白刃の女神(第十部 戸惑い) 後編 第十部完

 どれだけ早く走ろうとも、赤ん坊らは僕を追い立てた。生
まれて間もない赤ん坊が、この僕を。
 僕はどこにあるとも分からない非常口をとにかく探して回っ
た。それでもやはり見つからなかった。赤ん坊のみならず、
警備員や看護士、それから突き飛ばした人たちとその関係者
までにも追われて、僕はほとほと疲れはてた。
 白く延びた廊下の隅で、忘れ去られたような古ぼけた部屋
を見つけた。迫りくるあの音に苛まれて、僕は祈るようにそ
のドアを開けた。
 ドアは僕の胸をかきむしるような音を立てて開いた。それ
は、木製のドアのはずなのに、錆びた鉄の擦れる音がした。
 やはり、鉄だ。ドアが閉まった途端、それはとても重厚な
息の根を吐いた。ドアは恐らくもう開かないのだろう。

 ドアの先はまたしても部屋だった。ただ、先ほどとは打っ
て変わって、ここはまるで初等部の教室のようだった。木
のいい匂いがする。
 でも、変だ。黒板はあるのに、部屋にあるのは机と椅子
ではなくて、ベッドがそれぞれ対になって2つずつあるだ
けだった。
 誰かが寝ている。そのそばで……しかも、いずれのベッ
ドにおいても、幼い頃の僕が付き添っていた。僕は恐る恐
る声をかけると、その少年たちは僕を一斉に睨みつけた。
 そして、あの質問を僕にぶつけた。
 ――どうして、こんなことしたの?
 僕は誰を見て話せばいいのか分からなくて、視線を宙に
浮かせていると、黒板に荒々しい字でその言葉が綴られて
いった。
 「ちょっと待ってくれ! おれは……」
 そのとき、教室のガラスが割れた。
 それと同時にとてつもないほどの風が教室に吹き込んで
きた。風たちの金切り声が教室に轟く。
 僕がすっかり立ちすくんでいると、今度は黒板を激しく
打ち立てる音が聞こえた。ところが、この教室内で誰かが
それを叩いているわけではなかった。内側から打ち付けら
れているかのように、大きな衝撃音とともに黒板が浮き上
がり、質問が見えなくなった。その代わりにそのひびから、
タスケテ、とはっきりとした文字が浮かび上がっていた。
わななく僕の視界を飛んできた掛け布団が遮ってくれた。
ところが、それは続いて僕の首を絞めにかかった。なんと
かそれを取り去ると、ベッドで布団に隠れていた少女の姿
が見えた。
 赤ん坊に蝕まれている彩香の姿だった。
 意識が擦り切れていくのが分かった。こんな音がするもの
なのか。その場にへたり込むころには、幼い僕が四方に寄っ
て、果物ナイフを握りしめていた。
 「どうして、彩香ねぇちゃんをこんな目に遭わせたの? 
僕は絶対に赦さないよ。たとえ、おまえが死んだって!」
 彼らが降りおろすナイフの鏡にはきっと僕の乾いた笑顔が
映るはずだった。ところで、僕は醜くもそれでも生きようと
ドアを蹴破って逃げた。あの鉄のような壁が、発砲スチロー
ルのように粉々になって散らばった。
 ――どうして、逃げたんだ。
 分からなかった。振り返ると、もうあの部屋はそこになかっ
た。ただ、長い廊下の天井から、いくつものあの目が僕の行
為をじっと見ていた。
 そして、しばらくすると、すっかり僕という人間を見極め
たのか、その目は閉じられて、廊下は暗闇の中に落ち着いた。
 ところが、ひた……ひた……と、また、あの音が暗闇を浸し
た。ただ、これは赤ん坊のものではないのだろう。僕には分
かる。なぜなら、その音が鳴るたびに暗闇のなかに紅い花が
咲いて、それがこちらに向かってくるのが見えたのだから。
そもそも、赤ん坊なら、いま僕の足をかじっているではない
か。
 やがて、紅い花が僕のすぐそばで開花をやめた。彼女のか
ぼそい輪郭だけ僕にはぼんやりと見て取れる。驚いたことに、
彼女は暗闇のなかでも人影をつくっていた。何に照らされて
いるのかは分からない。ただ、真っ白い人影が彼女のかぼそ
い輪郭からのびていた。
 消え入りそうな、それでも、真っ白い人影を。
 
