白刃の女神(第十三部 エピローグ) 終

 去年の夏は例外にして、たいてい夏休み明けの登校は楽し
いものだ。もし、気に病むようなことがあるとすれば、それ
は、背負った鞄のなかに宿題が入っていないとか、それぐら
いのことだった。
 僕は夏休み前にそうしていたように、彩香を迎えに行った。
彼女は僕にもう会ってはくれないだろうと思ったのだが、僕
はしっかりとその意思表示を受け止めに行こうと考えた。
 ところで、彼女は僕に会ってくれた。嬉しくなってつい飛
びつきそうになったが、彼女の無表情を見て、僕の期待が気
休め程度であったことを悟った。
 結局、学校に着くまでにお互いが発した言葉は、おはよう、
だけであった。
 それからの僕たちの関係はすっかりと変わってしまった。
それは、付き合い始めた頃にも似ていた。僕の道中には課題
が山積していたし、ふたりの会話もなくなっていた。似てい
ないとすれば、そのことが悪い意味で僕にとってかなりの苦
痛になっていたことだ。
 ところで、傷みは認識すると退くどころか益々その存在感
を増していく。あの幸せだと感じていた体育館が、いまは花
も落ち、すっかり針の山だ。
 同じことを考えていることに一縷の喜びを感じたが、歩く
たびに針に足をからかわれ、彼女に声をかけるのも憚られた。
 結局、時間を逆戻しされたかのように、僕らは昼休みに片
面ずつをつかって、互いにそれぞれバスケをし始めた。
 夏休みの間に何かがすべてリセットされてしまったかのよ
うな光景だった。
 とはいえ、僕は彼女の日焼けした肌に眠る記憶を知ってい
る。ただ、それが真実であると主張するためには、あまりに
もいまの状態がそれと遊離しすぎていた。
 まるで、このバスケはふたりの乖離概念を打ち壊す作業の
ようにも見えた。だからこそ、僕は次の日から体育館に行く
のをためらった。
 僕は結局、彼女の肌に眠る記憶がすっかり剥がれ落ちてし
まう前に、彼女がもう一度その愛に目覚めてくれることを、
ただ、祈っていたのだ。

 それから、二ヶ月が過ぎた。もう肌でさえ、彼女の記憶を
その身から失ってしまった頃、僕は彩香の友達から手紙を受
け取った。
 ――あぁ、なんて懐かしいのだろう。
 僕はその手にした手紙をまるで失った宝物のように感じた。
だから、僕はそれを届けてくれた友達に深々と頭を下げてお
礼を言った。
 僕はその手紙に彼女の愛情を読みとろうと必死に探した。
たとえば、手紙の色だとか形だとか、小さく折り込んである
ところとか、そういったところに僕は彼女の愛情を必死に捜
し求めた。
 だが、どれだけ求めても、それは結局いまの僕の眼で見て
いる限りとても見つけられないような気がした。
 僕は意を決して手紙を開いた。せっかく折り畳んでくれた
手紙を破かないようにゆっくりと不器用に開いていった。鼓
動がうるさく、手も震えて、それに集中するのはとても容易
なことではなかった。ただ、手紙を開けるというだけなのに。
 僕は見えてきた文字の量に一瞬、眼を閉じた。一文だった
のだ。僕はそこに怯えていた。終わりの瞬間はこうもあっけ
ないものなのだろうか。
 僕はゆっくりと眼を開けて、その一文を僕のなかに迎え入
れようとした。
 ――愁へ 今日の放課後、校舎裏にきてくれ。彩香
 時が一瞬、止まった。まだ、僕は生きている。でも、だか
らといって、それが長く続く保証にはならなかった。なぜと
いうに、その文章に血の気が通っていないのを僕はいま確認
してしまったのだから。
 彼女はいつも手紙の始めに決まって、DEAREST愁と書い
ていた。僕はハーフじゃないが、その名前を物凄く気に入っ
ていた。彩香の名前の前にもFROMと書いてあったのに、
そのFROMも消えている。
 女性が名字を変えるときはそれは誰かの男に手を引かれた
時だ。僕の名字だって変わるとしたら、それは、僕が誰かの
