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宇多田ヒカルとの時間旅行に行ってきた~HIKARU UTADA SCIENCE FICTION TOUR2024 感想@さいたまスーパーアリーナDay1~





「一緒に、宇多田ヒカルのライブ………行かない?」


 なんていう可愛らしいお誘いに「行きたいと思ってたんだよ!」と心の中でがっつり友人にハグをしておよそ半年後、私たちは宇多田ヒカルの周年記念ツアーに行ってきた。
 苦笑いを通り越して真顔になるくらいの恐ろしい倍率を超え、席を引き当ててくれた特別なその人は長年の宇多田ファン。対して私は、日常で耳にした事はあるけれど別にファンではない、けれど宇多田ヒカルに興味の出てきたポッと出という人。しかし、そんな違いは最初からどこにもなかった。私達はこの日、宇多田ヒカルの人生を垣間見て、共有して、たくさんの歌と言葉を受け取り感謝を送り合ってきた。

 人生ってまったく、何がきっかけになるかわからないものだ。思いがけない方向から、出逢いがある。その何度目かになる7月24日その日もそうだった。


 20年前が青春時代だった人にとっては、彼女の楽曲がもはや日常どころか心に寄り添う歌手の一人だったかもしれないが、私にとっては「好きなドラマの主題歌」であり「叔父とのドライブ中のBGM」であった。例えばPrisoner Of Loveを聴けば上野樹里を思い出し、例えばMovin' on Without Youを聴けば夜の街並みを走る車の揺れや街灯の橙を思い出し、そしていずれにも流れるのは、当時の時代の空気や自分の想い。あの頃何に悩んでいたっけ、何が楽しかったっけ、と、ふとたゆたう。音楽に付随する価値のひとつがあるとすれば、恐らくそういったものだろう。

 「違いはない」とは言ったものの。私が知っている「宇多田ヒカル」の知識なんて、Wikipediaで上記で何度かスクロールすればうわべはわかる程度だ。もしも経歴や年齢を詳しく知らなくても、「なんかすごい偉業を成し遂げてきてる人」というイメージは持っていた。人間であれば当たり前な、宇多田ヒカルの人生を私は知らなかった。結婚も離婚も、再婚も出産も、活動休止(という名の人間活動)の事実もほとんど知らない。二世である事も、ましてや、今でこそ世の中的にフォーカスされるようになった母娘関係における苦しみも知らない。デビュー曲は知っているし、いわゆる代表曲という曲たちも知っている。そのくらいで不足はなかった。

 ただ、そう、「年齢」という数字でいえば「15歳でデビュー」という若さは強烈だ。その後一気にスターダムを駆け上がった宇多田を、「今何してる?」とばかりに追い始めたのはお誘いを受ける前からだった。


 さて、さいたまスーパーアリーナは未だ開演前。客電がついた状態の会場でも、ステージに目を転じればいくつかのLED板といえばいいのか照明板といえばいいのか、それらがたびたび点滅し、時折宇宙船が飛び立つような重低音が鳴り響く。腹に響くというよりは、「これからどこへ飛び立てるんだろう?」というようなワクワクした気持ちを、ひとつずつ乗せてゆく。詰みあがった状態で飛び立つのだろうか。いつだろうか。ていうか今何時だろうか?え?押してる?

 指定された席からは、はるか彼方先のステージ上ではセットのモニターなどが明滅する様が時折見える。立ち上がってしまえば、たぶんいや絶対に、その明滅するライトの名残が頭上をきらめく程度なのがわかる距離だった。見えない。悔しいが見えない。だが、これも人生だ。しょっぱなで最前列のほうを引き当ててしまったら、私よりもむしろ隣にいる友人が生きて帰れない。


 そしてついに客電が落ち、まるでその宇宙船がふかすエンジン音のような音を立てて、ステージに配置されたいくつかの大きなLED板がきらめいていく。その轟音が止んだ瞬間、客席も期待の声を上げる。私や友人からは全く見えない。ここは地上か空の彼方か。そう思っていると、ピアノが空から落ちるような音を一音ずつ鳴らし、ステージ上のスポットライトが音に合わせて天井へひとつずつ伸びては消え始める。
 最後の一音が鳴り終わった瞬間、前後左右のお客さんたちがワアッ…と興奮した声を上げた事で、宇多田ヒカル本人がステージに現れた事を知る。繰り返すが、悲しいかな、背の高いお兄さんやお姉さん方に囲まれた私や友人には、宇多田ヒカルの「宇」の字も見えない。

