白刃の女神(第十一部 魔法使い) 前編
ある土曜日の午後。私は日差しを嫌って、お部屋で涼んで
いた。ラジオから聞こえてくる名も知らない音楽たちが、風
鈴のように私を心地よくさせてくれる。
クッションに座ってうとうとしている私の前に子猫が一匹。
テーブルの上に置かれたグラスをじっとみつめている。
――なにを考えているのかしら。
「ねぇ、何しにきたの?」
私はそのちょっと苦手な子猫に尋ねてみた。
「……別に用はない」
子猫はちょっと拗ねていた。
――困った気ままな子猫さんだとこと。用もないのに、私
に会いに来るなんて思えないんですけど。
でも、なかなか話そうともしないので、私は口元をなでて
あげようかと思った。そのとき、ようやく子猫が鳴いた。
「おまえ……愁と喧嘩することあるのか?」
何を聞きに訪ねてきたのかと思ったら。兄さんと喧嘩でも
したのかしら。私はその質問にほとほと呆れて、答えるかわ
りににらめっこしてあげようかと思った。
ところで、その子猫さんはそっぽを向いていたので、それ
は私の独り相撲におわった。
「当たり前でしょ? そんなのお菓子食べるのと同じだわ」
「そんなにか? あいつ、そんなに怒りっぽかったか?」
今度は私がちょっと眉をひそめる番だった。
――そんなにって……私、そんなにお菓子食べないんです
けど。
「違うわよ。逆に兄さんが私を怒らせるようなことするの」
「……あぁ、そういうことか。でも、あいつおまえに溺愛し
てるだろ? どんなことするっていうのだ?」
「お菓子……私の買ってきたお菓子とかアイスとか、勝手に
に食べちゃうのよ」
「おまえ、そんなことで怒っているのか? そりゃ、一緒
に住んでいるのだから、家にあるものくらい勝手に食べるだ
ろ?」
「……あきれた。おじさんがそんなことしたら、絶対に許
してあげないくせに」
「あ……まぁ。でも、それなら、名前でも書いたらどうな
んだ?」
「書いたわよ。2年1組 桜 爽香って。でも、ダメね。
食べるなって書いても、兄さん言うこと聞かないの。英語と
かフランス語とかイタリア語とか、どれも効果なし。まった
く、何人なのかしら?」
ここで初めて子猫はゴロゴロと鳴いた。でも、これは危険
な前兆ね。鳴き出すとこの子、急に厚かましくなるの。
「なぁ、おまえ愁といて理不尽な目にあったことととない
のか?」
危ない、危ない。もう少しで平手が飛ぶところだった。兄
さんになついているくせして、まったくなんてことを言う子
なのかしら。
いつもならここで怒ってしまうけれど、そうね、子猫さん
が何を探ろうとしているのか、私にもなんとなくわかるわ。
兄さんを悪くいうのは嫌いだけど、でも、この子の前だと
口が驚くほど滑らかになる。もしかしたら、それを聞いて兄
さんから離れていってくれるかも、なんていじきたないこと
を考えているのかしら。それとも……と、言っても、そんな
に酷い話なんてありはしないんだけど。……落とし穴以外は。
「なによ? 嫁入り調査のつもり?」
「よ、嫁入りって……別に、そういうわけじゃ」
縮こまる子猫の姿がまったくもって、不快。
「そうね……あるにはあるけど。ほら、身体検査するでしょ?
