縄文の構造を東京で想像
国立博物館の縄文展に行ってきた。
「国宝」「重要文化財」というやつがあっちこっちに。火焰型土器も遮光器土偶もあって、「おおお〜〜〜〜教科書のやつ〜〜〜」ってなった。
国宝って、実際に他の土器や土偶と比べると(“国宝”フィルターがいくらかかかってるかもしれんけど)やっぱり完成度が高い。火焰型土器は状態もいいせいか、ほんとにどの角度から見ても美しいし格好いい。いやはや、見応えありました。
縄文展の写真は撮れなかったので、今日の写真は別のフロアの鳥さん土器。かわゆ。
お盆ということもありめっちゃ混んでたんだけど、土偶とか土器を見ながら、隣でじっくり見ていたお父さんが「縄文人って、自分の作った土器が未来人にこんなふうに見られて嬉しいんかなあ、それともそんなつもりじゃないから嬉しくないんかなあ」と話していて、おおおーーー、いいないいな、その純粋な想像、と思う。
縄文土器って、いろんな想像ができる。縄文時代って言葉がない時期なので、その意味や由来が断定されることがない。だからどう見ようが自由だ。そもそも日本のことなので思いを馳せやすい。何千年も昔のものが目の前にあるのはロマンもあるし気持ちも昂ぶる。
「縄文土器って今でいう“デザイナー”みたいなんがおったんかな」
「このぐるぐるの形ってどんな意味があるんやろ」
「耳飾りおしゃれ〜縄文人っておしゃれや」
「うわーこの土偶めっちゃお尻の形綺麗。縄文人もこんなお尻してたん?」
「この土偶作った人、絶対不器用や」
「この土器やったら今でも使えるやん、便利そう」
会場で耳を澄ますと、そこかしこからいろんな「想像」が漏れて聞こえてくる(脳内で関西弁に変換されております)。みんな楽しそう。
想像するのって、楽しい。
こういう人の手によって表現されたものは、想像の余地を残しているからこそ、受け手の解釈と合わせて輝きだす。美術作品とか、もちろん写真も、小説やテキストだって、全部説明されていないからこそ、そこに受け手の想像が入り込んでどんどん面白くなっていく。
表面的に綺麗だけのものなんて面白くない。作者と受け手の共鳴、共感、あるいは拒否や拒絶という、正でも負でもいいからその感情が生まれるからこそ、人らしい表現として成立するんだと僕は思う。
縄文展をみて、そして隣にいたおじさんの一言のおかげで、想像力の大切さを改めて感じたし、「受け手」にとって想像の入り口がちゃんと設けられていることの重要さも感じた。
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