、そういったことに思いを馳せてのことでした(二番目の兄が消防士という事実も一役買ってるかもしれない)。
悲しみと頑張れって気持ちなどから来る昂ぶりです。
ともすると前世論からすると僕は江戸時代の火消しだったという可能性もまあ否定できなくはないですが、それはともかく、これらは要するに想像力から生まれる感動であろうと思うのです。
それは大人になるにつれて増える経験値によって養われるのか、それとも僕が本をよく読むようになったからなのかはわかりませんが、いずれにせよ以前と比べてグッと涙もろい。
あの場所で僕は僕の知らない僕に泣かされたのではなく、あくまでも僕は僕として僕の感動で涙腺が緩んだのだと信じたい。
ただ心が豊かになったのだと信じたい。
ゆかりなんか関係なく、己で様々なことを感じ取れる深みのある男に、私はなりたい。
おしまい