犠牲の心

[ローマ人への手紙 9:1,2,3,4]

私はキリストにあって真実を語り、偽りを言いません。私の良心も、聖霊によって私に対し証ししていますが、
私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。
彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼らのものです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 

 パウロの言う"自分の同胞"とはユダヤ人のことだ。ユダヤ人は、旧約聖書において神の選民である。パウロは彼らを救うことができるなら、彼らの処罰を代わりに喜んで引き受けたいと思うほど彼らへの懸念を述べている。私たちを救うことができる唯一のお方はイエスキリストだが、パウロはイエスキリストの犠牲のように彼自身もユダヤ人が救われるために犠牲になることを厭わなかった。
 
 私たちは、キリストを知らない人たちをパウロほど犠牲の心を持って愛せるだろうか?
彼らがイエスを信じるようになるために、あなたは時間やお金、エネルギー、快適さ、そして安全をどれほどまで犠牲にできるだろうか?
たとえ、その彼らがとんでもなくひどいヤツだったとしてもだ。
私たちの力量ではどうしようもできないのが現実だ。私たちにとってのユダヤ人が誰であるかを特定し、その人たちのために祈る。そこから始めてみようと思った。
小さな犠牲から始めよう。

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