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2022/11/17 ヤッヴェっ!note書き忘れてた

ただいま超焦ってます。東南アジアの私のいる場所と日本の時差は1時間。今日あと1時間半もあるからnoteをサクッと書き上げて…と思ったら、日本時間ではあと30分で日付が変わってしまうということに今頃になって気づく始末。

noteは日本のシステムなので、日本時間で連続登録日数のカウントが決まってしまう。そう、私に与えられた時間は、あと30分しかないのだ。

昨日は若干過激なトピックだった

昨日のnoteは若干過激なトピックを書いてしまった。そんなトピックも、まだまだフォロワーがいない、限られた通りすがりの人がチラッと見る程度のnoteだからこそ書ける。

同じ内容を本垢で書こうもんなら、大炎上してしまうのは分かっている。だからこちらで書いたというわけだ。

別にあの宗教団体の問題に関して興味を持っているわけではないが、人間の歴史上、自由というのはさまざまな人の命と引き換えに実現してきているということを考えると、むやみやたらに自由を制限する方向に向いていくのはどうも勿体無い気がする。

子育てもそうだが、自由を制限する方がずいぶん楽にいろんなことを管理できる。でも自由のない環境で育てた子供は、感情や人格がひん曲がってしまうことが往々にしたあると思う。

絶対的な自由はそもそもない

自由は大切にすべきとは書いたが、そもそも「絶対的な自由」なんてものは存在しない。誰に迷惑をかけようと、自分のしたいことだけを自由にしていれば良いと言ってそれを実行していると、周りも不幸になるし、回り回って自分も不幸になると思う。いや、自分は絶対に幸せを感じないはずだ。

私たちは自由な生き物だ。でも重力の法則には縛られていて、自由に空を飛ぶことはできない。自由を追求すべきだからといって、重力に自分は縛られない!とか言ってビルの上から飛び降りようとする人はOOだ。

人間という生き物は、絶対的に何にも縛られずに自由に生きることはできない。そもそもそんなふうに生きられるようにできていない。一定の規則や枠内で自由に行動してこと満足感が得られる、そんな生き物だと思っている。

信教の自由も然り、表現の自由も然り、移動の自由も然り、思想の自由も然り全ての自由は平等に与えられるべきものではあるが、無制限の自由ではない。

自分の自由を行使できる範囲と、他人が自由を行使している範囲はぶつかることがある。もちろん喧嘩をする権利もあるのかもしれないが、そんなやり方はうまくいかないことは歴史が証明してきている。

または他の人がその間に割って入って境界線を決める「裁判」のようなやり方にも限界があることは人間の歴史が証明してきている。

前もって各人の自由の限界を時の権力者が、または民衆が選挙によって決めることも限界があることは人間の歴史が証明している。

それでも人間は、なんとか自分で決断し、うまくやれると思っている気がしてならない。「識者」と呼ばれる人々や、高学歴な人でプライドばっかりが先行する人ほどそんな考えをもっている気がする。

人類はいつになったら自由には限界があり、その限界を完璧に定める方法を見つけられるのだろうか。

そんなこと、人間の能力ではないわ。

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