【Twitter5000日記念】これでもう二度と学生時代の話はしない(その1)
Twitterで人生を振り返るぞ! みたいなやつが途中で頓挫したので、いちおう書き上げた学生時代のことだけまとめておきます。ゴミ捨て場のなかにゴミ捨て場があるような感じです。
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これまでにやった振り返りの類を貼っておきます。純粋なツイートの振り返りとしてはこれらのほうがちゃんとしているかもしれません。
・Twitter3000日戦争の記録 - 「たぶん忘れない」 as daikouzui-note
3000日のときにやったやつです。
・【Twitter3000日記念】ネタpostセレクション
モーメントです。3000日ってそんなに思い出深かったんかな。
・140字創作まとめ - Togetter
昔はこんなこともやっていました。
・daikouzuiのツイートに草が生えていた時代 - Togetter
最近作ったクソみたいなまとめです。
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■大学受験と上京(2009年2月〜4月)
そもそもTwitterを始めたのは、中2のときに始めてなんだかんだ続けていたブログ「オレタチニアシタハナイ?」のサイドバーにpostを表示させてステータスっぽく表示させるのをやりたかったためです(そういう使い方が割となされていたと記憶しています)。だからむしろ「フォロー」「タイムライン」みたいな概念がよくわからないまま始め、いわゆるガラケーからメールで短文を投稿していました。
なので「始めてみました」みたいな感じもまったくなく、ぬるっと始まります(「往生際〜」が初postです)。当時はペンネームからとって「気象情報」を名乗っていたので、Twitterネームも当時はそれだったのかな(のちに“WF”を使い始めますが、これは“weather-forecast”からとっています。mixiのニックネームがそれでした)。ID:daikouzuiは最初からです。いずれにせよ、大学入試の二次試験直前の現実逃避みたいな感じでした。余裕とはいわないまでも模試でいうとA〜B判定くらいはあって、センター試験もうまくいっていたので、「早く当日が来て終わってくれ、もう勉強したくない!」みたいに思っていたような気がします。
4コマ漫画と恋愛漫画を乱読し、高1の夏に見たエヴァにハマってアスカ派を自称していました。パソコンに少し詳しくてコミュ力が低く、身体が小さくて運動ができずメガネをかけている、スクールカースト低めのオタクでしたが、オタクというほど何にもハマっていなかったようにも思います。ゴリゴリの進学校にあって成績がよかったので、中高一貫の中3〜高1くらいから、いじめられるようなことはなくなりました。
当時から変わっていないのは「かわいい女の人が普通に好きで、それを普通にインターネットに書く」ということくらいでしょうか。「愛ちゃん」は皆藤愛子さん、「萌様」は福田萌さんです。マナカナのおふたりにはCDを買う(歌を出していたんです)くらいハマっていました。時代を感じますし、性癖が浮かび上がってきます。ほか、松尾依里佳さん、倉科カナさん、豊田エリーさん、中川翔子さん、吉澤ひとみさん、佐藤ありささんあたりが好きだったかもしれません。系統に幅はあるけれど、いわゆるたぬき顔にはとにかく弱いというのは現在も変わっていません。ほんまきもいな。
当時、中高ずっと続けて最後は委員長までやった放送委員会の後輩のことがめっちゃ好きだったんですけど、改めて考えてみるとその子もたぬき顔っぽかったかもしれません。
大学に受かり、上京が決まります。親と一緒にいたとはいえ、合格発表は現地で見たのに、夜中までpostしていなかったというところに時代を感じます。そこから2日くらいかけて家探しをして、2日くらい東京で余ったので(落ちてたらそのまま後期試験を受ける手はずでした)渋谷とか池袋をぶらぶらしました。ただただ都会が怖かったです。
地元に戻って10日間くらいを過ごし、上京です。改めて振り返ると、スピード感にくらくらします。最初に住んだのは調布でした。不動産屋にはめこまれただけで、いまとなっては定期代が安かったくらいしか住んだ理由が見いだせませんが、好きな街でした。再開発される前の、駅前の開かずの踏切が懐かしいです。上京組がまず住まない場所だったので、ちゃんとひとりになれる場所だったのは良かったかもしれません(井の頭線沿線は同級生だらけ、渋谷を歩いていても同級生に会うような感じでした)。駅裏のアダルトショップとかにこわごわ入ったのがいい思い出です。