手に渡った時だ。
 ――よし、それならば、いったい僕は誰の手に渡ったとい
うのだろうか! 教えてくれ、彩香。僕の名字はいまなんだ。
彩香の新しい名字は何なんだ。
 僕はそんなことを真剣に考えていた。日常生活でも、彼女
の手紙から親愛なるの文字が消えていたとしたら、僕は紙飛
行機になって橋から飛び降りていたかもしれないが。DEAR
とでも格下げされたなら、僕はきっとその文字を涙にかえて
彩香に送り返していたことだろう。

 この日の授業はその内容がすべてある一点に帰趨していた。
そのなかでもとりわけ刺激的だったのが、生物の時間だ。な
ぜならば、そこに出てきた内容の残滓がこの僕のいまの状態
のモデルを構築してくれたのだ。
 ――そうか。僕は誘蛾灯に向かっていたんだ。夏も終わり、
それを開けて見たら、僕の身体は水のなかに沈んでいた。
 そうだった。あの頃、真っ暗な暗闇のなか、僕は一人でずっ
と泣いていたんだ。けれど、そこにふっと灯りが見えて、僕
は無性に嬉しくなって、その奇跡にただお礼が言いたくて、
歩み寄って行ったんだ。でも、それは誘蛾灯だったのだ。
 僕が見ていた夢は誘蛾灯に辿り着くまでに、僕の願望が見
せた走馬燈だ。僕がただ最後に望むのは、僕の彼女に引き寄
せられた原因が走性ではなく理性によってであり、また、そ
の理性が愛情によるものであったことを、彼女の無表情に僕
が見つけられることだった。

 こんなときに限って、授業はいつもより早く終わった。歓
喜に沸くクラスのドアを僕は思いきり開け放った。すると、
もう何も聞こえなくなった。
 こんなときにどうしろというのだろう。最後に少しだけ時
間を与えられたからといって、僕にはそれが何の意味がある
のかまるで分からなかった。走馬燈でも自分の意志で見て来
いとでも言うのだろうか。とてもじゃないが、思い出巡りな
どできそうになかった。
 結局、僕はそのまま校舎裏にきていた。いつ外されるとも
分からない床の上に立って、ひとつ深呼吸をした。
 僕は眼を閉じて、花選びをすることにした。終演を迎える
に当たり、彼女に手渡す最後の花束を僕は綺麗に見繕ってあ
げたかったのだ。たとえ、いまはその花が愛おしく思えなく
とも、きっと、いつか彼女が改めてその花束を見たときに、
少しでも笑ってもらえるような、そんな花束を。
 いや、かさばるのはよそう。一輪で十分だ。たった一言、
僕は言えなくなる前に、たった一言でいいから、自分の言葉
を探しにあの日の庭に足を運んだ。

 「愁、寝ているのか?」
 僕は長いこと眼を閉じていたからなのか、彩香の姿を上手
く捉えられなかった。
 「いや、起きてるよ?」
 「そうか……すまない、急に呼び出したりして」
 僕はまだ庭にいた。それでハッとした。確かに彼女を待っ
ていたはずなのに、まるで、他の誰かを待っていたかのよう
な心持ちがしたのだ。いったいここで誰を待っていたという
のだろう。
 いずれにしても、首の絞まるその一瞬に、きっと、気がつ
くはずだ。延ばしすぎた休息の時間にようやく背を向ける気
になった。
 「いいんだ、ずっと、こうなること待っていたと思うから」
 「……そうか」
 彩香は何を言われたのか分からないといった具合で相槌の
ように言葉を返した。それが、彼女の耳には僕の言葉がもう
届かないように思えて、床が開くまで何一つ語るまいと誓っ
た。
 ところが、そんな僕を彼女はさらに当惑させた。彼女は何
事もないかのように僕のもとにやってきて、その僕の首にか
かった縄を外すと、それを、あろうことか自分の首にかけは
じめたのだ。
 「愁、おまえは私の気持ちが信じられないと言ったな?」
 僕はすぐに沈黙の誓いを破った。何を言われているのか、
まるで分らなかったのだ。
 「え!? そんなこと言ってないだろ?」
 「惚けるな、おまえは私のいない未来を考えていたじゃな
