白刃の女神(第十二部 お泊まり会) 後編 第十二部完
彩香はそのままご飯を作るということで台所に連行されて
いった。僕はというと、もう一度名手と遊ぼうかと思ったの
だが、彼が木陰で気持ちよさそうに寝入っていたので、暇に
なった。そこで、どれ、本当に僕の車が目覚めているのか確
かめてやれと駐車場に歩きだした。
そこでは、ちょうど主人がパナメーラ(53)の洗車をし
ていているところだった。
「ホイール洗ってもいいですか?」
「やぁ、愁君。彩香はどうしたんだい?」
「台所に連れて行かれました」
「はは、そうかい。ホイール洗ってくれるのかい?」
「えぇ。父にホイールマンと呼ばれたくらいですから、綺
麗にしますよ」
「それは頼もしい。それなら、手伝ってもらおうかな。そ
この道具使ってくれてかまわないから」
僕は主人の邪魔にならないように反対側のホイールから掃
除を始めた。ポルシェは、というより、外国産の自動車はと
かくホイールが汚れやすい。それもそうだ。国産はブレーキ
パッドを磨耗させて自動車を止めるが、外国産はディスクそ
のもので止めるのだから。効きは良いが、これはこれで、手
間暇がかかる。
父親はホイールが汚れているのをよしとしない人間だった。
人間は足下が大事だ。そう力説する父親に爽香が、これおク
ルマだよ? と目を丸くしていたのを思い出して僕は笑った。
そんな父親に僕は初め、どうせすぐ汚れるのにとか、飛び石
と同じで男の勲章だろ、と、噛み付いたこともあった。とこ
ろが、父親の言っていることがあるものに似ているな、と、
気がついてから、僕は文句をすっかり言わなくなった。
それは、自衛隊員の作業着と同じだ。すぐに汚れるのに、
いつもアイロンがけがされている。それは、彼らの寝床と同
じだ。何回も使うのに、使う度に綺麗に整頓されている。い
つどんなことがあってもいいように、常に自分の身の回りは
ちゃんと綺麗に片づけている。汚れるからとか、何度も使う
からとかそういった次元を越えている。
彼らの決意や配慮の染み付いた清楚さは僕の行動をも変え
た。僕は彼らのこの思想が嫌いではなかったのだ。今日もど
こかで綺麗な作業着が揺れていることだろう。一身に汚れて、
それは、誰かを守るのだ。
僕は災害で知った彼らの無事を今日も祈った。皺のない作
業着を当時の僕は嘲笑った。彼らはそんな僕を袖で髭が剃れ
るんだぞ、と言って笑い飛ばしてくれた。
あれほど生意気だった僕がホイールの汚れをこうして拭き
取っていると知ったら、彼らはまた僕を笑い飛ばしてくれる
だろうか。
気がつけば、僕は汗だくだった。
――まったく、こいつは何馬力あるんだ。
確か、ポルシェはその車体が持つ馬力の3倍くらいまで止
められるブレーキを持たせているんだって父親が昔言ってい
たような気がする。
他の車と比べたら、確かにポルシェのブレーキキャリパー
はとても大きかった。男心をくすぐるけれど、でも、まった
くもって、世話のかかる奴だとも思った。でも、たぶん、こ
いつを持ち上げたなら、キャリパーにはMade in Italyって
書いてあるのがはっきりと見えるんだろうな、と思うと少し
残念だった。
――ドイツ車はいいぞ。でも、ブレーキはイタリヤが凄いっ
て、何なんだ、それ。
父親に連れられた頃の僕はそう思った。ドイツ車なら、車
すべてがドイツのものでできていると思っていて、要は考え
方が単純だったのだ。
2つ目のホイールを拭き終わって、キャリパーをパーツク
リーナーで黄色く輝かせていると、ちょうど、主人がリアガ
ラスについた水を拭き取っているところだった。
「お、随分と綺麗にしてくれているね?」
「えぇ、なんといっても父親専属のホイールクリーナーで
すからね」
「はは、それは拗ねているのかい?」