あれ、兄さんひっかかっちゃって……」
そう言いかけたところで、子猫はテーブルを飛び上がって
きた。
「ひっかかったって……あいつ、何かあったのか?」
私はお行儀の悪い子猫を元の位置に戻すと、その前にグラ
スを置いた。
「別に、なにもないわよ? ただ、心電図でひっかかって」
またもそう言いかけたところで、子猫が今度はテーブルを
回って私のもとへやってきた。猫は聴力がポチの11倍もい
いはずなのに……困った子だわ。
「心電図って、ひっかかることあるのか? だって、あい
つ……初等部のころ」
そう言って私の服を子猫の手が力なくつかんできた。
「ふふ、まだ覚えてたんだ?」
私は咳払いをして、ひとつ兄さんの真似をしてみせた。
「いいか、息を止めてから、心臓にバカ野郎って文字を、
ため込んだ酸素でつくってやるんだ。そうしたら、それを見
た検査員がおまえをとっちめにぶっ飛んでくるぞ?」
子猫はきょとんとして弱々しい手をずり落とした。
――なによ、結構似てると思うけど。
でも、子猫の純粋な視線がいまは痛い。私は顔をそむけて、
話は戻すことにした。
「……とか、なんとかドバカなこと言ってたわね。違うわ
よ? なんて言ったっけ……右脚ブロック? とか、そんな
の」
すると、その聞きなれない言葉に耳をひょこひょこと動か
せて子猫がまた私の服をつかんできた。
「なんなのだ、それは?」
「平たく言うと、心臓に向かってる血管が1本切れてるの
、兄さん。欠陥よね? ……血管だけに」
小さな身体がこれ以上縮まないように、笑顔で言ってあげ
た。でも、効果はなかった。むしろ、にゃーにゃー言いなが
ら私に襲いかかってきた。
「笑えないだろ!? おまえって奴は!」
「別に平気だってば。実際、バスケしてるじゃない? お
医者さんだって1本くらい悪魔にくれてやれって言ってたし」
子猫を私の身体から離すと、いっそう彼女の身体がしぼん
で見えた。
「……そうやって、1階まで連れていく気だ。そんなこと
絶対にさせるもんか」
「何の本の話よ? もう……本当によして。変なこと言わ
ないでよ」
いまにも不安に溶けてしまいそうな子猫さんを抱いて、そ
ばたてている耳元で優しく叱ってあげた。まるで、昔の私を
見ているみたい。
「ほんと、ドバカなんだから」
「……すまない。でも、なんなら、親父に言ってやっても」
「あのね~、兄さんもお医者さんの息子ですけど?」
子猫を引き離して、今度は厳しく叱った。
「手術の必要はないの。健康よ? お酒も飲まないし、タ
バコも吸わないし……葉巻はたまにすいたがるけど? まぁ、
あれは冗談ね。とにかく、健康よ?」
子猫はそんなの当たり前だと言って、またゴロゴロ鳴きだ
した。
「……で、なんの話だっけ?」
「あぁ、そうだな。おまえが理不尽な目にあった話だ。そ
れで、あいつそれ知ってから、おまえに何かしたのか?」
「ん、そうそう。心臓のエコー撮って来なさいって言われ
てね、もしかしたら、激しい運動もうできないんじゃないかっ
て、兄さん、勝手に塞ぎ込んじゃって……」
猫の額にちっぽけな疑問符が浮かんでいる。
「ほんとよ? 夜、心配になってお部屋までいったんだか
ら。でも、話しかけて返ってきたのは言葉じゃなくて、まく
ら。それも、全力よ?」
子猫は愉快そうにまたゴロゴロ鳴いた。
――ちょっと、笑うとこじゃないんですけど。
「廊下まで飛ばされたのよ?」
でも、国嶋さんは同調してくれなかった。子猫は舐めてく
れるどころか、尊大にも壁に背をもたれさせた。偉人さんみ
たいに感慨深げにため息なんてついちゃって。
「色々、あったのだな……私の知らない愁がまだたくさん
いるのか?」
――いったい、この子は誰なの。
子猫が長老気取りだなんて、そんなの全然笑えないわ。
「そんなの、知らないわよ。双子アイスみたいにいっつも
一緒にいたくせに」
子猫は今度、ふいに背を丸めだした。
「別に。……一年、ほんとに何も知らないからな。それに、
できるなら、一度でいいからおまえから愁を見てみたい」
私はその虚ろな鳴き声に、ずっと忘れていたことを思い出
した。
「ふ~ん、へぇー、ほぉ~。代わってみたいんだ?」
「あぁ。おまえといるときの愁ってどんな感じなのだ?」
「さぁね」
私は子猫の質問をないがしろにして、もう一度聞いてみた。
