第五話 雨が降る——風が吹く 連載 中の上に安住する田中
僕は振られたと言う認識で間違いないだろう。
帰り際に、
「もうもらえないよ、申し訳なくて」
と手土産に買ってきたケーキを僕に返却しようとした。正直甘いものは嫌いだから、返されても困る。今日からは「NO」と言える男になれる気がする。僕は手ぶらでエレベーターに乗り込んだ。全てを失って自由を手に入れた。
どうせかっこいい男でも見つけたんだろう。口のうまい男お調子者と、毎日遊んで暮らしたいんだろう。この際だから認めよう。つまるかつまらないかで言えば、僕はつまらん男だ。それにしてもこの世は理不尽だ。地道な努力と我慢をし続けてもなお、こんな仕打ちを受けなければならないなんて……。何も悪いことしてないのに。ああ、清々しい。
何を見ても空虚に感じる。御池大橋を渡っていると、カモメの鳴き声が聞こえてきて、それは彼女の言葉を思い出させるようだった。彼女は僕のことを「良い人」だと言った。でも彼女は「良い人」といても「幸せ」になれないらしい。「良い人」が嫌なら、そこらへんのチンピラとでも付き合えば良いじゃ無いか。そしたら毎日「楽しいこと」ばかりだろう。だがそういう「幸せ」を追い求める奴らに限って浮気したり、見栄を張ったり、すぐ離婚したりするんだ。いつまでも夢見てれば良いってもんじゃ無い。現実と理想の区別がつかないほど阿保だとは思わなかった。
曇っていた空には、ちらほらと晴れ間が見えてきた。大通りから逃げ出した高瀬川沿いの細道には、昨晩降り注いだ雨が未だに残っていた。ところどころ小さな水たまりがあったが、いちいち避けて歩く気力も無く、靴を濡らして歩いていた。
急に右に曲がりたくなって右に曲がった。目に入るのは音楽スタジオや個人営業の酒屋など、最高に怪しげな店々だった。河原町通に近づくと、左手に教会が見えた。一瞬だけ入ってみようかと思ったが、阿保らしくなってやめた。信号待ちの間は目をつぶって彼女との思い出を探ってみようともした。何も思い出せなかった。
ふと目を開けると帽子が宙を舞っていた。僕の足元に落ちたから反射的に拾ってしまった。帽子の主は横断歩道をもう半分ほど進んでいる。僕は彼についていった。横断歩道を渡ると左に曲がって、コンビニをすぎたところで、男は朽ちた茶色の雑居ビルに入っていった。薄暗い廊下の奥にはエレベーターがあって、扉は閉まりかけていた。
走ったのは何ヶ月ぶりだろうか。エレベーターの扉が閉まりきる前に、全速力で近づいてくる僕に気がついた男は「開く」ボタンを押してくれていた。
続く
連載 中の上に安住する田中 ——超現実主義的な連載ショートショート——