 「どうして、逃げるの?」
 彩香の声が聞こえた。ふいに、身体の痛みが和らいだかと
思うと、赤ん坊が影に向かって歩いていった。僕は赤ん坊を
しっかりと足に噛みつかせておくべきだった。僕が答えよう
としたときに、彩香の悲鳴が僕の鼓膜を破った。音が調節さ
れるとこなく、直接その音量で届いてくる。脳を鷲掴みにさ
れて僕は倒れ込んだ。
 白い影が朱に染まっていく。僕の身体は情けないほど俊敏
に背を向けて走り去った。ところで、白い影は僕を追って、
やがて、目の前に回り込んだ。僕の顔ぐらいの白い固まりが
彩香の顔に変わった。そして、僕をじっと見つめた。
 ここで僕の意識は完全に崩れた。あとになっても、このと
き彩香がどんな表情をしていたのか僕は思い出すことができ
なかった。
 ただ、僕の頭のなかには恐らくその表情はずっと残ってい
て、僕がそれを見ることができたとしたら、きっと、僕はこ
こにいられなくなるだろう。

 ここで初めて、僕は呻き声より大きく叫ぶことができた。
 そして、その視線の先には爽香がいた。
 「……どうしたの? 兄さん」
 爽香が慌てて僕に駆け寄ろうとする。僕の身体は怯えて壁
まで後ずさりをした。それから、自分のものとは思えない声
をただひたすらにあげ続けた。
 爽香はそばの柱をつかんで立ちすくんでいた。
 声につまると、しばらくの間、息も絶え絶えになった僕の
忙しない呼吸音だけが、それだけが僕の世界になった。
 「に……兄さん?」
 爽香が怯えた手で、それでも、僕を引っ張りだした。
 僕はいま、自室にいた。
 夢にしては妙に感覚が現実的だった。鼓動が今までにない
ほどの音を立てて聞こえる。重く身体中にのしかかるような、
そんな音が。
 ―これは本当に愛情なの?

―――――――――――――――――――――――――――

 個人的な問題は世界にまるで影響を与えない。ここはよく
それを教えてくれる。屋上のいつもの場所だ。
 上方から降り注ぐ日差しは嘘のように穏やかで暖かく、下
方からは笑顔の入り混じった話し声が風船のように浮かび上
がってくる。問題を抱えて塞ぎこんでいる僕は社会から孤立
した形を取っているように思えた。でも、いまの僕は風船が
耳元で弾けても不快にはならなかった。いや、むしろ、心地
よかった。
 世界はいつもと変わらない。たとえ、どの立ち位置であろ
うと、暖かい世界に僕はいる。そう思えるのが何よりも僕の
精神を安定させていた。可笑しな気分だった。
 僕は身体を起こすと、もう一度、後方にひっくり返ってし
まった。
 「……なんだ、おまえ? 怪物でも見た気か?」
 むせる胸もとを叩くと、彩香に謝った。
 「違う違う、ごめん! 起き上がったら、突然、彩香がい
たもんだからさ。驚いて」
 「おまえ、失礼な奴だな」
 彩香はそう言うと、僕の隣に来てしゃがんだ。そのときに、
僕のわき腹を小突くのを彼女は忘れなかった。
 「おまえ、ここ好きだな? なんでだ?」
 「あぁ……ほら、近所がよく見えるし、それに……ここにい
ると全部、傍観者になって見える気がして落ち着くのかな」
 「なんだそれは……」
 口元を見れば、彩香の言わんとしていることは何となく分
かったのだが、いまそれを言う気にはなれなかった。代わり
に僕は彼女をなだめようと頭を撫でた。ところが、彼女の髪
があまりに熱かったので余計にそれどころではなくなってし
まった。
 「降りよ?」
 「うん? なんだ、もう行くのか?」
 不満げな彩香を先に梯子に行かせると、僕は続いて出入り
口の前に飛んだ。
 ドアを開けると急激な明暗差にやられて視界が点滅した。
 彩香は大丈夫だろうか。僕は彼女の方に目を向けたのだが、
彼女は何事もないようにこちらを見ていた。
 僕は動けなかった。あの悪夢と一瞬重なって見えたのだ。
やがて、重々しいドアが閉まる瞬間、一際大きく重厚な音が
叩き出された。その音を聞いて、僕は底知れぬ恐怖に再び震
えた。
 「どうしたのだ? 愁?」
 彩香の表情がまるで分からない。僕は無意識に彼女を引き
寄せて抱きしめた。
 「な、なんだ!? おまえ……」
 動揺する彩香にかまわず僕は彼女を強く抱き寄せ続けた。
僕は逃げない。僕が見ようとしているものは虚構だ。なぜ
なら、落ち着く場所はここなのだから。ここ……彩香を抱き
きしめられる場所なのだから。彼女をしっかりと抱きしめれ
れるこの世界が一番落ち着くんだ。それなのに、僕は……。
 普段は何気ない幸福な仕草が、ただ、愛する人の顔を見る、
それだけの行為がいまは途方もない勇気が必要だった。僕は
歯を喰いしばると、彩香の肩を少し離し、顔を見ようとした。
ところが……。