(love the worldを体育大会で踊り、Dream Fighterを聴きながら受験勉強をし、ワンルーム・ディスコ発売のタイミングで上京しました。Perfumeど真ん中世代です。)
■東京で心を折られる(2009年5月〜9月)
Twitterをまだそんなにやっていない時期なので引き続きただただ自分語りのようになりますが、この時期が僕の人生にとっては大きな転機だったように思います。中高時代は放送委員会で文化祭にかかわり、映像制作や体育大会のアナウンスをし、プライベートでは小説を書いていたので、それを続けたいと思った結果、学園祭の実行委員会と放送研究サークル、文芸系のサークル(なぜか文芸系で2団体)に所属し、授業をいっぱい取り、バイトを始め、自炊を頑張ろうとしたら一瞬でパンクしました。そりゃそうだという感じですね。
大学のクラスでも学園祭の模擬店の責任者とかを引き受けまくってしまい、結局全然何もできなくて、いろいろな人に迷惑をかけました。うっかり東京に出てきてしまい、全能感みたいなものもあったのでしょうか。高校時代までみたいに、仕組みが歯止めをかけてくれることもありませんでした。絵に描いたような失敗です。
放送研究のサークルがまだ立ち上げ2年目くらいだったので、即戦力として使ってくれて、そこにいちばんリソースを割いていました(ブラック企業みたいな話ですが)。5月の学園祭で物理学科の研究室の企画が上映・配布する映像を撮影・編集し、前夜祭で行われたスマブラ大会の司会・実況をさせてもらいました。そこまででいっぱいいっぱいで、文芸サークルからは一瞬でフェードアウトし、部屋はぐちゃぐちゃになり、食事もろくに取れず、授業にもあまり出なくなりました。学園祭の実行委員会からも逃げ出そうとしたのですが苛烈な引き止めにあって失敗しました。
そのようななかにあって、母校の体育大会が5月半ばにあったのですが、どうしてもそれを見に行きたくて夜行バスで帰省しました。それに合わせて好きだった子に告白することにして、土曜の前日準備の日から乗り込みました。数日前、物理学科の研究室で、映像のレンダリングを待ちながらメールをして、その日の授業が終わったら校舎の中庭に来てもらうようお願いしたんだったと思います。
先輩後輩なりのかかわりは数年あったわけですが、別にそこまで親密だったわけではなく、2年くらい勝手に募らせていた思いが爆発しただけの、ありがちオタク男子のありがち告白という感じで、結果は最初から見えていた通りになりました。ただ、すっぱり玉砕したみたいな感じではなくて、相手は後輩なので気を使いますから、「何と断ったらいいか……」みたいな時間がマジで30分くらい続いていた気がします。事情を知らない通りがかりの生徒にめちゃくちゃじろじろ見られたし、こっちはアホみたいなことしか言えないし、でも会話を切ったらそこで終わりだからそれでも話していたくて、ただただ申し訳ないことをしました。そういえば散髪に失敗してわけのわからない髪型になってもいたんですよね。生き恥みたいな時間でした。
それでも翌日は普通に体育大会を見に行って、後輩の姿を見て泣いたりしていたんですよね。どういう情緒だったのか、もう思い出せないです。
東京に戻ります。どうしようもなく忙しかったのはある意味幸せなことでしたが、ボロ雑巾のようになって生きていたことには変わりありません。新型インフルエンザ禍の年だったのですが、このタイミングで高熱を出し、マジで終わったと思いました。結局ただの疲れと不摂生による風邪だったっぽくて(新型インフルエンザには11月にかかりました)、映像と司会の仕事はなんとか完遂しました。その後、秋の学園祭に向けて実行委員会が容赦なく引っ張ってきたので、放送のサークルからは逃げてしまうことになります。
リリースされたばかりのPerfumeのアルバムから「I still love U」を10日で1000回聴いたりしながら期末試験の勉強をしますが捗々しくなく、不眠になり、またも高熱を出し、ギリギリのところで単位をとったみたいな感じでした。どこをどうやったらあそこから進学振り分けで経済学部に行けたのかよくわかりません。
長い夏休みがきて、実家に3週間くらい引きこもりました。自室でポケモン(ピカチュウバージョン)とパワポケをしていました。小説を書こうとして、書きたいものがなくなっていることに気づきました。変われなかったのに、失ったものがありました。