というよりも、念を押してみた。
「ところで、本当に代わってみたいんだ?」
「あぁ、代われるものならな」
子猫はジュースを手前によせて、ペロペロ飲みだした。
――ふふ、かわいい子。何も知らないで。ほんと、思いも
よらないところで不純な心に火がつくものだわ。
私は机にしまってある手鏡を持ち出すと子猫の後ろに座っ
た。そこには、ちょうどベッドがあった。
「見て見て~。ここに魔法の鏡があるの~。呪文を唱えた
ら、なりたい子になれるのよ?」
子猫は警戒しだして一歩退いた。
「なによ? カップラーメンができるまでに、慌てて戻ら
なくてもいいのよ?」
「そうじゃない、なにを言っているんだ、おまえは。そも
そもリボンはどうした? あぁ、それとも、ベルトか?」
――ほんと、じゃれない子。だいたい、鏡だって演出品な
のに。
「ほら、逃げないで。いい? この鏡を見ていて」
子猫の肩を片手でおさえると、私は呪文を唱えた。
「えぇっと……なんだっけ。パラサイト、パラサイト、む
しろ、国嶋さんとバトンタッチ~」
瞼を開けると、あれ、きょとんとした私が目の前にいる。
――ふふ、よかった。ちゃんと成功したんだ。
「な、なんなの……どうして、私が目の前にいるのよ?」
私はにんまりして、自己紹介をした。
「どうも初めまして、ドッペルゲンガー・彩香です。ゲー
ム機ではありません」
私を装った国嶋さんは部屋の隅まで遠のいた。
「ふふ、怖いか?」
「じょ、冗談はよして! 何なのよ!?」
――そっか。こんなふうに私は話していたんだ。
国嶋さんはまだお互いに入れ替わったことを分かっていな
いみたいだった。
私は鏡を国嶋さんに見せてあげた。
「えっ!? どうして、私が爽香に!? ……まさか、ア
ナタ、爽香ね?」
「そうだ。見た目は彩香、中身は爽香、その名は……ふふ」
「ふふ、じゃないでしょうが?! 早く戻して!」
「やだ。せっかくこうなったんだ。少しくらいこのままで
もいいだろ?」
「よくないわよ!」
「どうしてだ? おまえ、愁と一日中一緒にいられるのだ
ぞ? こんなチャンス他においてどこにある?」
勘ぐっている。耳をそばたてて私を勘ぐっている。ふふ。
確かに不純ね。家庭を味わってみたいだなんて。でも、国嶋
さんがいけないんだから。
「……いいわ。でも、これちゃんと戻れるんでしょうね?」
国嶋さんはまんまと私の思惑に乗ってくれた。
「あぁ、もどーれ、もどーれ、私にもどーれ、って言えば
大丈夫だ」
「そう、反対読みじゃないんだ?」
「おまえこそ、何の本の真似だ。それだと、呪文が新聞紙
に変わったときに困るだろ?」
「あ、もどーれは英訳していうのだぞ?」
「リバース?」
「おい、よせ。私はまだ戻りたくないのだ」
国嶋さんは思わず口に手をあてた。
――ふふ、我ながらかわいい反応だわ。
―――――――――――――――――――――――――――
――あいつ、とんでもない奴だ。
ソファーに寝っ転がりながら、私はひとりそう呟いていた。
――魔法使いなら、自己紹介のときにちゃんとそう言うべ
きだ。……まったく。
それにしても、何か言うたびに喉元からなんとも耳障りな、
きゃーきゃーいう声が出てくる。なんとかならないのか。
私はこの身体になれるのに、半日もかかった。でも、声だ
けは未だになれない。
「爽香、そこで寝んな」
いつのまにか、ホカホカの愁が部屋に入ってきた。風呂上
がりだった。
「あ、もう出たんだ?」
「あぁ。おまえも早く入れよ?」
愁はそう言うと、冷蔵庫を漁った。
それにしても、愁は長いこと冷蔵庫にがっつりとかじられ
ていた。開けたらすぐ閉める。今度、注意してやろう。
気づけば、私は今日ずっとこんな感じだった。あいつの姿
を爽香の目でずっと追っている。これはこれで、見ていてあ
きない。
いま、愁は給水をおえて部屋を出るところだった。
「兄さん、もう寝るの?」
「あぁ。いいから風呂入れ」
部屋に残された私に虚しくテレビの音が騒ぐ。
意外だ。思ったよりも、なにもない。私がずっと見ている
からなのか、愁は無口だった。それもそうだな。毎日一緒に
いるのだ。そうもそうも、話すことなんてないか。
私は風呂に入ってから何もすることがなかったので(愁の
奴、寝やがった)、そのまま爽香の部屋に入った。
