第七話 認識の記憶 連載 中の上に安住する田中
家に帰り、ついさっき買ったばかりのレコードを手にとって眺めてみた。店にいた時は若干の羞恥心が働いていたが、いまや気兼ねなくジャケットを観察できる。僕としたことが、こんな日がくるとは思ってもみなかった。
帰ってきてからどれくらい経っただろう。ふと窓に目をやると、褐色に染まった雲の切れ目が見える。プレーヤーすら持っていないのに、このレコードに、世界中の誰よりも深く入り込んでいた気がする。なんとも不思議だ。
どんな音がするだろうか? いや、想像する隙も無いほど明確に聞こえてくる。どこまでも続く深淵に向かって、影に厳しい明暗を写す喉から哀しみの唄が発せられている。彼女の声は硬質な岩肌に反射せずとも染み込んで、無機質な残響を残していた。今でも克明に記憶している。
無機質な残響は、私の頭の中にあったつまらないことを、どこかに追いやってしまった。ついさっきまでしていたことも忘れていた。数分前に訪れた宅急便の配達員との会話すらうろ覚えだ。あの配達員は確実に自分のことを狙っている。よからぬことを企んでいるのか、ただ単に好意を抱かれているだけなのかは定かでは無いが、確実に何かある。あの時までは、あの配達員がくるたびにビクビクしたり、そわそわしていたが、そんなこともどうでもよくなっていた。翌日の会議で使うプレゼンテーションを任されていることも完全に忘れていた。あの時は全てを忘れていた。
烏の鳴き声は、常軌を逸しかけた思考を、現実的な範囲に止まらせた。この人は何者なんだろう。名前をどう発音するのかもわからない。ビルの影に隠れて見えぬ夕焼けに木霊する烏の啼泣は、未知の領域に入りかけていた私の体を、私が本来あるべき安楽椅子の上に引き戻した。
この人にはどうしたら会えるのだろうか。それとも本当に存在しているのだろうか?
私の携帯電話から発信音が聞こえる。ダイヤルした覚えは無いが、画面を見るからに「彼女」にかけているらしい。この際切るのも面倒だし、嫌がらせをしているみたいだから、あいつが出るまで待つことにした。何を話そう……。
そういえばゆうちゃん、ゆうちゃん、って呼ばれてたけど、そう呼ばれていた理由は未だ分からない。田中誠の何処をどう解釈すれば「ゆう」になるのか、このままだと一生の謎になってしまうかもしれない。純粋に理由を聞いてみようと思った。ただ純粋に。
続く
連載 中の上に安住する田中 ——超現実主義的な連載ショートショート——