「それも……ちょっとありますかね」
僕と主人は顔を合わせると、互いに笑った。でも、この笑
いはきっとワンクッションに違いなかった。本題に入る前の。
「愁君?」
「はい」
僕はそれを分かっていながらも、あえて、黙々と作業を続
けた。ウォータースポットができては大変だ。でも、正直、
今日が曇りでも主人の顔を見られたかは自信がなかった。
「それにしても、突然だよ。本当にまさか、こんな日がやっ
てくるとはね。この前まで男の名前を少しも出さなかったと
いうのに。まったく。今やもう、彩香はすっかり君のお嫁さ
んになる気でいる。ところで、君はどうなんだい? 娘のこ
とをどう思っているんだい?」
しゃがんだままでも主人を見ることはできた。できたけれ
ど、僕は作業を止めて立ち上がってその質問に答えた。
「好きです」
「はは、そういうことじゃないよ。君も娘と結婚する気が
あるのか、と聞いているんだ」
僕は当惑した。けれど、主人の目つきは真剣そのものだっ
た。でも、まさか、付き合って数ヶ月足らずで、こんなふう
に聞かれるとは思ってもみなかった。ただ、意に反して僕の
背筋はますます真っ直ぐに伸び、ただ、短く二言発した。
「はい」
「……そうか。私はね、そう思ってくれること自体は嬉し
く思う。思うが、娘とそういう話をして欲しくないとも、ま
た、同時に思っている。分かるかい?」
「えぇ、僕らがそれを口にするにはまだ早すぎる、そうい
うこですよね?」
「あぁ、その通りだ。ただ、付き合った期間とか年齢がど
うのということだけで言っているんじゃない。君らが経験す
るこれからの人生の可能性がまだまだ満ち溢れているという
意味で、それを語るには私は早すぎると言いたいんだ。私は
君のことを随分と誤解していたし、許されないことも私は君
にしてしまった。今となっては、君のことをどうこういうつ
もりはいまの私にはもうないんだ。ただ……」
「分かっています」
僕は主人の言葉を遮った。次に言われる言葉は容易に想像
できたし、僕もそれを理解しようともがいていて、だからこ
そ、それを他人に指摘されるのが嫌だったのだ。
「この先どれほど良い出会いが彩香さんにあるのかは想像
に絶えません。僕はそれでも、やせ我慢かもしれないですけ
ど、彼女の側に良い人が一人でも多く現れてくれたら、と思っ
ています。そのなかで、彩香さんが僕を選んでくれたのなら、
それはもちろんとても嬉しいことですけど、可能性として極
めて低いことも分かっています。ですから、彼女が新しい世
界に飛び込もうと望むのなら、僕は喜んで身を退けるように、
心構えをどこかでしています」
「そうか……でも、それは何も娘に限ったことじゃないだ
ろう? 君にとってもそう言えるんじゃないのか。もっと、
君に対して優しい人が現れるかもしれないし、君の胸を打つ
可愛い子が現れるかもしれない。君はそのときどうするんだ
ね? うちの子を放り投げるかい?」
先ほどまでウォータースポットのことを気にかけていたは
ずなのに、今の僕はもうすっかりそれを忘れた。穏やかに、
しかし、挑発じみた主人の言葉に対して、僕は必死にそれと
同じように言い返そうと誓った。
彩香に対する僕の愛情の底を測っている。それは親として
当然の行為かもしれない。とはいえ、彩香に対してぞんざい
な言い方をしたいまの発言に僕の胸中は一気に焼き払われた
気分だった。
――放り投げる。
こんな言葉、彼女に近づけるべきではない。僕は本当に彼
女の肌を傷つけられた気がして、狂いそうになった。そこで、
僕は如何にその言葉が彼女に対して不適切であるのかを是非
とも説明してやりたいと考えた。
彼女が如何にこの世間一般の女性と乖離して、その尊さを
備えているのかをこのとんちんかんの親に説明してやりたい
