【ネタバレあり】『映画 すみっコぐらし ツギハギ工場のふしぎなコ』を観た感想

すみっコぐらし映画第3弾『映画 すみっコぐらし ツギハギ工場のふしぎなコ』をみたので感想を書きます。ちなみに、当たり前ですがすみっコぐらしの映画でどんな内容がどんなふうに描かれていてもいいと思っています。あんなゆるくてかわいいキャラクターたちの映画を見て真剣に感想を書いている方がどうかしています。ただ、これまでの映画や作品としての方向性として僕が理解していたものと違うものが出てきたなというのと、それがどのように違っていたがが少しだけわかったので書こうと思います。

まず、これまでの僕のすみっコぐらしに対する理解ですが、それと合わせて作品概要について簡単に書きます。すみっコぐらしに登場するすみっコたちは世界のどこかに住んでおり、すみっこを好む習性があります。共同で生活する家があり、通貨があり、店があることはわかっていますが、彼らがどのように生活費を得ているかなど、実際的な生活の状況については一切言及されていません。もちろんこれは何も悪いことではなくただの事実で、後に言及するこの映画の特徴と関係します。

ここからは僕の理解ですが、すみっコぐらしの世界には僕たちの住む現実社会の多くの社会的な問題は存在しません。しかしそれはこの作品がそれらの問題に無関心であるということではなく、視聴者がそういう問題から一時的に逃れることができるような、リトリート的な作品であるということをよこみぞゆりさんや制作陣が保証している、あるいはそうしようとしている(と僕は理解してきた)ということです。なので、映画第1弾、第2弾を通して徹底的に作品中に悪意が紛れ込まないよう、愛だけを閉じ込めた作品になるように制作されているなと僕は感じていました。そこにこの作品の本当の魅力を感じてきたわけです。第1弾映画を映画館で見た際は感動で本気で泣きました。

さて、第3弾の詳しい内容に触れる前に、ちいかわについてまとめましょう。僕はちいかわについてそこまで詳しくないので勘違いがあるかもしれないですが、大まかには以下のような作品だと理解しています。

ちいかわもすみっコぐらしと同様ゆるいキャラクターが主人公の作品ですが、取り巻く世界の状況はだいぶ異なります。周辺に存在する敵や課題をうまくいなして対処しながらどうにか苦労して、しかしポジティブに世界が進行する作品です。当然その敵や課題は現実社会やインターネットに存在する人間同士の問題と関係していて、そのことがこの作品の魅力に直結しています。敵や課題にさらされているちいかわたちはそれらに対して正面切って構造的な問題を正しく認識しその根源を絶つということをするのではなく、あくまでどうにかゆるく対処している、というのが僕の認識です。面白おかしくキャラクタライズされた現実社会の悪意と対応しうる相手にやられる、あるいはそれを迎えうつちいかわというテンプレートがこの作品の面白さを構成する重要な部分になっているのでこの構成は繰り返されます。

悪意の存在はすみっコぐらしとちいかわの決定的な違いだと言えます。ただ、悪意を排したすみっコぐらしでは愛を表現しようとしていると僕は感じていますが、ちいかわについては詳しくないので表現しようとしているのかしていないのかはわかりません。悪意があるから愛が表現されていない!とはちいかわに関して主張したいわけでは全く無く(その判断は非常に慎重に行われるべきで、ちいかわを十分読んでいない、観ていない僕にその判断はできません。愛が表現されている可能性だって十二分にあります)、単にそういったものに対してどう対処したいかという受け手側の好みによって嗜好が変わるということだと思っています。

ここからはネタバレです。映画見る人は見てから読んでね。

今回のすみっコぐらしの映画では、すみっコたちが迷い込んだおもちゃ工場でくま工場長に会い、その工場で働きます。くま工場長はすみっコたちをすごく美味しそうなごはんや住みよい部屋でもてなして、翌朝はラジオ体操から始まってすみっコたちと働きます。すみっコたちの働きぶりをほめて役割を与え、いろんなおもちゃの作り方を教えて日々のノルマを与えます。だんだん大きくなっていくノルマにすみっコたちはおどおど焦ります。帰ろうとしてもロボットが立ちふさがって帰れない!くま工場長、おうちに帰らせて!