いか」
 「っ……それは」
 「私はバカだからな、おまえに安心させてやれる方法を考
えていたのだが、結局、私にはどうしたらいいのか分からな
かった。愁のことは凄く、その……あ、愛してはいるんだ。
でも、私はそれをおまえにどうやって信じさせたら良いもの
かまったく分からない。本当はおまえのことをちゃんと安心
させてやれる奴が、おまえの隣にいるべきなのかもしれない
が……すまない。私はそんなの絶対に嫌なのだ。おまえとは
もう二度と別れたくない……だから、愁? もし、おまえが
私のことをこれからも愛してくれるというのなら、私はおま
えのために誓いをたてる」
 僕はいま何が起きているのかまったく理解できていなかっ
た。むしろ、ずっと混乱していた。別れの宣告を予感してい
たのに、いまのそれはまるで状況が違った。
 「愁、おまえが私との未来を信じられないというのなら、
私がおまえに一生をかけてそれを証明してやる。だから、も
し、私が途中でそれを投げ出すようなことがあったなら、そ
のときは……愁、おまえが私を殺してくれないか?」
 「彩香!? なんてことを!」
 首にかけた縄の意味を僕はここでようやく理解した。相も
変わらずに、他のことは頭に入ってこなかったけれど、こん
なにもとんでもないことを言うものだから、僕は思わず彩香
の身体を思い切りつかんでしまった。
 「……だって、だって、そうじゃないか。愁、私はおまえ
を愛せなくなるくらいなら、そんなの……死んだ方がましだ」
 「彩香……」
 許せない言葉を彩香は二度も言った。僕は必死にふりあが
る手をなだめた。彩香もそんな言葉を口にしたら、僕がどう
なるかぐらいは予想できていたのだろう。見たこともないく
らい身体が小刻みに震えていて、こんなに怯えているのに、
それでも、彩香は……。
 「私は!」
 「もういい、彩香……もう、よしてくれ……頼むから」
 燃え上がる手を僕は放り捨てた。そして、彼女の震えを抑
えようと、できる限り優しく抱いた。
 「……愁」
 「そんなこと誓わなくていい。絶対に誓うな。でも、ひと
つだけ約束してくれ。頼むから、おれより何が何でも長生き
してくれ。おれより先に死んだら、絶対に許さないからな。
そんなことしでかしたら、地獄の門までおっかけてって、番
犬だって眠らせてやる。絶対にそこには行かせないからな」
 「……愁。あぁ、分かった。絶対におまえより長生きして
やる……約束だ」
 僕はすぐさま縄を取って、絞首台から彩香を連れ出した。
沸き上がる冷や汗に何度も足を取られながら、僕らはいまよ
うやく、あの庭に帰ってきた。

 「愁……ずっと黙っていて、すまなかったな」
 落ち着きを取り戻したのか、彩香は僕の胸の中で話し始め
た。本当は何も言わせずに、彼女の口にした言葉をもっと罰
してやりたかった。誰が彩香を。口に出すのも忌々しい。
 とはいえ、僕の方でも同じことをしていたことに気がつい
た。僕だって、彼女を僕の殺人犯に仕立て上げたではないか。
彼女の心を誘蛾灯に見立てたではないか。
 だから、僕は彩香の代わりに僕自身を激しく罰した。その
作用で、僕は彩香を少し強く抱きしめてしまった。
 「ちょっと、苦しいぞ……」
 「ごめん、ずっとそんなふうに考えてくれているなんて思
いもしなかった。きっと、ここでふられることばかり考えて
いたから」
 「……バカか。誰がおまえをフルものか。それに、おまえ
だってあんなにも私のことを考えてくれていたじゃないか。
それに比べたら、全然だ」
 「彩香……」
 「……私は答えが出せなかったからな。結局、おまえを苦
しめるようなことしか私は言えなかった」
 「そんなことない。確かに二度と聞きたくない言葉だった
けど。でも、それだけに、彩香がどれほど追いつめられてい
るのかが分かったから。ずっと考えてくれていたんだろ?