そういえばこの時期は鬼のようにmixi日記を書いていました。何を書いていたか忘れましたが、読み返す気は起こりません。この後の時期くらいにmixiにもTwitter類似の機能が実装されて、iPhone3GSに携帯を換えたこともあり、「ツイート」(当時はまだそんなことばありませんでしたが)のノリにだんだん近づいていった、という経緯だった気がします。
■委員会沼に飲み込まれる(2009年9月〜12月)
9月に母校で文化祭があったので、また地元に帰りました。高3生は文化祭にはほぼ参加しない一方、体育大会と違って多くの卒業生が遊びにくるので(体育大会のときは本当にひとりで乗り込みました)、フラれた相手に会うこともなく、まあまあ楽しんでいたのではないでしょうか。
ただ、この時期はとにかく体調が悪かったという記憶しかありません。咳と微熱がずっと続いていました(「精神安定剤」とは眠剤のことでした)。この日に帰京するはずだったのに、どうしても体調が悪くて新幹線の切符を払い戻して病院に行き、そのあとで飛行機で帰ることにした、ということがあったと思います。よっぽどでした。
体調の悪い話ばかりが出てきますが、この後もしばらく続きます。いまにして思うと、ただただちゃんと食事をしていなかった(栄養が偏っているとかじゃなくて、本当に食べていなかった)ように思います。ラーメンや牛丼をひとりで食べることに慣れていったら安定したので。
やりたくない、辞めたい、と思っていた時期の長かった学園祭の実行委員会ですが、11月下旬の当日が少しずつ見えてきて、ここまできたら任された仕事はやりたいと思ったのと、委員会室がキャンパスでの居場所になったので、むしろ他の活動をどんどん削いで、委員会にリソースを投入しまくるようになりました。
担当としては、映像関係のものに加えて、有名な企画や団体の人に話を聞いて記事を書くような広報系の仕事をしていました。ほか、委員会室に居ついていたので、みんなでやる作業とか雑用とかもよくやっていました。広報系の仕事との関連で、カメラを触るようになったのもこの時期です(昔からほんのり醜形恐怖があり、写真を撮られることに抵抗があったので、内部的な資料写真や記念写真みたいなものまで含めてとにかくカメラ係を買って出ていました。撮っている側になれば撮られることがなくなるので)。相変わらずしんどいことも多かったですが、自分で何かをやっているような気持ちになっていたんじゃないでしょうか。
このときも、(今度は委員会内部からの人選で)前夜祭で司会をしました。どういう台本だったか忘れましたが、ハレ晴レユカイを司会も踊り出すというくだりがあり、一生懸命練習をしたことを覚えています。
11月に入ったくらいから周囲で新型インフルエンザの罹患者が増えてきて、学園祭当日にダウンしてしまった先輩もいました。僕も当日が終わったあたりで罹患したのですが、回復したと思ったらすぐウイルス性胃腸炎にかかって、だいぶ辛かったです。
当日がきちんと終わったので委員会を辞めてもよかったのですが、これらの時期を経て他のコミュニティから切れていたこともあり、なんとなく残留して次の年もやることにしました。オフシーズンになったということでもなく、関連団体に出向みたいなイメージで、新歓活動全般の統括をする委員会に所属することになりました。
自分としては末席でみんなのお手伝いができれば、程度の気持ちだったのですが、人材不足のあおりを受け、委員長になりました(人前に出る仕事はないので、つまりは公式な雑用係です)。学園祭を続けたこともそうですが、ここで変に肩書きがついたことがまたひとつ転機となりました。
新歓活動の委員会は、サークル新歓の制度設計や、クラスオリエンテーションにおける上下クラスの割り振りなど、いろんな人の利害がかかわり、あるいは思惑をぶつけられるもので、あまり人に言えない仕事でした。圧力をかけられ、罵倒を受け、冷たい目で見られることもありました。Twitterにもあまり、はっきりしたことは書いていなかったと思います。
■冷たい雑巾を絞る(2010年1月〜4月)
次の学園祭でも映像や広報の仕事をするつもりだったので、年明けにデジタル一眼レフを買いました。ここから2016年くらいまで「趣味はカメラ」ということになり、いろいろなところに(主にひとりで)遊びに行ったほか、社会人生活序盤での平穏な自己紹介も手に入れることができました。