くま工場長は実は工場のおもちゃ(工場のおもちゃは製造工程で最後に印が印刷されると動く。それを消すと止まる。)で、くま工場長は工場(キャラクター)の意志を反映してすみっコたちにおもちゃをつくってもらっていました。工場は長らくおもちゃの需要低下で活動を休止していましたが、映画序盤ですみっコがなんやかんやあってボタンをまちがってポチ!してしまったことでくま工場長(くまのぬいぐるみ)ができ、活動を再開したわけです。工場は、おもちゃの需要低下で自分が捨てられるんじゃないか(自身の周囲からの承認と自己肯定の結びつき)という不安のもと、すみっコたちに過酷な強制労働を強いていたわけでした。作ったおもちゃは(勝手に動くので)まちで問題をお越し、みにっコたちが工場におもちゃ製作を止めるよう活躍します。

なんやかんやあって工場はすみっコたちの協力もあって必死におもちゃを作らなくてもみんなを幸せにできることに気づき、自身は他の方法でみんなを幸せにしようと決意し実現します。ハッピーエンドです。

さあ、ここまで観て僕は序盤書いたすみっコぐらしへの理解が揺るがされます。観終わった当初は「なんか今回むずかしいなあ?」くらいに考えていましたが、その難しさを整理しているうちに(工場は違う街にいって何してるのか、とか、そもそもくま工場長はすみっコじゃなかったんだ…とか)今回のすみっコぐらしの映画の「ちいかわ性」に気づきました。すみっコたちは現実社会の「ある人間の周囲からの承認と自己肯定の結びつき」、すなわち本質的な自己肯定を獲得するまでの苦悩やそれによって生じる他者への侵襲・負担が工場やその中の設備・付随するキャラクター(工場内のアーム、お手伝いロボット、くま工場長)として表現されていて、すみっコたちがそれに対処します。今回の映画の場合は、作ったおもちゃが街で暴れていてまめマスターやさとう店長・副店長たちが困っているという深刻な状況でない限り、すみっコたちはずっとくま工場長に付き合っておもちゃを作り続けていたのではないか、強制労働に従事し続けていたのではないかという重要な懸念があります。仮にそうだとすると、いやそのような仮定をしなくても、彼らは自分たちが工場に搾取されているという現実を正しく認識して改善できなかっただろうし(これはそもそもすみっコたちはそういうふうなラディカルな言動ができないという設計に拠ります。さらに、すみっコたちがどのように賃金を得て生活しているか普段から描かれないためにこれが労働であるということを意識させづらい構造になっています。)、映画で描かれているのもちいかわでピンチのときに登場するキャラクターよろしく外因(みにっコたちの報告)によります。まさに、すみっコぐらしの映画の中で「ちいかわ性」が表現されているわけです。

さて、このようにすみっコぐらしの作中でちいかわ性が表現されていること、逆に言えばこれまでの映画のような現実世界の問題と完全に隔離された愛の理想郷としての側面が強調されなかったことは、今後のすみっコぐらしの作品としての方向性を規定する重要な点だと感じています。もちろん次回作から完全に方針をもとに戻したっていいし、逆にもっとちいかわ性を活かしたっていいし、あるいは全く別の表現をしたっていいのですが、その愛の理想郷への執着を失うという方針をとるすみっコぐらしは、僕の中でまた全く異なる作品として認識しないといけないなと感じています。繰り返しますが、どのような意図を制作に反映したっていいと思っています。そのうえで、制作陣の方々がどんな想いを込めてこの作品を制作されたのか、非常に気になるところです。どこかで監督インタビューとかされないかなあ。

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