 これで楽しめるのだろうか―不安がよぎるのも無理はない事と思ってもらえると思う。私は、これが初めての、宇多田ヒカルのライブ参加なのだ。

 それが杞憂に過ぎない事を、2時間後の私は思い知る事になる。


 咳をするのも憚られるような、ある種緊張感の漂う沈黙ののち、透明感のあるハミングとメロディーが響き渡る。その瞬間、悲鳴が口から飛び出した。当時は知らない曲だったけれど、最近聴いて好きになった曲のひとつがtime will tellだった。travelingとかCOLORSとかそのあたりの曲で始まりそうな予感があっただけに、何だか意外性を感じる。けれどそんな事を思う間もなく、初めての宇多田ヒカルの生の歌声を受け取る私の五感は、涙を流していったように思う。

 いつのまにか、隣り合う人に思わずぶつかる事も、ボルテージが上がるごとに高まる熱気も、暑さも、気にならなくなっていく。まさに「時間が経てばわかる」。(いや、暑さはわりと要所要所で苦しめられてはいても………。)

 このあっというまに過ぎ去った時間の中で、懐かしさと新鮮さとが交互に行き交う。ほぼヒット曲中心に組まれたかと思えば、ちょっとマニアックな曲も顔を出す。周年記念にリリースされたベストアルバム内の新曲も入れつつ、基本的にはベーシックなセトリだった。ほとんど、その時代時代にメジャーになっていた曲だったし、ファンでないと難しいような曲や、十分に予習していなければわからないような曲は恐らく入っていなかった。そういう意味では、初めて宇多田ヒカルのライブに来たという人達にとっても楽しめるセトリだったはずだ。
 友人曰く、宇多田ヒカルは元々が「あまりツアーをやらない人」というから、至極もったいないというか「やらないんだ!?なぜ!?」と不思議というか。

 travelingはいつ聴いても体が自然とリズムに乗る。原曲は聴いていて知っていたが、今回のベスト盤に収録された再録ver.のtravelingは、より「かき分ける感」が感じられ、それが本ツアーで披露された時楽しさが頂点を達したのを覚えている。

 たとえば「光」は子ども心に(といっても10代半ばだったが)何だか不安を感じるメロディーに聴こえていたので、あまり聴いてこなかった。けれど大人になれば、曲に乗せられた感情の意味も、だんだんと理解できてくる。今の宇多田の歌声で聴くと、そんな恋愛した事ないけれど訴えかけてくる感情が切ない。


 ひとつ特徴的なのが、活動休止という区分の前後で、宇多田ヒカルの歌が大きく変わってゆく様を、ライブのセトリという形で私たちが体験できるという点だ。
 同時に、その時その日宇多田ヒカルの音楽に触れていた自分や、思い出や景色が蘇る。これはまさに時間旅行。SCIENCE FICTIONの別名を名乗ってもいいかもしれない。セトリが進むにつれ、思い出すと顔から火が出るような10代のはじめのあの頃や、自己嫌悪で吐きたくなるくらいの10代半ばのあの夜や、心身が疲労困憊で光も何も見えなくなりかけている20代前半の春先や、そういったシーンやその当時の時代の空気もまるで真空パックに保存されたものが明けられたかのように鼻先をかすめる。宇多田ヒカルと思い出す、私の拙く短い歴史。ガイドが豪華。



宇多田ヒカルと「言葉」

 ライブ中印象的だった事のひとつに、宇多田の言葉の巧みさといおうか、操る力が非常に長けているというところだった。
「銀河みたいに」「海に浮かぶプランクトンみたいな」「照明をもう少し落として、宇宙が広がるみたいに」……これは全て、24日に宇多田ヒカルが発した比喩表現なのだが、あまりにも常人では浮かばない、浮かんだとて口にするのをためらう高等表現を、彼女はポンポンと放る。驚きだった。MCという、うっかりすればカジュアルで流れそうになるトークの中で、恥ずかし気もなくといったら失礼極まりないが、通常の会話の中で言おうとしてもちょっとかっこつけているようで躊躇いがちになりそうな表現を、あまりにもシームレスに出している。それらが非常にわかりやすい。そしてそれに応えられるチーム。