お風呂上がりはいつも気分が良い。まるで、毎日が生まれ
かわるみたいだ。ところで、いま私はものすごい腹が立って
いた。理由を探りたくもない。唯一、良かったのは愁のシャ
ンプー(爽香のは名前が書いてあった)を使えたことだ。
いま、私はあいつと同じ匂いがするはずだ。そう思いかけ
たところで、私はまたムッとなった。これは、私の身体では
ない。私はもう考えるのが億劫になって、爽香のベッドに突っ
伏した。倒れ込んだときに、爽香独特のあの甘ったるい匂い
が巻き上がった。でも、今日はそれが嫌じゃなかった。むし
ろ、気分を落ち着かせてくれる。
まるで、部活後のアイスみたいだ。どうやら、爽香の身体
はこの匂いを本当に愛しているらしい。……でも、やっぱり
私は嫌だった。そう思うと、私の身体は自然とまくらを持っ
て愁の部屋へと向かった。忍び足だった。愁が起きては大変
だ。でも、ドアノブに気を遣うことはなかった。あいつの部
屋はまるで猛獣の巣穴だ。まったく、大きないびきなんかか
きやがって。これじゃ、夢物語も一気に土台から崩れていく
だろ。
「≪あたしは鼾なんかかく人嫌いです。ドニーズ》」(50)
とか、なんとか紙に書いてあいつの顔に張り付けてやろうか
とも思った。でも、私の心臓はこの間抜けな愁の姿にすっか
りと冷静さを取り戻していた。
愁がベッドの右隅で横向きになって寝ていたので、私は空
いた左側を占拠することにした。時折、聞こえてくる轟音に
私は抵抗しながら、明くる日の愁の反応に心を躍らせて眠っ
た。
翌朝、起きると私は見慣れない天井を見て、背筋が凍った。
恐る恐る部屋中を目だけで見渡すと、さらに背筋が凍った。
私は一瞬にして布団を身にまとってベッドの隅に身を潜めた。
ここはどう考えても愁の部屋だった。
――あいつ、なんて大胆な奴なのだ。
私は身の毛もよだつようなあいつの放蕩ぶりに辟易すると、
さらに縮こまろうと膝を抱いた。
あいつが私を連れ去った日の記憶を恐る恐る呼び返してみ
る。でも、その声は煙突から抜ける煙のようだった。
私はとっさにベッドの上にたって自分の姿を眺めた。やっ
ぱり、そうだ。嘘ではない。このぷにぷにした憎らしい肌、
こどもじみた内股……それから、アヒルみたいな口元に垂れ
下がった目尻。窓辺に映った透明人間に駆け寄って私ははしゃ
いだ。
そうだ、あいつだ。私はいま爽香なのだ。なおもはしゃい
でベッドに飛び乗ると、下から愁の声が聞こえてきた。
「おい、落っこちたのか!?」
私はそれに答えて、もう一度、愁のベッドに身を潜めた。
――愁の奴、驚かせやがって。私はてっきり誘拐されたの
かと思ったではないか。
私はいま新しい一日を前に胸いっぱいだった。まるで、太
陽を胸にしまいこんだ感じだ。それが私の身勝手な思惑をよ
りいっそう強く照りつける。私を驚かせたのだ。私だってあ
いつを驚かせてやろう。
愁の引き出しを的確に選んで、私は勝手に開けた。そこに
は銀色に輝くパッケージがいくつか入っていた。
――あのバカ……。
でも、これは狙い通りだった。そこにメモ書きを残してや
ろうと思ったのだ。
私は棚に置いてあるメモ帳を一枚ひっぱがすと、イスに座っ
た。鉛筆(ファーバーカステルを使ってやがった)にメリー
ゴーランド気分を楽しませてやりながら、さっそく、そこに
したためる注意書きをあれこれと空想した。
まず、第一に浮かんだのがこれだ。
――あなたの大切な彼女を悲しませる危険性があります。
そのフレーズにお腹がよじれた。タバコの注意書きみたい
だ。
……いや、でも、ダメだ、これは。とても、洒落にならな
い。あいつの異常な苦悩がまた芽生えてしまうな……。芽生
えるどころか、どっかりと根を下ろしてとんでもない花を咲
かせそうだ。これはよくない。
頭を振って、私は別のフレーズを考えた。
そうこうしていると、ふいに鍵穴のついた引き出しが気に
なった。爽香の身体はとても大胆だな、なんて思いながら、
ちょっと引いてみた。すると、それは思いの外軽く開いた。
私はその反動で鉛筆(ファーバーカステルをだ)を落として
しまった。でも、たとえ芯が折れていたにしても(最後まで
確認するのを忘れた)私は動じなかっただろう。その引き出
しの中に、昔、私があいつにやった絵が入っていたのだから。