前年にオープンした駒場のラーメン千里眼をきっかけに、この時期に二郎系にハマってしまいます(環七新代田、仙川、府中、らーめん大下高井戸など)。あと、乗り換え駅だった明大前駅で下りて、ペッパーランチ(研修のための店舗だったらしく、ワイルドペッパーステーキが500円というキャンペーンをずっとやっていましたが、この直後の時期に潰れたはずです)とかすた丼とかをガンガン食べるようになります。人生で初めて「太る」という現象が起こりました。
委員会の仕事で、新入生が入ってくるのに向けていろいろと準備をしながら、入試の日にキャンパスで勧誘活動が行われないか見回ったり、立看板が規定以外のところに置かれたり壊れたりしていないか毎日チェックしたりしていたはずなのですが、そのような匂いのするpostすらほとんどみられないことに驚きます。もしかしたら、どこかのタイミングで消したのかもしれません。
確認できたのはこれくらいでした。だいぶ佳境の時期ですが、ビラ詰め封筒の作成作業に使う1号館の机をぜんぶ拭いたか何かで、大量に雑巾を使ったので、屋外の水道でひたすら洗って絞っていたら、さすがに愚痴が言いたくなってしまった、みたいなことだったとしっかり覚えています。みんな忙しくて誰かに協力をあおぐにも気が引けたのと、思ったより時間がかかってしまったのとで、指先も心もかじかんでしまいました。
この件の直接の担当者とその補佐が男女コンビだったのですが、この時期には確か陰で付き合い始める直前くらいに至っていて、立看板の見回りをしてくると称して揃っていなくなっちゃったんじゃなかったかな。僕の立ち位置からしたらそんな機微がわからないはずないんですけど、何もかもに気づいていないふりをして雑巾を絞っていました。総じて、そんな仕事ばかりでした。
学園祭のほうはオフシーズンにあたりますが、新体制を決めるために役員選挙や組織編成の話し合いが日々行われていました。学園祭に対してはそのあたりに前のめりに取り組むほど熱心ではなかったのですが、委員会室が共有だったので、そこにも参加しないと人間関係的に差し支えるみたいな状況でした。仕方ないので議事録係をずっとやっていた(しゃべらなくていいので)という覚えがあります。
はっきり言ってしまえば、ひたすらダルかったです。ハタチそこそこのイキった温室育ちが、自己顕示欲をギンギンに勃起させて「俺の考えたさいきょうのアイデアに従え!」みたいなことを言い合っている不毛な時間で、ああ、人間ってクソ……という思いしかありませんでした(新歓のほうの仕事を止められるのでなおさら)。
委員長の僕がプッツンするとさすがにアレなので、Twitterにたまに抽象的な愚痴を書く程度にとどめて、委員会室では朗らかでいるようにしていました。朝ちゃんと起きて毎日委員会室に向かい、徹夜作業して床に落ちている連中を起こし、毛布をたたんでゴミ出しをして、人が集まってくるまではひとりで電話と受付の応対をする。遅刻しそうな奴がいればしつこくモーニングコールをし、役員選挙に負けた奴や主張が聞き入れられなくて萎えている奴と一緒にごはんを食べに行って話を聞く、みたいな動きをしていました。
その後いろいろと変遷はありましたが、こういう動き方を大学卒業ごろまで続けていくことになります。
詳細はもうあまり覚えていませんが、無事に新入生を迎えることには成功したのでしょうか。なんとか走り終えて、落ち着いた! と思ったら新学期になって(当たり前ですが)、気持ちがついていかなかったのはよく覚えています。
当時、新入生全員に配布する冊子の冒頭に寄せた挨拶文が発掘されたので、貼り付けておきます(委員長らしい仕事は、本当にこのくらいでした)。
偉そうな文体の割に大したことは書いていませんが、思想みたいなものは出ていると思いますし、別にいまの僕にも共感できる内容です。ひらたくいうと「大学に入るといろいろあるよ。思うようにならないこともあるかもしれないけど、気に病まないでね。あらゆるものは思ったより悪くないよ」みたいなメッセージで、すでに何者かになることを諦めた、当時流行りの言い方でいうと「東大までの人」の感じがビンビン出ています。それは書いたときからわかっていたけれど、このくらいのメッセージを送る人がいてもいいかな(全員僕みたいになったら困るけどね)、くらいの気持ちでした。
まあ、誰にも読まれていないような文章だと思うので(大学入学当初にいっぱい配られた謎の冊子のうちのひとつですから)、ここで供養ということで。でも、「現在においてのみでなく未来においても……大学生活という場所を肯定できる人であってください」と、10年前のことについていまでも愚痴っている(本稿のことです)僕が書いていたというのはなかなかの皮肉ですね。嘘ではなかったというつもりですが、同期に対して内心キレ散らかしていた頃に書いたものとは思えません。