おれのこと」
 「当たり前だ」
 「それだけで十分だよ」
 「甘やかさないでくれ。ピエロはもう嫌なのだ。だから、
私も私なりにおまえが話してくれたことをずっと考えていた
のだ。でも、自分の不甲斐なさに嫌気がさすだけだった。愁
はこんなにも私を安心させてくれるのに、私はというと、お
まえに心積もりさせるだけだ。私はそれが悲しかったのだ……
ずっと、ふたりで一緒に未来を考えているものだと、勝手に
思っていたから」
 「おれだって」
 「よせ。おまえは真剣だった。もし、冗談で言っていたの
なら、ひっぱたいてやってそれで終わりだったんだ。でも、
おまえは真剣だったから、私は叩けなかった。おまえは私の
ことを真剣に考えたうえで、それを考えたんだ。だからこそ、
私は余計にそれが悲しかったのだ。私は本当にそんなこと全
然考えていなかった。そりゃ、嫉妬することもあったけど、
あんなの、冗談だ。芯ではおまえのことを信じていたから」
 木々の葉擦れの音が彼女の言葉を柔らかく包んでいく。顔
の見えない彩香の言葉に、それでも、僕は確かな心地よさを
感じていた。
 「……でも、おまえはかっこいいからな。これからだって、
可愛い奴にモテるだろうし、性格も案外良いからな。もしか
したら、親父の言うとおり、いつか愁に捨てられてしまうの
かもしれない。でも、自惚れているとは思うが、それでも、
愁はずっと私のことを愛し続けてくれると思ってしまうのだ。
最初は疑ってみたけど……でも、全然ダメだった。おまえの
その優しい顔を思い出すと、全然不安になれないんだ。おま
えはずっと私を愛してくれそうで……」
 「あぁ、そうだな。自惚れなんかじゃないよ? 確かに彩
香の言う通りで、おれはきっと彩香を想い続ける」
 「でも、おまえは不安なのだろう? 私だけ夢を見てどう
する。そんなの虚しいだけだ。愁、私はおまえに何をしてや
れるのだ? 私はおまえのことを少しも安心させてやれない
ではないか」
 体温のような言葉が急激に熱を持ち始めた。僕の胸の中で
彩香の言葉が地鳴りのように震えていた。 
 「違うんだ、彩香」
 「違わないじゃないか! だって、おまえは!?」
 そして、彩香の言葉はついには地震となって僕の胸中を破
壊した。 
 
 僕は家族が終わってから、何かにつけて冷めた目で物事を
見ていた。楽だったんだ、その方が。熱の篭った眼で見てし
まった末に、痛い目にあう同世代を僕はどこか嘲笑していた。
 そんな状態が続いて、いつしかこどもを嘲笑する自分を大
人だと勘違いしていた。僕もずっとこどもだったのに。
 そんな僕だから、結局、自分さえも欺いた。彩香だけは熱
い眼差しで見ているものだと思っていたから。けれど、実際
は……。
 僕はあの日、背伸びをしないと決めたではないか。それな
のに、いま僕がしていることはなんだ。こんなにも愛して苦
しんでくれているのに、そんな彼女に対して、僕はどうして
近づいてやれないんだ。どうして、一歩退いて見ているんだ。
 それが、大人だとでも思っているのだろうか。違う。ただ、
怖いだけだ。彼女が去ってしまっても、傷を深めないように、
いまから逃げているだけじゃないか。
 僕は悔しさで泣いた。彩香のことも、僕は冷めた目で見て
いたんだ。
 身体の震えに膝が耐え切れなくなった。
 「ごめん、彩香……本当は信じないように自分で仕向けて
いたんだ。おれだって本当はすごく安心しそうに何度もなっ
た。でも、おれはその手を握れなかった。握れば握るだけ離
せなくなりそうで、おれはそんな自分が嫌だったんだ。彩香
に好きなひとができたら、おれは笑顔で送りたい」
 「……よせ、愁」
 「彩香に本当に新しい好きな人ができたらそのときは」
