演出と演技指導は混ぜるな危険 |演技の原理 2
演出とは
リアリティを作り出す演技メソッドを本格的に説明する前に、もう一点大事なポイントを定義づけする必要がありました。
演出についてです。
実は普段、「演技」と思われているものの大部分は「演出」、もしくは「演出への協力」になるのではないかと考えております。
「演出」でググると出てくるのは
脚本・シナリオにもとづいて、俳優の演技、舞台装置、種々の効果などの各要素を総合的に組み立て、舞台に上演、または映画やテレビ番組などを制作すること。
という説明です。なんかピンとこないので却下します。
芝居における演出とはストーリーや状況の表現の仕方、描き方・見せ方、と定義づけることにしましょう。
まあ大体そういった感じじゃないでしょうか。
演出がついたら…
役者としては、演出を渡されたら、応える必要があります。
作品としてのアウトラインを提示されているわけですから当然です。
例えば「そのシーンはもっともっとマシンガンの様に高速でセリフを回して」と指示されたらそれは守らなくてはいけません。役者として。
「顔を動かさずに目だけで相手を追って、最後に舌なめずりをして」
と指示されたらそれは守らなくてはいけません。役者として。
じゃあそういった与えられた演出に応じることが、演技なのかというと。
それは演出なんだから演出であり、それに応える作業は演技ではなく演出への協力と言えませんでしょうか。それを演技と呼ぶのは間違っていると思います。
役者としてすべきこと?役としてすべきこと?
そもそも役者は、芝居の最中に二つの思考を働かせる必要があります。
「役者としての思考」と「役としての思考」。
役者としては、セリフ、ト書き、動線、映像ならばカメラ位置、などを考慮に入れる必要があり、
役としては、その芝居の状況の中で物を見て、感じて、心を動かして、状況に応じた行動をする必要があります。
この2つの思考のうちどちらを演技と呼ぶかというと、演技はギャップを埋める作業なんだと考えると、後者・役としての思考、と言えますね。
役者としてすべきことは演技というか、ある種のタスクですよね。
ちなみにですが、主観と客観という言葉で置き換えると、
役者としての思考は客観的であり、
役としての思考は主観的、
と言えるでしょう
演出と演技指導は違う
さていよいよ今回の本題に入ります。
演出とは作品のアウトラインであり結果。
演出家は結果を提示していくわけです。
そして、重複になりますが、役者は演出家に提示された結果に対し応えなくてはいけません。
それがうまくいかないと。
演技指導が入ります。誰がそれをするのか。大抵は演出家であり監督です。役が小さかったりすると助監督に演技指導をされたりするかもしれません。
ま、部署で言ったら演出部の誰かですね。
しかし演出サイドが提示するのはあくまでも最終のアウトラインであり結果であります。
役者としてその提示された結果を出すには、その結果をなぞればよいのでしょうか。
(まだ説明をしていないメソッドの話にも片足を突っ込むことになりますが)例えば早口でしゃべれと言われて、実際早口でしゃべろうとすると、オーディエンス目線、「この役者、セリフ早口で大変そやな」と演技に対する感想を持たれます。※演技の原理 1参照。演技に対する感想を持たれたら負け。
演出を守ろうとする意識を、芝居の内側の住人である「役」は持ち得ません。
「役者」として与えられた結果を生み出す原因を、「役」に仕込む作業が必要になります。
つまり早口を求められたら、その役が早口になる理由付けが必要になるということです。声のボリュームを求められたら、声を大きく出したくなる理由付けが必要になります。
つまり。演技指導は役者に結果を求めるのではなく、役に対して原因を求めるさせべきなのです。
またはリアリティに溢れる演技指導をしているスクールによる舞台等で、リアルに固執をし、思い切った演出が出来ずなんか煮え切られない結果となる様子もたまにあったりします。
それもまた違うと思うんですよね。
演出はリアリティに忖度せず、面白いアウトラインをガンガン提示すべき。
演出に理由付けをしリアリティを持たせるのは役者の仕事で、つまり演技指導は俳優部の誰かがした方がよいのではないかと。
演出は演出部。演技指導は俳優部。
混在する弊害は沢山あるのです。混ぜるな危険。
最後に
演技メソッドを説明する前に、必要な定義づけや、ローカルルールのようなものの設定がどうしても必要で、今回の記事はそういったことに当てました。
読んで頂き誠にありがとうございます。
私独自の見解なので何かご意見ありましたら、コメントくださいませ。
次回、いよいよ演技メソッドの説明に入ります。
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