 宇多田ヒカルの過去や最近の曲を追う中で、彼女への「人間的興味」が大きく沸いたのも、「言葉」がひとつ担っているのではと感じた。マジョリティとマイノリティとでいえば、宇多田の書く詞にはマイノリティの面が色濃く映っているように思う。たとえば誰にも言えない秘密、どこにも吐き出せない悲しみ。マイノリティと表すと誤解を招くが、自分一人で抱え持つしかなかったものを、歌によって救い上げてくれるといったほうが正しいだろうか。
 これは持論ではあるのだが、シンガーソングライターであれば、書く歌詞、メロディー、歌声など、手掛ける全てにその人となりや性格や作り上げてきた価値観、そういったものが反映されるものだと私は思っている。いわゆる「言語」では、宇多田ヒカルにとって日本語は母語ではない。彼女の第一言語は英語のはずだ。デビュー時は恐らく日本語で歌う事や話す事に、苦労した時期があったのではないかと推測するが、言葉の持つ力はその人の内面によって異なる。
 宇多田ヒカルの歌詞はひとつの関係性に収まらない、限定されないからこその響き方があるように思う。たとえば「君」がどういう存在であるかを限定しない。感じ取る幅を広めた状態で、聴き手に委ねてくれるような気さえしてくる。「目に見えない形を信じる」という途方もなさや恐怖を、そっと抱きしめてくれると思っている。

 変化は時に否応なくやってくる。母・藤圭子の死などを機に、「人間活動」と称した活動休止を以て、宇多田ヒカルは自らを「スターとしての人生」から切り離したという。元々公的な手続き等生活に関わる事を任せきりだった事もあり、いち個人としてただ生きてみるにあたり、日本ではなく遠く離れたロンドンへ発った。
 その後に作られた曲は、自らの起点や言語としての日本語の持つ力や自由さに立ち返る。活動再開後にリリースされた曲やアルバムは、宇多田ヒカルのよりパーソナルな部分―軽々しく触れてほしくない心臓の部分―を曝け出してくれたように思う。誤解を恐れずに言えば、芸術的なまでに美しい作品となって届けてくれた。彼女が復帰するために、あるいは復帰するにあたって昇華していく必要があったものを多く描いており、それを「日本語の美しさのみ」に徹底することで、ここまで詩的に幻想的に書く威力に私は圧倒された記憶がある。

 しかし、そうした技巧的なところから以上に、宇多田ヒカルの書いた歌詞や発した言葉には力がある。恐らく、宇多田自身の想像をはるかに超えて届いている。

 ライフステージの変化も伴い、変化するものは自然と変化していったのだろう。濃淡はあったろうけれど。同時に、過去や未来について、自分自身の内省を深めた(あるいは「極めた」)時期でもあったのかもしれない。活動休止前と後の楽曲には、経年変化による歌声以外に、心の在り方が変わってきたような印象を受ける。ある意味生々しい変化を、提供してくれたのではないだろうか。

 職人気質で天才型なのだろう。そして、自分自身と音楽に誠実な人なのだろう。曲作り等、専門的な視点には一切立てないが、外観から感じる印象としては自分を必要以上に守るものがなくなり、愛されている事の気づきを得、自らも母となり子どもと過ごす中での純粋な感情、それらが宇多田ヒカルをより無垢に、素直にさせてくれたのではないかと感じる。そうした変化が表情や佇まい、そしてそれらが楽曲に表れてくると、年数を重ねた内側からの美しさと相まって、宇多田ヒカルという人を非常に魅力的に映すのだ。



宇多田ヒカルと「喪失」

 ところで、彼女を語るのにひとつ大きなキーワードがあると思うのだが、それが「喪失」ではないかと私は考えている。セクシーという意味合いの「危うさ」ではない、不均衡なものを私は宇多田ヒカルから感じるからなのだが、それはなぜか。