 「愁っ! もうよせと言っているだろう!!」
 世界を一瞬失った。気がついたら、僕は木を見ていた。こ
んなにも熱の篭ったビンタをされたのはとても久しぶりのこ
とだった。
 「私はおまえのそういうところが大っ嫌いだ! 愁、おま
えはこんなにも人を温められるのだぞ!? それなのに、ど
うして自分から冷ますようなことをするんだ!」
 僕はただ呆然として、鳴り響く耳鳴りのなかに、確かな彩
香の愛を感じていた。
 「繋いだ手が痛むのならそのときはちゃんと痛いって言っ
てやると言っただろ!? まだ分からないのか、おまえは」
 「ごめん……」
 僕はようやくたった3文字だけ口に出すことができた。
 「ふん。まぁ、私はどうせ痛いなんて絶対に言わないけど
な。だいたい、おまえがどんなに強く握ったって高が知れて
ているんだ。おまえは確か67だったな? 私はいま70だ。
痛むものか」
 彼女の語彙にもう怒りは宿っていなかった。宿っていたのは
いつもの彩香のお茶目な優しさだった。その優しい冗談に包ま
れて、泣きっ面に笑みが浮かんでくるのを感じた。
 「彩香……それもりすぎ」
 彩香の握力は確か40もないはずだったから、僕は少し笑っ
てしまった。
 「う、うるさい! もってなどいるものか! 私はあれから
鍛えていたんだ。どこぞのバカと違って、心は……それくらい
あるのだ」
 「……ハハ、そうだな。ありがとう? 彩香」
 長い争いだった。でも、この最後の硝煙弾雨の後で僕らはきっ
と幸せをつかめると思った。いや、つかむ決意をした。
 今回、僕らは互いに尊いものを犠牲にしようとしてしまった
から。これはもう二度と繰り返してはいけなかった。
 僕はマスクを放り投げて、自分を守る銃を壊した。これに代
えて、僕が持ちたいものは、やはり、自分の言葉だ。
 彼女を愛するためにそれが必要だから。
 「でも、彩香? それなら、測定不能じゃないか?」
 「……どうしてだ?」
 「だって、そうだろ? こんなにも強く握られて、おれは幸
せで絶対に逃げられないんだから」
 「ふふ、そうか」
 「……あぁ、本当にごめん」
 「もう良い。また、一緒にちゃんと歩けるのだ。ほら、立て、
愁」
 僕は差し出された手を握らずに、ただ、じっと見つめた。
 「な、なんだ? 私の手じゃ不服か?」
 「いや、綺麗だな。と、思って」
 「バ、バカ言うな」
 僕は引っ込めようとした彼女の手を引き寄せて、そこに口
づけをした。
 「おれも握力鍛えないとな」
 彩香の手を借りて、僕は塞ぎ込んだ身体をめいいっぱいに
延ばした。彩香は一気に視線を上げなければならなかった。
 「よ、よせ、おまえはいい。私がやっと追いついたってい
うのに、おまえはまた私をいじめる気か?」
 「いいや。今度からは一緒に鍛えよう? その、お願い……
します」
 僕はそう言うと、彼女に初めて頭を下げた。
 「愁っ……分かったから。もう良い! よせ」
 「ありがとう、彩香」
 「べ、別にいい」
 彩香は僕のこの唐突な行動に当惑しているようだった。困っ
たことに僕はその姿を見て、いつも通り、さらに困らせたく
なった。
 「彩香、もう一つお願いがあるんだけど」
 「なんだ? 言ってみろ? ただ、限度はあるぞ?」
 「彩香とキスがしたい」
 彩香はこいつは何を言っているんだ、といった顔をした。
何をいまさら言っているのだと思われたのかもしれない。で
も、僕は他のどの行為よりもずっとそれを彩香としたかった。
 「その、ずっと、御預けだったから、それがいま一番した
いんだ」
 「っ……愁」
 「……ダメ、かな?」
 「ふふ、そういうことは聞くものじゃない。何回、言った
ら分かるんだ、おまえは」
