罪からの解放
[ローマ人への手紙 6:7,8,9,10,11,12,13]
死んだ者は、罪から解放されているのです。
私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。
私たちは知っています。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはありません。死はもはやキリストを支配しないのです。
なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。
ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。
また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
私たちは、ローマ書9〜13節を通して、神の真理を見ることができる。それは罪の生活からかけ離れる秘訣についてとも言えるだろうか。
ここでは、三つの段階が記されている。
まずは、知ること。そして信じて、最後に献げること。
キリストが死なれたのは、一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるということをまず知る事がスタートなのである。
キリストの死とその次の新たな生について比較していることがわかる。そして、次の節で著者であるパウロは主語に「あなたがた」としている。
原読者であるローマの人々に対して、キリストの死と新たな生の比較を用いて、何かを訴えようとしている。その訴えとはローマの人々もキリストにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと認めなさいという内容である。つまり、キリストと共に私たちの罪は全て十字架につけられたので、罪は効力を失い死んだ状態であり、私たちはキリストが復活したように新しい自分に生まれ変わったことを認めなさいということだ。
「認めなさい」という言葉を別役で見ると、「思いなさい」や「見なしなさい」とある。
これらは信じると言ってもよいだろう。
ここまで、知り、信じるまでみてきた。最後は献げるだ。
13節では「献げる」という単語が1節に3度も使用されている。献げるというのはギリシャ語で、「並んで立つ」「近くに立つ」という意味が含まれている。キリストと共に生きる私たちは、キリストと並んで立ち、神の臨在の近くに立つ責任と努力を要するということだ。受け身ではない。神から恵みを頂いているからこそ、私たちはそれに駆り立てられて積極的に神の近くに立ちたいと思わされる。これが献げる行為である。
礼拝自体が、罪から解放されているのだという見えない宣言の現れでもあるかもしれない。
一方で、罪を犯している時というのは、神の近くに立っていない時だ。近くに神ではなく、誘惑となるものがいる時、ヨセフがポティファルの妻の誘惑から逃げたように私たちもその場所から去らなければならない。私たちを罪へと誘う誘惑物から意図的に避けようとする姿勢が大切である。