馬 15
『馬』15号(井本木綿子、1985年12月25日)と14号の二冊を古書ヘリングにて発見しました。どちらも天野忠が巻頭に詩を寄せています。井本さんを検索してみますと、このような方です。
《井本 木綿子さん(いもと・ゆうこ=詩人、本名澄子=すみこ)7月26日午前5時15分、慢性腎不全のため東京都国立市の病院で死去、83歳。大阪市出身。葬儀・告別式は近親者で済ませた。喪主は弟龍典(たつかね)氏。
主な詩集に「人あかり」など。》(四国新聞、2010/08/18)
他に、詩誌「沈黙」を主宰ともありまして、詩集も以下のようなものが見つかりました。版元名がないのは私家版です。
最果 1997
風の珊瑚 1991
放縦な夏 百鬼界 1989
月光のプログラム 百鬼界 1986
雨蛙色のマント 百鬼界 1983
馬 1976
人あかり 文童社 1974
百鬼界は岡山の宮園洋が営んでいた版元のようです。宮園には『洋さんのあっちこち 「百閒百話」+「東京、あっちこち」&追悼集』(れんが書房新社、2003)という著書があり、山川隆之『岡山・地域出版覚書 手帖舎・岸本徹さんと装丁家・宮園洋さんのこと』(吉備人出版、2009)が出ています。
本日は15号の内容から気になったところを紹介します。まずは天野忠の軽妙な詩をどうぞお楽しみください。
六月
四月は残酷な月だそうだが
六月はけったいな月。
大阪の難波の街はずれの貸本屋の竹さんは
眼と耳が悪い、水洟をたらし
足も頭もよろよろしてきたが
この国の五つの指に入る大企業の会長さんと
同姓同名である。
しょっちゅう新聞や雑誌や週刊誌やテレビに
彼の名前が出る、人の口にものぼる。
経済界の動向について
青少年の教育について
この国の将来を憂い
同姓同名の竹さんは熱っぽく語る。
昨年はホワイト・ハウスで、背筋を立てて
レーガンと握手した。
竹さんは六月生れ。
若いとき
京都千本通り、カフェ「パラダイス」の
亭主持ちの女給と
心中仕損なって危く自分だけ生き残った。
貸本屋の店番をしているいまのおかみさんは
そのとき運ばれた病院の
気丈夫なもと看護婦さんである。
あれこれあったけれど
しかし
太宰治は心中に成功した。
彼は六月十九日に生れ六月十三日に死んだ。
六月はけったいな月。
心中はまだしていないが
私は六月生れだ。
太宰より一日早く竹さんより一日若い。
むさくるしい兎小屋(借家)にへばりついて
七十五歳になってもまだ
何の役にもたたぬずぼら[三文字傍点]な詩を書いている。
例えばこの「六月」のようなーー
さらに寺島珠雄さんが「びっくり三件、書き添えひとつーー足立巻一さんを悼む」を寄稿しているのも気になりました。そこには足立と清水正一が立て続けに死去したことが記されています。
《二度目のびっくりは突然な死である。
このこと、くどくは書かないが、一月に、やはり突然的に死んだ清水正一さんの初盆詣りに清水家へ行った八月十四日の十一時頃、清水夫人の挨拶前の第一声、私を見るとすぐ玄関の間に立ったままでの告知だったとは記録しておく。ほんとうにびっくりした。
清水さんの遺影の前で、私は「マンネリズム断つ」という足立さんの文章を想起せずにはいられなかった。
それは『続清水正一詩集』の栞のために書かれたもので、依頼し、催促し、校正した私はすっかり頭に入っていた。
足立さんはそのなかで、清水さんと二人は大正二年丑年生れ、昭和六十年も丑年で二人とも年男なのに、年頭の清水さんの死で「驚倒した」と書いているのだ。
足立さん
こんどはこちらが驚倒ですよーー
清水さんの遺影に足立さんの面影も並んでもらって、ひとまわり下の丑年生れの私は無声に言ったのである。》(p39)
続清水正一詩集
https://sumus2018.exblog.jp/30168489/
またこの雑誌の発行人である井本木綿子さんは詩の他に「ある一夏の想い出」というエッセイを書いておられます。画家の金山康喜が靱小学校時代に同期だったことを弟に教えられ、小学校六年、臨海学校で三重県の御殿場へ泊まりに行ったときに金山少年と交わした言葉がその情景とともに描かれます。ですが、関わりはその数日間だけでした。
《戦災で私達はてんでばらばらになってしまった。見知らぬ「男」になり画家となった金山さんのことは一切知らない。しかし私の胸に幼馴染として金山さんの少年時の姿が残されたことは、天恵のように思われる。私は何時か重い腰をあげて富山県立近代美術館の彼の絵の前に立つであろう。すると明るい眼をした少年が劇しく人生を孤独を大人の言葉で語りかけてくれるであろう、と思われる。》(p45)
そうか、金山康喜は大阪生まれでしたね。なんだか嬉しくなるお話です。
以下総目次、素晴らしい執筆陣ではありませんか!