■もうなにもしたくない(2010年5月〜9月)
学園祭での動きが始まると多少心が楽になったのか、具体的なpostが出てくるようになります。この頃、どんどんTwitterを始める人々が増えてきて、僕はずっと匿名アカウントでしたが、タイムラインまで人間関係に飲み込まれていくことになります。リプライで絡んだりはしていましたが、気づかないふりをしてフォローを返さないみたいな、最低限の自己防衛はすでに始めていました。
ヘルプのような形で学園祭にも加わり、またしてもステージイベントで司会をさせてもらいました。これまでと異なり、経験者として場を引っ張らないといけない立場となって、胃がキリキリするくらい緊張しましたが、早押しクイズの仕切りがめちゃくちゃうまくいったのを覚えています。楽しかったです。
この頃、Twitterネームが「WF」から「気象情報」になりました。「きしょう」になるのはもう少し後のことです。秋の学園祭に向けて、新入生を迎えて具体的に動き出していった頃ですが、この頃半ば勝手に始めたのが、マスコットキャラクターのTwitterアカウントです。まだあまり世の中に「公式Twitterで情報発信!」みたいな雰囲気がない頃で、実行委員会の公式アカウントより先に始めたくらいでした。おおむね真面目に広報活動をしていましたが、成績発表の日には学生を煽ったりもしていました。
このような口調にしたのも、語尾に「けろけろ。」と定型的につけるようにしたのも、すべて僕が勝手にやりました。「あのバカはTwitterが好きみたいだから適当にやらせておけ」みたいに思われていたという感覚があります。でも、学園祭の中身は(特にこの間にはコロナ禍もあり)ずいぶん変わってしまったようだけど、このアカウントはほぼ変わらないスタンスでずっと続いていて、僕はあなたたちよりいくぶんレガシーを残したんじゃないかなあ? と、いまでもたまに心の中でマウントをとることがあります(「あなたたち」には、もう何年も会っていませんし、連絡も取っておらず、SNSも見ていないのに)。
ゴリゴリの恋愛漫画を買ったのでdaikouzuiで写真をpostしようと思ったら、komakkeroにpostしてしまうという大やらかし(恋愛欲事件)もしましたが、大きく炎上することもなく、責任を問われることもなく、daikouzuiから直接リプライを飛ばして「非公式RTを消してください……」とお願いする程度で火消しができました。平和な時代でした。
(※当時はツイートに画像を添付することができなかったので、外部サービスに画像をアップしてURLを貼ることが一般に行われていましたが、それ専用のクライアントアプリでアカウントを切り換え損ねてしまいました。)
これがきっかけでフォロー関係になった同級生と、のちに偶然友人関係となって結婚パーティに招かれるほどの間柄になり、いまもほんのり関係が続いているという、僕としては珍しいタイプのほのぼのエピソードもあります。
ちょっと楽しそうなエピソードを挟みましたが、学園祭に対するモチベーションは最悪でした。執行代となった同期の雰囲気が悪すぎて、今日辞めるか、明日辞めるか、というメンタルで日々をやっていました。Twitterにはまったく書いていませんでしたが、8月10日に母方の祖父が亡くなっており、少し前から危ないとは聞いていたので、どうしても外せなかったミーティングを終えて夜行バスに飛び乗ったけど間に合わなかった、ということもあって、よりいっそう薄暗い気持ちになっていました。
1年生が辞めてしまうのはよくあることなのですが、おおかたの仕事の内容も忙しさも、一定の責任も理解したうえで「2年目も残る」と決めたはずの執行代が何人か飛ぶという異常な状況が起こっていました。みんな仕事のできる優秀な同期でしたが、温室育ちの大学2年生ということを差し引いてさえ、人格に瑕疵があったように見えました。
最終的にほぼ全員と関係を断ったのは数年後のことでしたが、僕は当時からずっと、彼らのことを認めていないし、許してもいません。
(彼らに瑕疵があったのか、ただ僕が歪んでいるだけなのかは、僕には判断がつかない、ということだけ、一応ことわっておきます。)
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つぎはその2です。
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