と思った。傲慢にも、僕は謝罪さえさせたかった。
「そんな言い方よしてください。彼女は物じゃない」
でも、僕は本気でこの男にそれを分からせようと思って、
あえて、彼の問いに「物」で答えてやろうと思った。それで、
彼に憤慨してもらえれば、僕はどれほど笑顔になれるだろう
か。
「単純に容姿とか、中身で好きになったわけではないんで
す。たとえば、僕の車を見て下さい。容姿についていえばも
う、この車は年代ものですし、ボディのよれも否めません。
決して、美しくはないかもしれない。そこかしこでいまドレ
スアップされている車の方が明らかに艶やかでしょう。中身
にしてみても、生みの親が言うとおり、最新のものが最良だ
と思います。僕の車はこの車と比べたら、遙かに快適じゃな
い」
主人もすっかり作業の手を止めていた。僕の手のなかでは
スポンジが悲鳴を上げて、僕の手は洗剤に染まっていた。
「ところで、僕はこの車を好きになった。おじさんがどう
して空冷(54)を「捨てたのか」は知りません。でも、僕
はこの空冷を絶対に捨てない。分かってらえますか。そもそ
も明確な基準なんてないんです。彼女を前にすると性格がど
うであるとか、容姿がどうであるとか僕にはそれがまったく
目に入ってこない。僕にとって彼女はそういう人なんです。
もう、相対的に見られないんです」
僕の反抗にじっと耳を傾けていた主人がようやく声を出し
た。でも、それは僕が期待した怒声ではなかった。
「……まったく、基準がないなんて随分と危なっかしい子
だね、君は」
「……すみません」
僕は不覚にも謝ってしまった。謝意はない。けれど、その
声の調子に抗うことがどうしてもできなかった。
「まったくだ。やっぱり、私はまだまだ君を認められない。
私の可愛い子だ。基準をもってもらわなきゃ。それでいて、
娘をその基準の超越者にしてもらわないと、な」
そう言うと、主人はいじらしく笑った。
主人と僕はパナメーラの洗車を終えると、次にふたりして
父親の車を洗った。僕は感謝の意を込めて、この車を念入り
に洗った。
――あぁ、そうなんだ。
僕は主人と僕に共通したたったひとつの物として、先ほど
の会話でこの車を例に出したのだと思っていた。でも、恐ら
くはそうじゃない。物のなかで物じゃなくて、もっとも尊い
と思える物がこの車だったから、僕は例えたのだ。単純に物
でいいなら、物持ちの良いカラーバットでもかまわなかった。
ただ、僕は今回そこに彼女を見立てるのが我慢ならなかった
のだ。
僕は玄関に戻るまで、主人の言葉をずっと考えていた。僕
の道中は相も変わらずに課題で満ちている。
――なぜ、主人は最後に僕を茶化したのだろう。
僕はすっかり主人の問いに答えられたと思い込んでいたの
だが、それが、気にかかっていた。まるで、主人は僕を相手
にしていなかった。表情で分かる。僕に結婚する気があるの
かと聞いたとき、主人は確かに大人を相手にしていた。けれ
ど、最後のあの言葉のとき、主人は明らかにこどもを相手に
していた。少なくとも、たったひとりの女性を奪い合うとき
にみせる顔ではなかった。
僕は自分の言葉を何度も頭のなかで繰り返した。それで、
あぁ、と思った。何のことはない。僕には自分の言葉がなかっ
たのだ。僕が言おうとしたことは単なる引用だ。結局、自由
な心が動くのを待つほかない、と言ったアラン(55)の主
張(56)をなぞったに過ぎない。
あれは、僕の言葉ではない。あの人がこう言っています、
僕もそう思います。こんなこどもにどうして娘を送り出すこ
とができよう。
――あぁ、なんというおこがましさだろう!
主人はきっとそこを知りたかったのだ。それなのに、僕は
その大事な部分を空白で答えてしまった。
――なんという恥ずかしい行為をしてしまったのだろう!
