ものづくりと自分の価値
何かを作るにあたって、それに価値を依存したいという気持ちが少なからずあった。
つまり、こんな素敵なものを作れるということは、それだけの価値がある人なのだと。
ものづくりは自分に価値を見出すための手段だと。
だけど最近考え方が変わってきた。
たとえばミスチルの桜井さん。あれだけ多くの人の、僕の心に届く曲を作れる桜井さん。
ミスチルの楽曲が世に出たおかげで、他人の僕にも桜井さんの存在を感じることができる。
これは紛れもない作った曲達の力だ。
ここで、もし桜井さんがこれらの曲を作っていなかったら?
僕はきっと桜井さんのことを知らないだろう。
多くの人は代わりに他の曲に心を寄せるだろう。
じゃあ、もし桜井さんが曲を作ってなかったら桜井さんの価値は損なわれるのか?
そんなことは決してない。桜井さんに関わりのある人にとっては、桜井さんは依然桜井さんなのだ。たとえ曲を作っていようと、いまいと。
変わらず大切なひとりの人間なのだ。
何が言いたいのかというと、価値というのは赤の他人、ただの外側からの映り方だけだということ。まあ評価というのはなんでもそうだろうけど。
その人は何をしていようとその人。そう思うとそもそも命の価値という考え方からズレていた。
作ることを重く考えすぎていた。
いい言葉を見つけられても、見つけられなくても、いい曲を作れても、作れなくても、僕は僕なのだ。君は君なのだ。
それでもこんな言葉を見つけてみたいと思った気持ちはたしかにある。
残ったものは純粋にただ作ってみたいという気持ちでしたとさ。
見つけてみたいから探す。作ってみたいからつくる。
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