 セトリにあった「花束を君に」でいうと、この曲の1番Aメロの歌詞にハッとさせられない人はいない。「普段からメイクしない君が薄化粧した朝」―これが死化粧の事だと最初に気づいた人は恐ろしい感性を持っているといえよう。2016年度前期朝ドラの主題歌としてタイアップされた曲ではあるものの、宇多田が「喪失」を―つまり母への弔いを―そこに明確に盛り込んだかは定かではないが、先に述べた活動再開後のシングルでもあるこの曲は、母の死と関連付けせずにはいられない。
 加えて、吐息のような冷静を保つような繊細なブレス、メロディーのちょっとした違和感、それらは聴く人の心臓を強く掴む。同じ悲しみが襲った人にはちょっと聴けない曲かもしれないけれど。


 細々と、宇多田ヒカルという人物の背景を追っていた時期、彼女の事を「どこか儚い」と思った。曲作品や纏う雰囲気も「陽」より「陰」がとてつもなく似合う。叔父の車の中で聴いていた風景もあるのかもしれないが、「昼」より「夜」が似合う歌声だ。限られた灯りの中の、夜の高速道路で車内で流すBGMやに最適が過ぎるのだ。
 儚さや哀しみ、暗がりや小さな灯、俗っぽく言うと「危うさ」を感じさせるその一方で、強烈な芯と人間味に魅了されてゆく。自身の柔い部分も見せてくれる距離。彼女の文学、声、姿勢はまさに時代を築いてる。押しも押されぬベテランの位置にいるにも関わらず、彼女は震えるほどフラットだ。

 そうして、彼女の歌を聴いていると曖昧やグレーであることに無価値であると評するのは時代遅れなのだと感じられる。とはいえ、よくある「全肯定スタイル」ではなく、しかし決して「倒れたままでいい。もう立ち上がらなくていい」という諦念を推奨するでもない。例えば悲しみだって、抜け出せないでいるような人に無理くり明るさを押し付ける事もしない。
 音楽が何かしてくれるわけではない。けれど時に人は、明るく前向きなテーマによりも、悲しみから抜け出せず渦中のままにいる事を否定しないテーマに救われる。それがいかにもな短調ではなく、ポジティブなメロディーの中にこそ存在している事を、私達は感じ取る。恐らく宇多田自身も。

 「何かを欠乏している事の大切さ」について、宇多田ヒカルは話した事がある。ツアー前の番組で、選ばれし―失礼、応募抽選でスタジオに集ったファンの一人の質問に対し、「思っているような状態で手に入るわけではない。全然違う方向やタイミングで巡り逢えたりする」と。

「何か欠けている、足りない、と思う事も苦しむ時間も、それも全部与えられて今がある。当たり前に全部与えられちゃったものより、すごく欲しかったのに手に入らなかったもの、与えられなかったもののほうが自分を豊かにしてくれたんだなって思ってます」

「教えて!ヒカルさん」 4/18 O.A.「NHK MUSIC SPECIAL 宇多田ヒカル」内のコーナー


 宇多田自身明言はしていないし、憶測の域を出ないが、彼女が「必要なのに何でないのか」等語っているものは「愛」だったのかもしれないと思う。富や名声は早くから確立されたけれど、同時に早くから「当たり前にあったはずのもの」に枯渇し続けた苦しみはどれほどだろうか。「与えられなかったものが私を豊かにしてくれた」という言葉に重みがある。使っている人は使っている言い回しのようでもあるが、言葉が実態となって向かって響いてくる感覚は、相応の痛みや叫びを人生で何度も経験した者からのみ感じられるべきものだ。

 よく、辞めないで今日まで続けてきてくれた。そのたくさんの感謝と敬意と愛を、宇多田ヒカルに私は今捧げたい。何色でもない花の一本になっていたら嬉しい。


 また、私が遅まきながら、宇多田ヒカルの歌に惹かれる理由のひとつに、ある種の「生身感」があるのかもしれないと思う。
 デビュー当時からの初期の曲には、宇多田が自分自身へ語り掛けたり励ましたり、そういった意味合いの曲は自然多かったのだろうと思う。私たちがアーティストの曲を聴いて力をもらうように、彼女は当時のもがきや葛藤をそのまま詞や楽曲に昇華していく作業が多かったのかもしれない。
 思春期の歌声の、その時期にしか感じ取れないアイデンティティの揺らぎは、恐らく宇多田ヒカルと同じように当時10代だった人たちの共感を呼んだ事もあったかもしれない。例えは、耐えられない孤独の中。むちゃくちゃに合わせたラジオの周波数から聴こえてきたのが「泣いたって何も変わらないって言われるけど 誰だってそんなつもりで泣くんじゃないよね」なんてフレーズだったとしたら。time will tellはその人の特別な曲になるだろう。宇多田ヒカルという名前は、その人の心の奥深くに刻み込まれるだろう。

