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余白の町で豊かさを考える

2020年10月上旬。半年ぶりの東京。渋谷駅に降り立ち、目の前に流れていく景色にひどく混乱していた。マスクをしながら無表情で行き交う人々、そこかしこに貼られた広告からこちらに向けられるタレントたちの笑顔、どこからともなく聞こえる流行曲。光、色、音、匂い。街の情報の多さに目が回る。目から、耳から、鼻から入り込んでくる情報たちに、自分の「時間」をジリジリと奪われる感覚にとらわれていた。半年前まで、僕は本当にこの町に住んでいたのか? 9年間も暮らして「日常」だった風景が、たった半年たらずでここまで変って見えることが信じ難かった。

僕はこの春から、東川町という北海道の小さな町に住みはじめた。東京で生活することの疲弊感はあったが、かといって「田舎への強い憧れ」はなく、仕事がきっかけの移住だった。人口約150万人の関西中核都市で生まれ育ち、社会人生活の9年間を東京で過ごした自分にとって、30歳を過ぎてから「たった8000人の町」で暮らすことは、人生を左右するには十分すぎる出来事だった。

東川町での生活は、都会に比べて圧倒的に「余白」だらけだ。車を40分も走らせれば北海道最高峰の旭岳に辿り着き、外に出て5分も歩けばため息が出るほど穏やかで美しい田んぼが一面に広がる。家の窓から見える大きな木には日々違う種類の小鳥たちが集まり、その根元でキツネが散歩をしている。この町へやってきた4月、東京では「緊急事態宣言」が発令され、「3密」という言葉がテレビやSNSを賑わせていたが、そもそも「密」なんてものはほぼ存在しない。「北海道(≒札幌)」は大変な事態になっていたけど、札幌から150km以上あるこの町は、「密を避けて」と声高に発信される現実は、距離的も精神的にも少し遠い場所で起きていることだった。

今年4月まで過ごした東京では、ドアツードアで出社まで1時間。地方出身の僕には憧れだった中央線に住んだが、朝の通勤電車が遅延したときの絶望感たるや。乱雑にごみ袋へ押し込められる紙屑のように、ぎゅうぎゅうと駅員に背中を押され電車に閉じ込められ、そのまま身動きも取れず目を瞑ることしかできない。「この時間はなんのためにあるのか」なんて問いをよく巡らせていたものだ。それが今、自宅からたった5分歩けば、職場の椅子にストンと座れてしまう。夜も同じだ。東京だとどんなに早く帰れても20時。それが今は17時半に仕事を終え、近くのスーパーで今日の献立を想像し、北海道の新鮮な食材をゆっくりと吟味しても、18時には自宅についてしまう。もちろん、仕事の内容も変わったから単純な比較はできないが、「あの時の僕の時間はなんだったのだ!」と叫びたくなる。東京で日々の仕事に疲弊し、欲しい欲しいと願っていた、「余白」や「時間」が、この町で手に入ったのだ。

そして半年後。久しぶりの東京へやってきて、街の情報の多さに驚いた。しかも、その大半は僕の時間を奪おうとしている。この街で暮らしている時にはうまく見過ごしていた情報への耐性が、都市を離れることでいったんキャンセルされていた。必要性がないくせに刺激的で、ある種の快楽を孕んだ情報が、次々と流れこんでくる。その情報たちに潜む「消費」の意識に飲み込まれそうになる。
同時に、東川町での暮らしは「豊か」だと思った。少なくとも僕は、生きていく上でこんなたくさんの情報に時間を割くことはできない。自分は東川町という町で得た「時間」を使って、豊かな暮らしをしているのだと思った。

ーーー

東川へ帰り、元の生活に戻っていく。

いつものように仕事を終え、食事を済ませ、自宅のソファに座りテレビをつける。どのチャンネルでも、どんな時間帯でも代わり映えのしないバラエティ番組の中で、人気の若手芸人が売れっ子女性タレントをいじり、別の芸人がそれに突っ込み、笑いが起きている。特になんの刺激もない良く言えば安定感したバラエティ番組をぼうっと眺める。スマホでInstagramを開き、タイムラインに流れる画像をスクロールするうちに、いつの間にかYoutubeでお気に入りのチャンネルを開いて最新動画を眺める。そこに出てきた便利そうな雑貨が気になり、パソコンを開いてAmazonと楽天で価格を比較する。都会の喧騒から日常へ戻り、「いつもの生活」に戻りホッとできる時間。

あれっ...。

ふと自分が、一連の行動に「安心」していることに気づく。この安心感は、東京の暮らしの中で、「消費」に身を置くことでストレスを発散する、知らず知らずに身に付けてしまった習慣だ。その習慣を、東川町で生まれた豊かさの余白に持ち込んでいる。せっかく生まれた「時間」を無意識に消費していたのだ。

東京の生活で欲しいと思っていた「時間の余白」。この余白を、自分は本当に「豊かさ」に結びつけられているか? 渋谷駅の喧騒の中で思った「豊かさ」が、うわべだけの豊かさになっていたことを思い知らされる。テレビやSNS、ネットショッピング自体は悪いことではない。でも、東京の生活で染み付いていた時間の使い方を、この圧倒的に豊かな環境でも継続し、今まで通り「消費」で埋めている。

「自分にとっての豊かさ」を考えずして、豊かさを手に入れることはできない。自然豊かな場所が「豊かさ」に直結するとは限らない。都市生活者が想像する「豊かな暮らしが手に入る地方暮らし」も幻想だ。どんな場所にいても、「豊かさ」は自分で思考し、掴み取らなければいけない。

ーーー

自分の無自覚さにいささかのショックを受けていた頃、読み溜めていた雑誌をパラパラとめくった。ある一文が、ふと目に止まった。

立ち止まり、突然できた空白の時間を使って、世界を見回す。当たり前だった風景が止まっている。止まってしまうと、動いていた時には気づかなかったことに気づくのだ。いや、いったん歩みを止めてしまい、それまで見る時間がなかった、周りの光景をあらためて見ること、それこそが「考える」ということなのだ。
出典:朝日新聞出版『小説TIRIPPER』創刊25周年記念号 高橋源一郎「コロナの時代を生きるには」

コロナ禍の生活を捉える記述だった。でも「空白」や「余白」を使い世界を見渡すことは、コロナとは関係なく必要だ。

東川町は、気づけばすっかり「白」で埋め尽くされる季節になっていた。ゆっくり深呼吸をして、家の窓から外を見回す。この町の空は広く、高く、美しい。そんな豊かな空間の中で、自分がなぜここいるのか? を、この町でどうしたいのか?考えてみる。余白や時間をただ消費するのではなく、よく観察しよく思考することで世界を広げ本当の「豊かな時間」を手に入れなければならない。豊かさとは何か。その豊かさをどう扱うのか。今住んでいる町と、これまで住んでいた街からの「問い」に、丁寧に向き合う必要がありそうだ。

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#PS2021




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