それも、シックな額縁に守られて。
――おまえも大事にされていたのか。でも、されすぎだ。
ちゃんと飾ってもらうといい。
懐かしいその絵を手に取ると、その下には敷き布団のよう
に、私の手紙が何通か入っていた。最近のもあるが……あい
つ、5年生のときのまであるではないか。
――何を隠しているのかと思ったら……あいつめ。幼い頃
の私の気持ちをここに詰め込んでやがったのか。
そういえば、いままで手紙を読んでもらった後、それがど
うなるのかなんて考えたこともなかった。こうやって、ため
込んでいる奴もいるのだな。それで、ファーバーカステル1
本買えるわけでもないのに。
とはいえ、私の引き出しのなかにも届け出先不明の手紙(
しかも主に飛行機型。不器用できっと折り込めなかったのだ)
が数枚入っていた。
同じことをしている奴が近くにいるとは思いもしなかった。
私は結局何も書かないまま、メモ用紙も鉛筆も元の位置に
戻した。本当はもう少し、愁の部屋を探ってみたかったのが、
とはいえ、もうこれ以上、爽香に罪をなすりつけるわけにも
いかない。
今度、来たときににちゃんと愁にガイドしてもらえばよい
のだ。……もちろん、抜き打ちで。
1階に降りていくと、愁は洗面所にいた。顔を洗っていて、
まだ私に気づいていないらしい。鏡に映る爽香の姿はもうすっ
かり私のものになっていた。
そうだ、鏡のまじないってやつは確かもう一つあったな。
私は咳払いをひとつして、呪文を唱えた。
「鏡さん鏡さん、鏡さん? この世で一番かわいい子のお
名前言ってみりん?」
愁のずぶ濡れの顔が鏡にいる爽香をとらえた。
「……なんの真似だよ?」
「じゃん? だら? りん? ほら、言ってみりん?」
私は続けて鏡の住人に尋ねてみた。
「爽香」
愁はそう言って、また顔を洗い出した。私はムッとして愁
の足を蹴った。
――おぉ……あいつの身体はなんて良い蹴りを出すんだ。
「いってぇぞ、バカ。なにすんだ?」
愁はタオルで顔をふきながら、不満たっぷりにこっちを見
た。ちょっと、今日は機嫌が悪いらしい。
「嘘ばっか。どうせ、国嶋さんが一番のくせして」
――なんとも、恥ずかしい……。
「なにすれてんだよ、おまえは。一番だよ。前にも言った
ろ?」
完璧に頭にきた。
「ふ~ん、へぇー、ほぉ~。じゃぁ、国嶋さんはドベね」
愁が近寄ってきて、私のほっぺをつまんだ。
「なんでドベなんだよ? 彩香は順位のつけらんない子。
おまえは誰と比べても一番な子。前にもそう言ったろ?」
愁のくたびれた顔が見えた。
「……そ、そうだったわね」
――こいつ、そんなこと言ってやがったのか。そうか……
私は比べられない子か。
「特別なんだ? 国嶋さん」
愁はこの言葉にさらにくたびれた顔をした。愁は私の頭を
軽く揺らすと、そのまま外に出ようとした。
「兄さん?」
「……冗談越してるぞ。あんまいじめんな」
その声がちょっと悲しすぎた。
「ごめん……なさい」
「いいよ? ほら、飯食おうぜ?」
「ん……っと、それよりも兄さん?」
「なんだ?」
なんか、さっきからどうも暑いと思ったが、そうだ、それ
は目の前のこのバカのせいだ。私はそれにようやく気がつい
た。部屋中、裸で歩き回るっておまえ、何人だ。おかげで目
の前がチカチカする。
「服くらい着て」
「なんだよ、急に? 顔洗うとき、濡れるだろ」
「もう洗ったんでしょ? いいから、着て。この半裸人め」
愁はため息混じりに洗面所のかごからポロシャツをひっぱ
りだすと、出際良くそれを着た。
……おぉ、ちょっと残念だ。
それから私はソファーでテレビを見ていると、愁がご飯を
食卓に並べて呼んでくれた。
――あいつ、なんてお姫様なんだ。
でも、愁は相変わらず不機嫌だった。どうしたのだ、愁。
せっかくのご飯が石をかじっているみたいで味気なかった。
私は益々気になって、声をかけようとした。ところが、そ
れをするまでもなく、愁がお説教を始めた。
まず、開封されたお菓子を食卓の上に出して。
「これ、なんだ?」
「……チョコ」
私は聞かれた通りに答えた。
「おまえ、今週一週間、菓子食わないって約束しなかった
か?」
いや、さすがにそんなこと言われても、私にはわからない。
だから、私は下を向いて黙った。
「おまえ、飯食わねぇで菓子ばっか食うなって言ったろ?