結局、僕がしていたのは背伸びではないか。主人には随分
と情けないこどもに映ったことだろう。僕はなんとか主張を
通そうと泣きわめいてあたふたしながら、大人に言葉を借り
に行っていたのだ。助けを求めていたのだ。それでは、どう
して、大切な娘を任せられよう。借りてきた言葉で必死に繕
おうとする男に。
僕はため息混じりにこんなことを口にした。
「爽香の父親がおじさんであったら良かったのに」
ふいに現れた言葉に主人はポカンとしていた。けれど、あ
の子が嫁ぐころには君の方が厳しそうだよ、と返してくれた。
僕はそれに笑った。事実上の敗北だった。
玄関を開けると3人の女神が慌しく走り回っていたので、
僕と主人は目を合わせて笑った。ご飯まであともう少しかか
るとのことだったので、僕と主人は中断されていたチェッカー
をすることにした。
もう落ち着いたものと思っていた僕の手は、また思い出し
たかのように震えだした。一つ一つの手がとても重くて、たっ
たの一手さえも、それは、気の遠くなるような行為だった。
僕は負けた。それも、2局目の敗戦でさえ嘘のように、僕
はあっさりと負けてしまった。基盤の目がだんだん不確かな
ものに変わっていく。ところが、目の前が見えなくなって、
代わりに見えてくるものがあった。
――あぁ、ゆっくりと頭に浮かんでくるのは、あのひとだ。
この戦いで失ってしまうのではないかと、これほどまでに
怯えていたのはこの大切なひとを失いたくなかったからなん
だ。
この勝負は彩香を賭けた、僕と主人との戦いだった。だか
らこそ、僕は勝利を渇望したし、同時に、敗北に畏怖の念を
抱いていたのだ。
歓喜と恐怖の入り交じった熱情が不随的に僕の全身をアド
レナリンとなって駆け巡っていたんだ。僕は主人に全力で戦っ
て、そして、勝てなかった。
「時間はあるさ。焦るほどのことじゃない」
主人の声が僕の虚栄心を優しく紐解いていった。すべてを
悟ったような気がした。僕は嗚咽をあげて、その場に泣き崩
れた。
――接待をしてくれたのは主人の方だったではないか。な
にが、接待なんかクソッタレだ。クソッタレは僕の方ではな
いか。
崩れ落ちる僕を主人はなにも言わずに、ただずっとそこで
見守ってくれていた。僕は味わったことのない惨めさを、い
ま初めて知ることができた。
しばらくして、彩香が入ってきた。彼女は入ってくるなり、
僕の顔を見て青ざめた。僕は詰め寄ってくる彼女に笑ってご
まかすしかなかった。いま知った自身の不甲斐なさを彼女に
知られたくなかったから。
僕はどうしようもないほど卑怯者だった。崩れた顔の理由
を、主人の冗談があまりにも可笑しかったから、と、さえ言っ
てしまったほどだ。
僕はまた大人にすがった。でも、僕の無礼を主人は罰しな
かった。僕はまた泣きたくなった。
彩香はどこに向けていいとも分からない怒りに身体を火照
らせていた。でも、主人は彩香になにを言われても僕のこと
しか視線に入れなかった。ただ、僕を一点にじっと見つめて
いた。
「愁君、私のこともいつか笑わせにきてくれないか。そう
なることを私は願っている」
少し間をおいて差し出された手に、僕はまた涙腺を焼きき
られそうになった。
「なぁ、何を話していたのだ?」
洗面所で顔を洗っていると、後ろから彩香が先ほどの経緯
を訊ねてきた。僕は排水溝に流れていく、いくつもの悔しさ
を見つめながら、それをそのまま見つからないように隠した
かった。
「……ごめん。でも、また今度ちゃんと話すから」
「いつだ?」
「次、会ったときに……必ず」
僕はまた情けない顔を鏡に映して、顔を洗った。そのかが
み込んだ僕の隣に彩香は身を寄せて、言葉の代わりに口づけ
を頬に返そうとした。僕はそれを察して瞬時に背筋を延ばし
た。彩香は眉をひそめた。
「ごめん……」
彩香は僕のシャツを引っ張った。
「私を蚊帳の外にするな。あんまりそんなことしていると、
おまえ、私が逃げても気づかないだろ?」
これは彩香が僕に出した、初めての警告だった。
「ん、ごめん。ちゃんと手をつなぎたいんだ。ただ、上手
な握り方がいまわかんなくて」
「分からなくても握ってろ。痛かったら痛いってちゃんと
言ってやる。手はふたりでつなぐものだろ?」
「彩香……」
「私はもう嫌なのだ。間を誰かに歩かれるのは」
「あぁ……そうだな」
「でも、忘れるなよ? おまえの手をつないだ相手は私だ。
おまえの隣にいるのはいつだって私だ。親父じゃない。そう
だろ?」
「あぁ、そうだな」
「分かってくれればいい。じゃぁ、早くこい。私の手料理
が全部親父に食われちまうぞ?」
無邪気な表情に返った彩香を見て、僕はつないだ手のぬく
もりの温かさに、改めて気がついた。
リビングに入ると、配膳を手伝いながら、僕はこっそり彩
香にどれを作ったのか尋ねてみた。けれど、当ててみろ、と
言うだけで彼女は教えようとはしなかった。僕は主人に発見