 「……悪い、そういうの苦手なんだ」
 「強引なくせにか? もう良い。ほら、ちょっとは屈んだ
らどうなんだ? 私をいじめているつもりか?」
 眼を真っ赤にしていながら、彩香はそんなことを言う。僕
はたまらずハンカチで頬を撫でた。
 「もう彩香をいじめたりなんかしない」
 「ほんとか? それなら、ちゃんとここに誓ってくれ」
 僕は彩香の指先にすい寄せられるように屈んでいった。そ
して、彼女の唇にこれから一生受け続けるであろう愛を、長
い時間をかけて教え込んだ。

 ふたりの長い休暇に愛情はすっかりと欠伸をしていた。よ
うやく、休暇から解き放たれたので、愛情は待っていました
と言わんばかりに、その鈍った身体を目まぐるしく動かし始
めた。ふたりはその子の有り余るエネルギーに大いに振り回
されて、もう二度と休暇は取りたくないと言い合った。
 ちょうど、その子に会ってからあと一月で一年になろうと
していたときだった。僕らは校舎裏でまだ肌寒い春を理由に
して身を寄せ合っていた。
 「愁、どうしたのだ?」
 僕が黙っていたので、たまらず彩香は僕の顔を覗き込んだ。
 「ん? あぁ、随分あの頃と関係変わったなぁって思って
さ」
 「なんだ? 嫌なのか?」
 「嫌じゃないよ? ただ、凄いなぁって思ってさ。覚えて
る? 初め、おれが廊下の右側を歩いていて、彩香は左側の
隅っこを歩いていたんだ。で、おれがもうちょっと近づいた
方がいいんじゃないかって言ったら、彩香に怒られた」
 「ふふ、覚えているぞ? おまえがこっちにこればいいだ
ろう? 交通ルールはちゃんと守れって言ってやったのだ」
 「そうそう。ふたりの距離は一年で1mぐらい縮まったか
な?」
 僕らは別れた日数も付き合っている期間に含めていた。ふ
たりの休暇期間として。
 「そうだな。でも、来年はどうなるのだ?」
 「さぁ、どうだろう? 融合してるかも?」
 「なんだ、それは。そんなの困るぞ? 私はおまえの隣に
いるのが好きなのだ。愁、おまえ、手錠してやろうか?」
 「え、なんでだよ? それ、逆に彩香が捕まるから」
 「大丈夫だ。私はおまえ以外、誰にも逮捕されないのだ」
 「そう? でも、手錠するのはごめんだな。つなぐのはやっ
ぱり手がいい」
 「ふふ。初心な奴め? 早くおまえの愛の巣へ収監しろ。
いつまでも野放しだとおまえの心臓に悪いだろ?」
 「そんなことないって。もう、不安がってない」
 「ふふ、そうか。ちょっと残念だな?」
 「天邪鬼」
 「うるさい!」
 彩香はそう言って、僕の耳に噛み付いた。耳元に直接入り
込んでくる彼女の甘い吐息に脳を焼かれながら、それでも、
僕の理性は黙々と働いていた。僕は彩香の何気ない冗談にふ
とあることを思い出したのだ。
 そうだ。そういえば、付き合ったきっかけも、復縁も、全
部が彩香の方からしてくれていたではないか。僕はいつも受
け身だった。
 情けないが、僕はこのときになって始めて彼女の手を自分
から握りたいと思った。彼女はおそらく、僕のその握り方に
困惑するかもしれない。僕はそれでもかまわないと思った。
痛かったらきっと痛いと彼女はちゃんと言ってくれる。こ
のときの僕はもう、彼女をいかに収監しようかとあれこれ考
えていた。

 ちょうど、僕らの関係が一年を迎えた日、ふたりはホーム
ルームをサボって体育館にいた。
 「なぁ、愁、本当にするのか?」
 「あぁ。受けたくなかったら、断ってもいいよ?」
 「誰が断るものか。私だって愁ともう一度、ブラックジャッ
クをしてみたかったのだ。でも、それはいいとして、おまえ、
私にこういう賭事はもうするなと言わなかったか?」
 「ハハ、言った。でも、それは彩香と他の奴との話だろ?
