本との遭遇覚書・「山奥ニート」やってます。
社会活動にもキラキラしたものを求める風潮が世の中にあって、キラキラで救われる人もいるだろうけど、キラキラに近寄れない人もいる。
またキラキラすることが目的化してしまうこともあるだろう。それはしんどさの上からキラキラをコーティングするだけで、しんどさ自体は消えもなくなりもしないのではないか。
だからキラキラしなくてもいい場所をつくりたい。
グダグダでもいい、ただそこにいるだけでいいんだよと伝えたい。
まあ僕がコミュニケーション不全で、キラキラしたものが苦手だから思うのだろうけど。
劣等感やマイノリティ要素を個性や才能として開花させるためには、まず「そのままでいい」と思えることが必要だろう。
しんどい自分をそのまま認めてくれる場が必要で、それ抜きで劣等感やマイノリティ要素をキラキラしたものに変換させようとすると、それすらできない自分という自責感だけが増幅するだろう。
『「山奥ニート」やっています。』(石井あらた)と遭遇。
山奥の限界集落で共同生活する山奥ニート。必要な時に必要なだけ働き、好きなように時間を過ごす。
憧れや理想ではなく、こういう生き方をしている人たちがいるということが、社会を生きやすいものにしているのではないかと思う。
感銘を受けた一冊。
「山奥ニート」という言葉が素敵。
素敵なだけに独り歩きする怖さもあると思うが。(実際している?)山奥ニートは企画やアートでなく、ただの生活だというスタンスも素敵。
何かに名前をつける行為は、価値観や意義を生む行為でもある。自分の活動に名前をつけるのは大切だ。
駄菓子屋やろうかなーという想いが再発しています。
昔駄菓子コーナーやっていたのですよ。その時は部活帰りの中学生が来て、家に帰る前にうまい棒やチョコレートをがっついてました。
儲け度外視にしたらダメだろうけど、儲け度外視でやりたいですね。
それとは別に、好きに食べていいよのお菓子も用意する。今でも儲けがないのに、儲けのないことばかり考えている。
理由なく何もしなくていい場所の「10代のヒミツキチ」の一環としてやりたい。
理由なくただいていい場所に行くための理由づけが必要な場合もある。謂わば、行くための言い訳。
古本屋というものがその言い訳になると思っていたが、誰もが本に興味があるわけじゃない。
もっと入口を広げるのが必要なのかも。
理由づけとして「駄菓子屋」は効果があるのではないか。無料のお菓子よりも、お菓子の販売の方がいい場合もある。
同志を募り、駄菓子コーナーに置きたい駄菓子を仕入れてもらう。大吉堂に並べて売る。売上金はヒミツキチ貯金箱に入れて、何もしなくていい場所(10代のヒミツキチ)の維持に利用する。
てな感じに寄付で運営する駄菓子屋なんてどうだろう。
誰も来なくても、やることに意味がある。でもやるからには、それを求めている人に「ここにあるよ」と伝わってほしい。
そのためにどうすればいいのか考える。
因みに大吉堂がやっている何もしなくていい場所「10代のヒミツキチ」は、こんな場所です。
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