される前に見つけようと血眼になって探した。
見かねた夫人がそっと教えてくれたので、僕はその彩香が
作ったというものを手当たり次第、全部食べた。夫人はその
姿を見て呆気にとられていた。爽香に行儀が悪い、と怒られ
たが、主人も彩香も笑っていた。
僕は背伸びすることをもうやめようと思った。焦らないで、
これから歩いていこうと思った。いまの行動はさすがにこど
もじみているかもしれないが、これはふたりにそれを伝える
ためのメッセージだった。
彩香は僕と主人が一緒に風呂に入ることを禁じた。ふたり
きりになるのが、どうにも、我慢ならなかったようだ。結局、
僕は主人の前に、主人は最後に入った。
主人が出る頃にはみんな客間のキングサイズのベッドに寝
そべっていた。ただ、ひとり僕を除いては。僕はその和に入
るのはあまりにも恥ずかしかったので、客間の椅子でゆらゆ
らと揺られていた。それを見た爽香が、爽香を真似て彩香が
僕をからかった。
主人が客間に入ってくると手にはトランプを持っていた。
僕を一度、不敵な笑みで一瞥するとベッドの上にそれをひろ
げた。全員で豚のしっぽをやるようだった。どうやら、先ほ
どの僕の行為が主人の悪戯心に火をつけてしまったらしい。
僕はそれを始めて、ようやく、その酷い仕打ちに気がついた。
僕はトランプを思いのまま叩けないではないか。それも、
そうだ。主人の手をまさか叩くわけにもいかないし、夫人な
ら尚更だ。爽香もその悪戯に便乗して僕が彼女のあとに手を
乗せると、ワーワー喚くし、彩香も物凄く大げさに痛がった。
主人の顔が見る見るにこやかになっていくのを僕は真横で
確認した。結局、僕は大敗した。一度も一番になれないどこ
ろか、この勝負、僕は誰にもたったの一度も勝てなかった。
いつもなら赤くなるはずの手の甲が、妙に白く見えた。
このいけ好かないトランプショーが終わっても、誰も寝に
帰らなかった。僕は客間の広すぎるベッドで早く爽香を罰し
てやりたかったが、夫人がとんでもないことを口にするもの
だから、僕はそのことをすっかりと忘れてしまった。
「そうだ、ここでみんなで寝ましょうよ」
この提案はさすがに主人によってすぐに破棄されるものと
願って、僕は瞬時に主人に訊ねた。
「えっと、ひとつ聞きたいんですけど」
「あぁ、なんだい? 言ってみなさい」
「その、まさかとは思うのですが、ここで本当に全員で寝
るわけではないですよね?」
「良いじゃないか。家族が増えたみたいで実に愉快だ。な?
母さん?」
「ふふふ、そうね」
このとき、彩香の意地悪は父親譲りだと、疑いようもなく
確信した。
「どうしたんだい? 嫌かね?」
でも、僕もそう簡単に聞き入れるわけにはいかなかったの
で、できる限りの抵抗をした。
「あ、いえ、普段床で寝ているので、ちょっとベットだと
溺れちゃうかなぁ、なんて。できれば、その、下で眠りたい
のですが」
「ふふふ、まぁ、愁君ったら、お茶目ね?」
「お茶目ね?」
夫人の真似を無邪気にする彩香をギロっと見たが、彩香は
楽しそうににやついていた。もちろん、にやついてる子はも
うひとりいた。
「私もおばさんと一緒に寝たいな~」
「いいわよ。寝ましょう?」
「爽香ぁ……」
「結局、主人、僕、彩香、爽香、夫人の順で寝ることになっ
た。この寝る場所の位置はすべて主人が決めた。僕は最初、
彩香の隣にしてくれたことに感謝していた。けれども、これ
も思えば罠だったのだ。明かりをおとしてしばらくすると、
彩香が僕の手を握ってきた。僕は彩香の方を見ようとしたの
だが、反対側に主人がいるので、まず、こちらの様子を伺っ
ていないか確かめてから見ようと思った。
恐る恐る右を向いたら、案の定、主人がこちらを見ていた。
背筋がゾっとした。恐らく、それを知っていながら、彩香は
何度も強く手を引っ張ってきた。
主人は知っていたのだ。僕が文字通り板挟みの状態に陥る
ことを。彩香の攻撃はなおも止まない。明日、どうしてあげ
ようかとか思ったが、いまはそれどころではなかった。
―――――――――――――――――――――――――――
僕には変な癖がある。起きるときにはたいてい身体を回転
させて壁に頭をぶつける。ところが、ここにはその壁がなかっ
た。頭では分かっていても、身体はその馴れ親しんだ行動を
なかなか忘れてはくれなかった。
なぜか今日はやけによく身体が転がるなと思った。いつも
はすぐに壁にぶつかるはずだ。3回転ぐらいしたところだろ
うか、ようやく、僕は壁にぶつかって目を覚ました。でも、
変だ。いつもは額を強く打ち付けて顔をしかめるはずなのに、
今日は柔らかかった。
「あら、おはよう、愁君。目が覚めた?」
壁は夫人だった。僕は一瞬にして跳ね起きて後ずさりをし
た。ところが、今度はまた何かの壁にぶつかったので、僕は
恐る恐る後ろを振り返った。
「やぁ、昨日はよく眠れたかい?」
――ぎゃぁああああ!!
