息のある者は礼拝せよ

[詩篇 150:6]

 息のあるものはみな
 主をほめたたえよ。
 ハレルヤ。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 息。息について考えたことはあるだろうか?
身体と同じく、生まれた時から備わっているのが息だ。息は目に見えず、触ることもできない。
息があるから、人間という生物は生存することができる。息が無ければ、死人として扱われる。
息があるかないかで天と地の差なのだ。
今日の聖書箇所では、
「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。」とある。
これについて少し深く考えたい。

人間は神により体内に「いのちの息」が吹き込まれる事で、生きるものとなったことを創世記は記す。
「息」とはヘブライ語で「ネシャーマー」、
つまり霊の事を意味する。
三つの聖書箇所を見てみよう。

❶創世記2:7「〜その鼻にいのちの息(霊)を吹き込まれた。そこで人は生きるものとなった。」
❷ヨブ記 33:4「神の霊が私を造り、全能者の息が私にいのちを下さる。」
❸ルカ8:55「しかし、イエスは少女の手を取って叫ばれた。『子よ、起きなさい』すると少女の霊(息)が戻って、少女はただちに起き上がった」

このように、人間は霊、つまり神から吹きかけられた息があるから生きる事ができる。霊(息)が無ければ生きてはいけないと聖書は教えている。
つまり、私たちが今生きているという事は私たちの中に確かに霊(息)が存在するという事だ。
創世記2:6にもこのように書かれている。
「そこで、主は、『わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう』と仰せられた。」
霊なる息は永久には人には留まらない。
何度も言うが、霊なる息がある事は私たちが生きている証なのである。
息は神から与えられた霊だ。
だからこそ、私たちのものでなく、
神のものである。
したがって、息のあるものはみな、神を礼拝するのである。それは、神の息吹によって私たちは生かされているからである。その恵みに応答する者として私たちは召されている。
恵みの応答者として、
今日も生かされていることを覚えて
歩んでいこう。

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