今朝はちゃんと食べてくれたみたいだけど……おまえ、おれ
が糖尿病になってもやめない気か?」
だいたい想像がついてきた。爽香の奴、ご飯食べないで菓
子ばかり食べているから、愁が怒ったのか。それで、お菓子
禁止令が出たのだな。なんだ、やっぱりあいつが悪いんじゃ
ないか。
私は想像したやりとりがちょっとおかしくて、つい笑って
しまった。
「笑いごとじゃねぇだろ、爽香」
……愁が睨んでできた。そういえば、こいつさっきから言
葉が乱暴だ。私といるときとは大違いだ。爽香の奴、あんな
ケロッとしているけど、つらくないのか。
自分でも驚くほど、いま嫌な気分だ。そりゃ、昔の愁とは
確かにこんなふうに話していたけど……でも、なんか嫌だ。
……もしかしたら、愁も私の口調、嫌っているのか。でも、
爽香みたいなのほほんとした口調なんて……私にはムリだ。
「おい、聞いてるのか?」
愁の低い口調がさらに響いてきた。そんなに怒らなくたっ
ていいだろ。だいたい悪いのは爽香じゃないか。
目の前がだんだん滲んできて、皿の上に泣き虫の虹の輪が
かかった。
「……おまえ、もう3度目だぞ。次やったら、本気でおれ、
料理人の旅にでるからな」
愁はそう言って私の頭を揺すった。ポチみたいにふわふわ
な髪の毛がくしゃくしゃになった。
なんだかこんなの癪に障るけど、愁の奴が不憫に思えて、
皿を洗っているあいつの背中めがけて謝ってやった。
鏡に見えるアイツの目は真っ赤だった。こいつに泣き真似
をされたら、敵いそうにない。
「爽香、まだかかりそうか?」
ふいに愁が洗面所に顔をのぞかせた。
「……どこかお出かけ?」
愁の目のシャッターが半ば下りた。
「おまえなぁ。プロムナード連れてけって喚いたの誰だよ」
「あ……」
――なぁ、愁。明後日どこへ行くのだ? 家でもいいぞ?
――あ……悪い、今度の土曜はちょっと、用事があるんだ。
――そう……なのか。柊たちとでもどっか行くのか?
――あ、いや……その、爽香とな。前から展望台連れて行けっ
てうるさくて。
――おまえ。
――悪い! 日曜どっか連れてくから。
――日曜は試合だ。それじゃ今週末、会えないじゃないか。
――彩香……。
――寂しくないのか、そういうのって。おまえ、バカだろ?