心の中ではまさにそんな奇声をあげていた。僕は慌しく右
に左に身体を跳ね除けた。
「あ、あの、あれ? あの子たちはどこへ行ったのでしょ
うか?」
僕はそう言って、交互に両親の顔を眺めた。ふたりは同じ
ように目をぱちくりさせたかと思うと、いっせいに笑いだし
た。
「ふふふ、可笑しなことを言う子ね」
「あぁ、まったくだ」
僕が「あの子たち」と言ってしまったことが原因なのだろ
う。僕はそうは言っても、やはり、まだ大人のつもりだった
のだが、このなかではどうしようもないくらいのこどもだっ
た。
「あの子たちはいまね、ご飯の支度をしているの。それが
出来上がるまで、私たちはここで寝ていなくてはいけないみ
たいよ?」
「あぁ、そういうことだったんですか」
「そうなんだよ。でも、いいかい、愁君? 彼女たちが呼
びにきたら、それは戦いの合図だ。悪いが、今日の彩香のご
飯は全部いただくからね」
「もう、この人ったら大人げないんだから」
主人は意外にも根に持つタイプだった。あれだけ砂を舐め
させておいて、それはないだろうと、僕は思った。
夫人の前で熱い火花が散った。
可愛い合図が心に鳴ると、僕と主人はベッドから一目散に
飛び降りて走り出した。唖然としているふたりを見て、夫人
は笑っていた。
朝食を終えると、僕はひとり庭に出た。もう少ししたら帰
ることになっていたので、僕は大きな木の側にそのまま腰を
下ろした。まもなく、彩香がやってきた。
僕は彼女が僕を捜し当ててここにやってきてくれたことを
嬉しく思った。彩香は隣にいたポチをひょいと退けると、僕
の注意も聞かずにそのまま腰を下ろした。
「ご飯、美味しかったよ?」
「ふふ、おまえ、あまり調子に乗るとそのうち親父に殺さ
れるぞ?」
「あぁ、しばらくは大人しくしていようと思う」
僕は結局、彩香のご飯をまたしても食べ尽くした。地団太
を踏んだ主人は彩香に明日も作ってくれるようにせがんだが、
彩香はそれを、それはムリだ、と、言ってのけていた。
「でも、昨日は酷く苛められたからなぁ」
「……そうなのか?」
「あぁ、彩香にも苛められた」
「ん? そうだったか?」
「そうだよ。豚のしっぽ」
「バカ言え。あれはみんな敵だろ?」
「おれは味方がいると思っていたのに。でも、その唯一の
味方がまさかのスパイだったからなぁ。このスパイめ」
「ふふ、懲らしめてやりたいか?」
「あぁ、いまもどうしてやろうかなって思ってる」
「ほんとか? 苛めるのか? 彼女なのにか?」
「ハハ、随分と爽香の真似が上手くなったもんだな? し
ないよ、そんなこと」
「なんだ、しないのか?」
「あぁ。だって、好きだから」
どうやら、彩香は意表をつかれたようだった。僕は普段、
あまりそれを言わないから、どうしていいのか分からないと
いった様子をしている。
「……バ、バカ言うな。昨日、手を引っ張ってもちっとも
こっちを見てくれなかったじゃないか」
「おじさんにずっと監視されていたんだ。しょうがないだ
ろ?」
「だろうな」
「え? なんだよ? やっぱり、知ってたんだ?」
「当たり前だ。何年、家族やってると思っているのだ」
「やっぱ、意地悪だな、彩香は」
僕はこいつめと言って、キスをするつもりだった。ところ
で、彩香はそれを避けた。きょとんとしている僕を、彼女は
真顔で見ていた。
「……ちゃんと、話してくれ。昨日のこと。キスはそれか
らだ」
「あ、うん。……そうだな。ごめん」
僕のなかでは答えが出たつもりでいた。でも、彩香は何も
知らされないままだった。僕は昨日のことをありのまま彩香
に話した。チェッカーで勝ちたがった理由、その前の洗車で
のやりとり、それから、僕が背伸びをやめようとしたこと。
すべて、話した。彩香は何も言わなかった。僕の肩に頭を傾