 宇多田自身が、自分の感情を共有したくて書いたり、「これはこんな出来事があったから書いたんです」と言及していない限り、聴き手は好きに解釈したり受け取る事ができる。「私の事を歌ってくれているかも」とある意味自由に癒される事ができる。どこか憂いを帯びたり、強がったような歌声から、「歌手なんて雲の上の存在だ」と分かり切ってしまう距離ではなく、一歩近づいて共感を覚えさせてくれる。恐らく決して宇多田自身が近づくのではなく、私達のほうから「あなたを知りたい」と足を踏み出させてくれる。
 よくある興味の持ち方よりも、もっと生身に訴えるような、そんな感覚を持ってしまう事の答えはまだ出せていない。

 「喪失」の対義語はわからないが、「喪失」の果て、あるいは経過で見えてくる事のひとつにあるのが「自愛」に思う。全ては自分を愛する事に還るのかもしれない。

 ライブ中、陳腐ながら「宇多田ヒカルが歌う時代に生きていてよかった」と思っていた。喜びや光だけでなく、悲しみや闇も彼女の人生を彩ってくれたのだろうか、と。幾重もの岐路の選択の結果で、宇多田ヒカルは歌手を続けている。目の前で、ステージで歌っている彼女がとても大きく愛おしく見えた。「宇多田ヒカルが歌う時代に生きてよかった」と、月並みな想いで胸がいっぱいだった。



宇多田ヒカルと「SF」

 今回のツアーは、デビュー25周年を記念したベストアルバムをリリースし、それをひっさげた形でのものとなる。この「SCIENCE FICTION」というアルバムタイトルを決めた理由は、単純に「かっこいいから」と答えつつ、「デビューした頃から『この曲誰のことなの?』『ノンフィクション?』って取られる事もあった」と話していた宇多田。ゆえに、アルバムコンセプトとしても「フィクションでもノンフィクションでも、そのどちらでもありどちらでもない」―そういうふうに私は感じたのだが、「起きた事や体験した事をそのまま書いてるだけ」とはまさに日記のようだとも感じた。いささかプライバシーがすぎる。
 実際に「そのまま書いてる」わけではないだろうが、「自分の感情や想いを他者に伝え届けるために、一旦自分の中で『相手にわかりやすくする』工程を踏む」という事が、会話以上に曲作りやリリースの中で行われているという事だ。ひっくり返って慌てて立ち上がりそうになった。

 その工程は、宇多田が個人的な感情から詞にしていた事が、いつのまにかメッセージ性を帯びたものへと変化していく事にやや通じている。そのメッセージはしかも、普遍的なものをうたっている。だからこそ、多くの人に響く。
 その名の大きさや偉大な母の娘というような、枠などはもはや薄まって存在しているのだと思える。宇多田ヒカルという人間を構築したのは、大枠でいえば人生経験だが、そのひとつひとつに経験があり感情がある。分かり切った事ではあるが、それを作品にして届ける事のSF感は途方もない。経験した以上の事を表すには想像力を使うしかないが、その想像力で広げる世界もまた、自らが泣き笑い感じた事―経験した事からでしかあり得ないのだ。

 宇多田ヒカルの極めて個人的な感情や記憶を、宇多田ヒカルではないというだけで私たちは読ませてもらっている。「音楽を聴く」という行為が途端に神聖極まりない行為に様変わりする。それは真夜中に一人で聴くラジオに救いを求めるごとく。そして自らの経験や人生(あるいは半生)と共鳴する。厳かに受け取る時間は誰をも不可侵なのだろう。
 ライブという公の空間で、個人的な事を話してくれる。何だか、そんな風にも感じられてしまった。



