キリストにつく者
[ローマ人への手紙 5:12,13,14,15,16,17,18,19,20,21]
こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に──
実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ罪は罪として認められないのです。
けれども死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々さえも、支配しました。アダムは来たるべき方のひな型です。
しかし、恵みの賜物は違反の場合と違います。もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ちあふれるのです。
また賜物は、一人の人が罪を犯した結果とは違います。さばきの場合は、一つの違反から不義に定められましたが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。
もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。
こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。
すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。
律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。
それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
ローマ5章から私たちは"キリストにつく者"として表現されている。どういうことか。
キリストを信じる前は、私たちは"アダムにつく者"だった。それはつまり、先祖アダムの犯した原罪が私たちに遺伝的影響を与えており、罪に支配されてしまっているということだ。
例えば、リレーを思い浮かべよう。第一走者が派手にズッコケれば、そのあとの第二走者以降はそのタイムロスの影響を受ける。第二奏者以降の者はどう足掻いても第一走者がズッコケた分のタイムロスを自分の力で埋めることはできない。
このように、アダムがスタートダッシュを失敗し罪人となった結果、その子孫である私たちも罪人となってしまったのである。自分の力ではアダムの罪を無かったことのようにすることなど到底できない。
そう。私たちはもう詰んでいる。
しかし、私たちにはできないその神業を成し遂げた人物こそ、イエス・キリストである。
さきほど、私たちは"キリストにつく者"であると説明した。アダムが罪の頭であったように、キリストは義の頭、信じる者の頭なのである。キリストが私たちの代わりに罪を処罰した結果、私たちも罪から解放された者だ。第一走者アダムがズッコケ、第二走者はそのタイムロスの悪影響を大きく受ける。しかし、第三走者イエスが神業により第一走者アダムの失敗を帳消しにし、むしろタイムアップを成し遂げる。そして、第四走者はイエスの成してくださった神業により、タイムロスを気にすることなく気持ち良く走り遂げる。
この第四走者である私たちが、"イエスにつく者"なのだ。なぜならイエスの影響を受けた人物であるからだ。
アダムが罪を犯したから、私たちは罪人として見なされる。しかし、キリストが義の行いをしたから、私たちも義の行いをしたものとして見なされるのだ。イエスキリストが成されたことが、そのまま私たちに影響している。
ローマ6章で私たちはキリストにつくバプテスマを受けたとあるが、それはキリストが十字架の上で罪に死んだように私たちも罪に対して死んだ者となったということだ。また、キリストが死者の中から蘇られたとき、私たちも新たな命を得たのだ。私たちはキリストとともに結び付けられた者であり、それは私たちの力ではなく、一方的な神の恵みというキリストの力で結び合わせられたのである。
だから、私たちが頑張って頑張ってキリストに近づこうとする行為は、キリストと私たちが結びついていないことを示すのだ。もう私たちはキリストに近づこうと努力しなくても、隣に立っている義人なのだ。私たちの力では律法の要求に完全に答えられなかったが、イエスが私たちの代わりに律法の要求を全て答えてくださった。
これこそ、恵みである。
受けるに値しない者が受け取る、プレゼントだ。