けて、ずっとそれを聞いていた。
話し終えても、しばらく反応がなかった。だから、僕は彼
女の肩に手をまわすのをためらった。その判断は奇しくも、
賢明だった。
彼女は立ち上がると、聞いたことのない、まるで、感情の
ない声でキスは当分おあずけだ、と語った。僕はその飾り気
のない言葉に、夏の終わりを予感した。
それからまもなくして両親と爽香が外に出てきた。ただ、
そこにもう彩香の姿はなかった。
「困った子だ。帰ってしまうのが嫌で、拗ねて出てこない」
主人は頭を掻きながら、それらしく、僕のために嘘をつい
てくれた。彩香の様子を見ているのなら、僕が彩香に昨日の
ことをすべて話したと、きっと、分かっているはずだ。
――何年、家族をやってると思っているんだ。
悔しいけれど、彼女がいま何を思っているのか、その真意
が僕にはまるで分らなかった。
―――――――――――――――――――――――――――
カーテンから愁が帰ってしまうのを見送っていた。いつも
はあんなに苦しいのに、あろうことか、この別れは私を安心
させた。
それもそうだろう。もし、明日もここに愁がいるというの
なら、私は部屋に閉じこもるしかなかっただろうから。つま
りは、私は愁の顔を見られなかった。とても悲しくて、愁と
別れたあの時よりも、もっと、大きな声で私は泣いた。
私は言葉が薄っぺらになるくらい愁のことが大好きだ。愁
はこんなにも私のことを温めてくれる。良いところならいく
つだって言ってやる。私にとって、彼以上のひとがいったい
どこにいるというのだろう。いるというのなら、すぐに私の
前に連れてきて欲しかった。
未来からだっていい。そしたら、私はおまえのことなんか
大嫌いだと言って、愁の目の前ですぐにひっぱたいてやるの
に。たとえ、そいつが愁のすべてを越えているとしても、そ
れでも、私はやっぱりそいつを思いっきりひっぱたいてやる。
それなのに、愁は私の気持ちを信じてくれていなかった。
私があいつから去る将来をしっかりと見据えていた。どうし
てだ。私はこれほどまでに愛しているのに。それなのに、ど
うして。
私はやっぱり蚊帳の外だった。こんなにも愁のことしか考
えていないのに、親父と……まさか、愁まで私のいない未来
を見ていただなんて。
あんなにも愁は私を愛してくれていて、私のことをこんな
にも安心させてくれるのに、私は彼をまるで安心させてあげ
られていなかったのだろうか。私はただひとりで夢を見てい
るだけだというのだろうか。
私は愁にこのまま愛されていいのだろうか。本当に彼女で
いてもいいのだろうか。この気持ちさえ、満足に信じさせて
やれないのに。
親父の言う通り、愁にはもっと立派な女性がいるんじゃな
いだろうか。彼をしっかりと包み込める誰かが他にいるんじゃ
ないだろうか。
でも、私はそんなの絶対にイヤだ。隣は私じゃなきゃ絶対
にイヤなのだ。でも、果たして愁はそれで笑ってくれるのだ
ろうか。私は分からなくなった。
彼の前にいることが急に恥ずかしくなって、キスなんかと
てもできなかった。いまは彼の顔さえ、まともに見られやし
ないのだ。私はもうどうしていいのか分からなくなった。
(53)ドイツの自動車メーカー、ポルシェが製造する、
4人乗りのスポーツカー。
(54)ポルシェ社製自動車のフラグシップモデル、911
に搭載されていた空冷エンジンのこと。1998年、
993型をもって当該自動車の製造は終了し、現行
モデルでは水冷エンジンが搭載されている。
(55)フランス帝国出身の哲学者、評論家、モラリスト。
アランはペンネームであり、本名はエミール=オーギュ
スト・シャルティエ。
(56)アラン『自由な魂』(『アラン著作集3』、白水社、
1981)p.22