おれとするなとは言ってない」
 「ふふ、呆れた奴だな、おまえは」
 「……嫌か?」
 「嫌じゃないぞ? 私の一番自信のある武器で勝負させて
もらえるんだからな。むしろ、感謝しているぐらいだ」
 「えらく余裕なんだな? ホームラン予告はいいのか?」
 「あぁ、今日はそれを取ってくれる観客がいないからな」
 「ハハ、そっか」
 僕は彩香にボールをパスした。
 「冗談抜きで今日のおれ、やまなりなんか投げれねぇぞ?」
 僕が急に声の調子を落とすものだから、彩香は少し黙って
しまった。いまのは僕のプロポーズだった。
 「……分かっている。そんなことしたら、私はおまえを絶
対に許さない」
 彩香は僕にボールを返した。僕はそれを受け取ると、ボー
ルをまじまじと見つめた。まだ、勝負が決まったわけでもな
いのに、すっかりウイニングボールを手にしたつもりだった。
 「彩香? おれだってスリーは一番得意なんだ。だから、
ブラックジャックにした」
 「あぁ、分かっている」
 「そっか……じゃぁ、始めよっか?」
 僕らの緊張した頬がようやく緩んだ。
 「中央へ」
 僕は彩香に声をかけた。
 「なぁ、愁、そういえば、審判はいいのか?」
 「おれらに必要か?」
 「必要……ないな」
 「だろ? でも、どうしてもっていうなら、呼んできても
いいけど」
 「それなら、おまえが私の親父を連れてこい」
 「ばっか、そんなことしたら、おれ、本気で殺されちまう
だろ?」
 「確かにそうだな。勝負の前に、おまえが殴られてこの勝
負は中断だ。あぁ、思えば、親父もおまえみたいな奴だな?」
 彩香はそう言って、いじらしく笑った。
 「どういう意味だよ、それ。始めるぞ?」
 「あぁ、良いぞ。……な、こら、押すな」
 「ふふん、なんとしてでも勝って彩香を許嫁にしたい」
 「……バカ、いくらおまえでも、私は簡単にもらわれる気
はないからな?」
 「そうこなくっちゃな。ちょっと悲しいけど」
 「ふふ、本音が出ているぞ?」
 この勝負はあの頃とまるで変わっていない。あの庭でした
3人の野球とも同じだ。彩香が仮に慣わしを破ったとしても、
僕は喜んで水を被ってやる。でも、もう、いまはその水の冷
たさを忘れてしまった。
 騙されたっていい。いつか言葉が嘘に変わってしまったっ
ていい。一歩後ろで見守るのは僕にはまだまだ早い。この婚
約はどちらに転んでも、きっと、書面にはならないだろう。
相も変わらず、僕らには決め事がなかった。でも、それがい
い。愛情に規律が整ったのなら、それはもう愛情ではなく、
ただの義務だ。
 彼女を義務で愛すなんて、ごめんだ。そもそも、僕はその
義務とやらにずっと反抗してきたではないか。



                  白刃の女神 ー完ー

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