宇多田ヒカルと「25」

 ところで、そう、25年。四半世紀。「途方もない」というには、恐らくまだ少ない数字だろう。25年をどう振り返るか、といった趣旨の質問に「25年って大した時間じゃないし、宇宙から見てそんなに長い歴史じゃない。年齢とか時代とかを超えた何かに、すごく興味があります」と笑って答えた宇多田ヒカル。彼女のこのスタンスが、生き様を形作っているのだろう。(一方で、「(周年の)25って綺麗ですよね」と述べていた次の瞬間に、続く「4分の1だし、5の2乗だし、綺麗にスクエアになる数だし」で宇宙猫になるほかなかった事もそっと添えておきたい。「25、確かに綺麗かもねえ」と同意していた時間が少なすぎた。)


 たかが25年、されど25年、続いてきた足跡のあちこちさは本人にしか見えない。もちろん昇華しきれていない人たちも含めて、悲しみも痛みも、同じくらい抱きしめられるようになった、25年の月日を前に宇多田ヒカルと私たちの間に違いはない。


 ライブは続く。アンコールの1曲目には、「SCIENCE FICTION」に収録されている最新曲「Electricity」だ。アルバムタイトルであり、本ツアータイトルにもなっている「SCIENCE FICTION」を地でいくような新曲だが、この曲に脳天を殴られたような衝撃を今やすでに朧気というのが、かえって嬉しい。「衝撃」ってそういうものだと思うから。
 宇多田はこの曲を「自分の中から、人から、宇宙と地球から感じる不可視なエネルギーや波動とその不思議で強力な結びつきを表現した」と言うが、まさにそのものが新曲に表れていると思った。自然とリズムに乗る体、音楽に身を任せる時間が尊い。

 2曲目には「この曲をやらなくては終われない」というニュアンスのコメントを残し、暗転した後印象的なイントロが流れだす。沸き立つ会場、沸き立つ私、スクリーンに映ったのはMVを彷彿とさせるソファに座る宇多田ヒカル。その瞬間、「座ってるううう!!!」と驚きと喜びと、いわゆる「エモさ」にちょっと涙目になりかけた事をまだ覚えている。MVの自分をセルフオマージュ。散々「天井低いから始終屈んでしか歌えなかったんや」と言われて若干ネタにされてもきていたかもしれないAutomatic。何だかんだデビュー曲は強いじゃないか。
 それがアンコールの2曲目、ライブのセトリの最後に置かれていた。「もしかしたらセトリに入らないのかな?」と思っていたが、入らないわけがなかった。安心してほしい過去の私。Automaticのカップリング曲であるtime will tellで始まり、A面のAutomaticでシメる。宇多田ヒカルというシンガーが世に出た始まりの2曲という事だろう。小室哲哉をして「僕らの時代は終わった」と言わしめた鮮烈さ。間違いなく平成の歴史に刻まれた一曲だったし、何と美しい円であろうかと、思わず感嘆せずにいられない。



 長く活動し続けていると、当たり前に若さや初々しさはなくなり、代わりに落ち着きやマンネリが鎮座するようになってくるというのは、もはや自然現象に近いだろう。
 けれど一方で、長く活動し続けてくれていると、今この時この素晴らしいシーンに立ち会える喜びがある。7月24日のこの日、この2時間、私は愛おしさで胸が高鳴った。名前の大きさゆえに、文字通り想像できないくらいに人より多大な苦しみをもがいてきた人だったのだろう。年齢も周年も、活動年数も、全てただの数字とばかりに自然体に捉えている。きらびやかな衣装に身を包んだ時よりも、タンクトップにジーンズというような、余分なものをそぎ落とした服を身につけた時が、一番美しいと感じる様に似ているかもしれない。


 ライブ本編の後半、MCで彼女が言った言葉はその場にいた全員の胸を打ったに違いなかった。

 「みんなの25年を一緒に祝いたいと思って、それでツアーやりたいと思ったんだ」
 「みんなと同じ時間と場所で、同じ気持ちを感じる事がすごく大事だったから。チケットも大変だったと思うんだ、何度もいろんなものに応募してやっと取れたっていう人がいたらごめんね。みんな来てくれてありがとう」 
 「今までの25年も、みんな振り返ったらいろんな事あったなあって。あっただろうなって思うけど、振り返ったら今ここに自分を連れてきてくれた25年だからよかったなって、私も思う。みんなも、これからの25年も振り返ったらそう思えるような25年になるといいなって。思いつつ、まず今に感謝したいと思う。みんな本当にありがとう!」