――悪い……。
頭に血が登った。そうだ。私はこいつとそれで喧嘩をしたの
だ。まったく、こいつの溺愛ぶりときたら、ホント頭にくる。
ふたりきりで展望台とか、バカか。なにを考えているのだ、こ
いつは。やっぱり、私は特別などではないではないか。爽香の
前じゃ、万年2位だ。愁のペテン師め。危うく、こいつの口調
に騙されるところだった。
「そうだったね……それで、国嶋さんは大丈夫だったのかし
ら?」
「あ、まぁ、ちょっと怒ってたけどな」
愁は苦笑いを浮かべて、そんな嘘をついた。私が暴れた、な
んて言ったら爽香が気に病むとでも思ったのだろう。ほらみろ、
私のことより爽香だ。
「それより、あと一時間くらいか?」
「それより!?」
ダメだ、いま私は爽香なのだ。ここで怒っても変なだけだ。
必死に足をなだめて、笑顔をつくってみせた。
「いますぐにでも行けるわよ?」
「……そうか? 今日はメイクしなくていいのか?」
「そんなの必要ないもの」
「まぁ、そうだな」
愁はそう言って、満足げに笑顔をみせた。
なんか、ホントに嫌な気分だ。いまの愁とデートをするの
が怖い。本当なら、今頃……と、記憶ををたどったところで、
そこで、思わぬ者にばったりと出会った。
――あぁ、しまった。
憂さ晴らしに友達と遊ぶ約束をしていたのを私はすっかり
と忘れていたのだ。
ここで思わぬ事実が判明した。あのバカ、私の名前をケー
タイに登録していなかった。道理であいつからくるメールが
いつもREなわけだ。そこまでして、私を避けることもない
だろうに。
記憶をなんとかたどって自分のケータイ番号を打ち込むと
あいつに電話をした。ところが、ここでまたあらぬ事実が判
明した。いま、発信画面にはでかでかと「バカ猫」と表示さ
れていたのだ。
どうやら、あいつは私のことをとことん猫にみたいらしい。
―――――――――――――――――――――――――――
「あれ? おば……さん?」
言った後で、それが脳の伝達ミスだと分かった。正しくは、
母さんだわ。寝起きはちょっと意識しないとどうやらタメみ
たい。おばさんの眉間に細やかな皺がよって、それが私に気
づかせてくれた。
「まぁ、なんていう子なの! おばさんだなんて……母さ
んのこといくつだと思っているの? ほら、彩香? 言って
みなさい」
おばさんは起きあがろうとした私の身体をベッドに押し戻
した。
「なにをするのだ? これじゃ、起きれないだろ?」
「いいのよ。こんな悪い子はお部屋から出せないわ。さぁ、
彩香、言ってみなさい? 彩香? まさか、母さんの年齢を
忘れたわけじゃないでしょうね?」
「あぁ、覚えてるよ。五百歳だ」
私は滑り出す口に身を任せて、文字通りゾッとした。
「……まぁ、なんていう子なの!」
おばさんは私の両肩をつかむと、そのまま身体を前後に揺
さぶった。頭がコクンコクンして笑いがこみ上げてきた。
国嶋さんの髪の毛はあの子に似てとても強情だった。おば
さんにベッドでいじめられたのに、ちっともくしゃくしゃに
ならない。髪をとかすまでもなく、手だけですぐに真っすぐ
にになる。ほんと嫌味なくらい綺麗ね。
私は鏡にいる国嶋さんに向かって、思わず舌を出した。と
ころが、現実ではそれがおばさんに向かってしまった。鏡の
向こうでおばさんのあの声がまた聞こえた。
「まぁ、なんていう子なの!」
私はまたお部屋に連れ戻されるところだった。なんとか誤
解を解いてからお台所に向かうと、おじさんが新聞を読んで
いた。
「おはよう、彩香」
「あぁ、おはよう、親父」
何気ない挨拶を返すと、おじさんが読んでいた新聞を手か
ら落としてしまった。
「か、母さん!? 彩香がおはようって!?」
――あきれた。あの子ったら、おじさんに挨拶していない
のかしら。まったく、ダメな子ね。
私の右肩におばさんの手がのびてきた。思わず肩をすくめ
たけど、そこにあったのはいつもの優しい表情だった。
「ほら、見て。お父さんあんなに喜んでるわよ?」
私は近づいてきたおばさんが本当のお母さんに見えて、つ
い抱きついてしまった。
「あらあら、どうしたのかしら? この子は。急に甘えん
坊になっちゃって」
「……別にかまわないだろ」
「えぇ、そうね」
おばさんはそう言って頭を撫でてくれた。
ご飯は意外にも質素だった。ここぞとばかりにお手伝いを
しようと思ったのだけれど(兄さんはお台所に私をあまりい
れさせてくれない)、私がしたことといえばウインナーと卵
を焼いただけだった。あ、あと、卓上の籠に入っていたパン
