生きる意味を整理してみる 02
前回、「後世への最大遺物」という本の名を出して終わりました。
この本は、僕が前職時代、とってもお世話になった外部コンサルタントの方から紹介された中の一冊です。
「大連くんには哲学があるから、この本を読むといいよ」と、見に余るお言葉と共に教えていただきました。
後世のために、残せる最たることは何か?
その答えは、本の裏表紙に明記されています。
「後世への最大遺物は、高尚なる生涯である。」
この言葉に触れたのが27歳。
その時は、ユートピアの世界の話かと思っていて、「とは言え、現実味ない話だよねー」なんて、斜に構えていたなぁ。
今も、真っすぐにそれができるに値する人間だとは到底思えてない。
だけど、当時の僕より今の僕のほうが、「高尚なる生涯」に向けて向き合えている自信はある。
高尚なる生涯の定義とはなんなのか。
僕はそこは決めたくない。
決めると、無意識にそこに調整していくと思うから。
その「定義」という枠に意識が向くことは、僕にとって近視眼だからしない。
人は一日に、35,000回ほどの意思決定をしているとも言われる。
だから、「さて、今回の意思決定はどれ?」と、頭の中で問うてくるシーンは一日に何回もある。
その時々で、「高尚なる生涯」という言葉もほぼ同時に降りてくる。
今のこの状況において、「高尚なる生涯」に値するのはどの選択なのか?
迷ったら僕は、そう考えるようにしている。
大きな意思決定の時は、結構、ぶれずにそうしていると思うんだなー。
でもね、そうではない選択をしている時もある。そっちのほうが多いかな・・!
例えば・・・
耳かきって、本当はよほどのことがない限りやる必要ないんだよね。耳鼻科の先生が言うには。でも、気持ちいいからって数日に1回はしちゃう。耳にとってはよくない、という情報は分かっていて、高尚なら、ちゃんといつでも、その"正しさ"に則った意思決定ができるとおもうんだよね。
お酒も、「もう一本!」って飲んでるし・・・(今も)。
でも、僕はそんな自分もわりと好きになってきた。
1,2年前は、できてない自分が嫌だったけど、最近は、できない自分も内部化できてきた。
よく、学生とかにも言うんだけど、あらゆる自分を認めることで、次が見えてくる。今の自分を否定している(向き合わずに閉ざしている)時って、次がちゃんと見えないんだよね。
だから、できてない時もあってよくて。
でも、できる時もあって、僕は間違いなく「高尚なる生涯」を送っていきたいと思っているんだ。
徐々に、比率をあげていけばいいと思っている。10年後くらいに5%くらい、高尚な人間っぽい意思決定ができていけばいいと思っている。
自分の人生だけで、完結させることはなんだかおもしろくなくて、未来の世代とも連携しながら、人の、人類の進化に関わっていけたら幸せだろうな。
以上、とりとめもない文章ですが、思い浮かぶままに、体裁も整えずに、書いてみました。
お読みいただきありがとうございました。
10年前の記事はこちら。