SFツアー 7/24さいたまスーパーアリーナ MC



 こんな事を言われたら、私の中途半端な25年がうっかり輝いてしまうではないか。とはいえ、その輝きの仕方は全方位にではないというのがミソだ。「そんなところにあったんだね」と、石ころばかりの間から小さな宝石の生まれを見つけるような。このさりげなさ。
 悲喜こもごもをかき集めて、宇多田ヒカルは明日もまたステージに立つ。お色直し後のカラフルなワンピースのような衣装は、その25年の色とりどりを身にまとっているようだった。花びらのようでもあり、水のようでもある。前半の真っ白なスーツと一転、彼女の人生の色を着ているようにも見えたのだ。

 新鮮で、色とりどりの宇多田ヒカルを、この日感じる事ができた。それはどの角度から覗き込んでも、きらきらと様々な光り方をしてくれる。彼女のこれまで生み出してきた曲は、彼女の人生そのものの一部だと確信した。改めて、会えてよかった。これからもあなたの歌を聴かせてください。





今回の公演の個人的ポイントを俗っぽく語る回


・イメージと違ってあまりにもキュートだった。びっくりした。誰か教えてほしかった。
・眉ずっと鋭角。日本のトレンドでは太眉だとか並行眉だとか、ずいぶんと移り変わりがあった。しかしヒッキー、わりとずっと鋭角な眉。非常に好き。
・どえらいかわいい。規格外だけど素朴。さっぱりした顔立ち(に見える)のに時々とんでもなく美しくて近寄りがたく感じる。そりゃ「金ならあるわよ」な雲の上の人だもん………。
・でも今のヒッキーは目の前の幸せを非常に大切にしていると思う。昔がそうじゃなかっただろうなとかそういう事ではなく。
・派手なヘアメイクじゃないのに何であんなに美しいのか小一時間問い詰めたくなる(この言い回しのネタがわかる人は同世代)
・でも問い詰めなくてもわかるよな……内側からにじみ出る美しさや彼女を創ってきた全てがかけがえのない宝物なんだから…それにしても綺麗がすぎる………という事をライブ中に何回思ったか忘れた。それくらい綺麗。
・travelingの煽りで気恥ずかしそうに叫んでみたり、お色直し後のカラフルな衣装を「なんかちょっと恥ずかしいけど…」と照れ笑いしたり、Firts Love前のMCで「後ろまでよく見えるよ、コンタクト新調したんだよ」とかわいい報告をしてきたり、とにかくイメージと違う。
・でもオタクっぽいところがある。これはイメージとそんなに違わない。にやり。
・宇多田ヒカルをお祝いするために、愛を送って受け取るために、大好きを届けるために来たんだ。あるかないかの特別な2時間!



 以下、セトリネタバレ。






 ↓






HIKARU UTADA SCIENCE FICTION TOUR2024 セットリスト

  1. time will tell

  2. Letters

  3. Wait & See ~リスク~

  4. In My Room

  5. 光 Re-recording

  6. For You

  7. Distance m-flo remix

  8. traveling Re-recording

  9. First Love

  10. Beautiful World

  11. COLORS 2024Mix

  12. ぼくはくま

  13. Keep Tryin'

  14. Kiss & Cry

  15. 誰かの願いが叶うころ

  16. BADモード

  17. あなた

  18. 花束を君に

  19. 何色でもない花

  20. One Last Kiss

  21. 君に夢中

アンコール
22. Electricity
23. Automatic





おまけ?

 グッズにも多くあしらわれていたクマちゃんたちがとても可愛かった。「ぼくはくま」という曲がセトリに入っていたのだが、そっか、そんなにくまが好きなんだねえヒカルちゃん……………とほっこりと見つめてしまった。セットアップの白いスーツを軽やかに、キュートに、ちょっとおどけて歌う宇多田に少女性を見てとても、とても可愛かった。ヒッキーのおかげでくまモチーフのあれこれに目がいくようになってしまったので、スマホリングをつけるならクマにしてみてもいいかもしれない。猫にすると思うけど。





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