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ふふ。(^O^☆♪繋がり」

 「地域にもっと居場所があればいいな」と思う。その想いは、ある生徒の学校に失望した瞬間の表情が目に焼きついてしまったことによる。

「僕はもう終わった」とでも言いたげに瞳孔を開いて机を見つめて半笑いするその生徒に、16歳の青年の取り巻く環境の厳しさを感じざるを得なかった。

もちろんこの世の中に学校は一つではないし、多様な視点が身につけば、その失望感はいずれ止むのなのかもしれない。


それでもなぜ今ここに、地に足をつけて安心して居られる場所がないのだと憤(いきどお)った。それは大人になった私も抱き続けていた想いだった。私はあの少年に自分の気持ちを重ねていたのだろう。

 あれから3年半。いろんなことがあった。

この歳月を通り抜けて私の中に残ったのは、「人間のことはできるだけ人間がやろう」という気持ち。

ホモサピエンスは五万年前から存在するというのに、学校はできて150年やそこらの制度だ。完璧な環境をつくるなど無理があり、それは不登校児数の推移も物語っているだろう。私自身、学ぶのは好きだが、机にかじりついての一斉授業は向いていなかった。「そもそもなんで机に座ってるんだっけ?」という問いが卒業まで頭から離れなかった。その問いから唯一解放された時間が体育の時間だった。私は体を自由に動かすのが好きだったので、椅子に座らなくていい時間が大好きだった。

社会人になってもその想いは変わらなかった。知らない人の作った資本主義の組織の上では好きな仕事をしていても「根本的な解決には遠い。」という想いが拭えなかった。

 制度やお金をそのまま自分の軸にするとどうも居心地が良くないらしい。どうしたって自分の本来の姿と完璧には一致しない。すると人間関係だって相応の負荷を心に抱えて作ることになってしまう。あるいは「同情するなら金をくれ」とばかりに意地を張った末、孤立するかもしれない。

 自分がそのままの状態で存在できる場所を探してみたら、できるだけ古い行動を志向して日々を過ごすようになった気がする。糸紡ぎに興味が湧いたり、調味料を減らしてみたりといった具合だ(そんなに大したことではないけれど)。

これから何ができるかまだわからないけど、日常の延長で自分で賄えるものの数を増やしていきたい。

2023年5月 綿の種を植えた
2023年6月 友人に分けてもらった苗


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