をレンジに入れた。
――まったくもって日本を置き去りにした食卓ね。
ウインナーと卵、ピクルスを器にきれいにおばさんが分け
てくれたので私はそれを受け取った。
「これ、親父に持っていけばいいのか?」
おばさんは手にしていた桃を落とした。
「お父さんのはこっちよ」
――あれ? ご飯って普通、お父さんのから配ると思って
いたのだけれど……違ったのかしら。
ともかく、私はおばさんから新たにお皿を受け取ると、そ
れをおじさんのところまで持って行った。
「はい、親父。ご飯だ」
「あ、……あぁ。ありがとう」
おじさんの眼鏡がずれている。私はそれをちょっとなおし
てあげた。
「どうしたのだ?」
おじさんは口をあんぐりさせて、答えてくれなかった。そ
れから、おばさんのご飯と自分のをテーブルに並べて思い思
いにパンに味付けをした。
でも、ちょっとこのパンは苦手だった。パサパサしていて
堅い。きっと、外国生まれね。向こうのサンドイッチに使う
パンも確か、こんなふうだったと思う。外はカリっと中身は
トローリなんて、まるでたこ焼きみたい。
でも、私は日本のもっちりとした柔らかいパンが好みだか
ら、やっぱりちょっとこれは苦手。
なんて思いながらも、この子のお口はしっかりと堅いパン
を食べていた。肉付きがとんでもなく悪いくせして、顎の力
は強いみたい。かまれたら大変だわ。怒らせないようにしな
いと。
それにしても、パンの頂が遠い。お口が小さすぎて一口か
じっても全然減らない。ちょうど、頂を見たところで、その
奥におじさんの顔が見えた。なにか、言いたげだった。
「ん? どうしたのだ、親父」
「あ……いや、彩香? もしかして、何か欲しいものでも
あるのかい?」
「まぁ、あなたったら! なんていう人!」
早くも似たようなフレーズを3度も聞いた。でも、この3
度目を聞いてその前のふたつが冗談だったということがよく
わかった。隣にいるおばさんの表情は本当に怒っていた。
私はというと、状況がうまく分からないのできょとんとし
ていた。でも、良い機会かも。兄さんをぶった復讐ができて
いなかったから。
「欲しいものなんてないぞ? まぁ、強いて言うなら、お
願いはあるかもしれないが」
「なんだい? 言ってみなさい」
「あぁ、いつか愁をうちの家計に入れたいんだ」
おじさんの顔が見る見る硬直していった。
「ふふ、ほら、あなた? 彩香が愁君を婿養子にしたいん
だって。聞いているの?」
「あ、あぁ、聞いているとも。なんてことを言い出すんだ、
彩香は……そんなとこできるはずもないだろ」
おじさんは頭を抱えだした。
――ふふ、効果覿面ね。
「あら、そうかしら? 私は良い考えだと思うわ。彩香を
他所の子にされちゃうなんて、そんなの悲しすぎるもの」
おばさんは私を抱えて同意を求めてきた。本当に国嶋さん
のことが好きみたい。
――随分と駆け足の罰だわ。胸がつぶされそう。
「冗談だ、親父。変なこと言うからだ」
おじさんの背筋に骨が通った。
「まったく、よしてくれないか。父親をからかうものじゃ
ないぞ?」
「あら、彩香? 冗談だったの?」
「母さん……」
おじさんのすがるような視線が可笑しかった。もう仕返し
をするつもりもないけれど、でも、おばさんの夢はちょっと
膨らませてあげたかった。
「あいつの家に行く気はない。そのときはきっと、冗談じゃ
ないぞ?」
おじさんの血の気が益々ひいていった。
「なんてことだ! 母さん……水をくれないか」
「はいはい。ちょっと、待ってくださいね」
おばさんが水をよこすころには、おじさんはもうこの世の
終わりを見ているようだった。
「あなた、落ち着いてください」
「母さん、どうして、平静でいられるっていうんだ。私は
あの方のご子息を奪うかもしれないんだぞ」
「えぇ、そうね。でも、他でもない彩香のお願いよ? 少
なくとも、どんなことがあろうと私は協力します」
おじさんはまた背骨を抜かれたみたいにうなだれてしまっ
た。
――ごめんなさい。でも、心配しないでください、おじさ
ん。そんなこと私が絶対にさせませんから。
私は心のなかでふたりに謝った。
――ごめんなさい、おばさん。兄さんと家族でなくなって
しまったら、私はもう、本当になんでもなくなってしまうの。
これは私も何があっても守りたいものだから。
(50)『肉体の悪魔』内の「ドニーズ」でドニーズが書
置きした言葉。
レイモン・ラディゲ(1954)『肉体の悪魔』
新庄嘉章訳、新潮社