 ――バシッ!

 一瞬何が起きたのか、まるで分からなかった。ただ、スロー
モーションで離れていく彩香とその後を追ってゆっくりと声
が聞こえてきた。
 「強引過ぎだ。少しは場所を考えろ」
 僕はひとりごめんと呟きながら、はたかれた頬を手でかい
た。僕はそこでドッキリをしかけられた当事者のようになん
ともバツの悪い、それでいて救済されたかのような表情をし
ていることが分かった。要は口角筋が微妙に上がっていたの
だ。
 壁にもたれてしゃがむと、うなだれながら、あることを誓っ
た。彼女を襲う真似は二度とよそう、と。

―――――――――――――――――――――――――――

 まったく、昼休みって奴は長すぎる。向かいの校舎に恨み
はないが、ベランダに出て頬杖をついていると、私の目が自
然と細まっていくのを感じた。
 「なになに? こんなとこで一人たそがれちゃって」
 喧騒の中からひとり厄介な奴が出てきた。
 「なんだそれは。おまえにはあれが夕日に見えるのか。だ
いたい、そんなタイプじゃない」
 私は隣に来た静香を一瞥すると、また、向かいの校舎に視
線を戻した。
 「知ってるよ、そんなの。でも、珍しいじゃん? 彩香が
ベランダに出るなんて」
 「ふん、付き合っている奴が不良だからな」
 静香の奴、私の言葉を聞くなりうつむいて肩を大きく振る
わせやがった。私はなぜだか恥ずかしくなって、静香が見え
ないように頬杖の腕を反対に代えた。
 「あははは! ……なに? どうしたの? 喧嘩?」
 答えないつもりだったのに、困ったことに、私はこういう
間が苦手だ。私は頭をかくと、静香を睨んだ。
 「おまえ……拒んだ事って、あるのか?」
 「え? 何それ。私、そんな軽くないけど」
 ――言葉足らずでも伝わるのが友達じゃないか。こいつは
まったく……。
 でも、近いからこそ、私も静香に詳しく言いづらかった。
 「さ、彩香、もしかして私と……?」
 なおも期待して静香を見ていたら、あらぬ方向に話が向かっ
た。
 「バカか、おまえは。誰がおまえなんかと」
 そう言うと静香が背後から抱きついてきた。
 「なにそれ、誘っといて!」
 「おい、よせ!」
 静香を言葉で払いのけると、ため息をついた。向かいの校
舎で抱き合ってる奴らが見えたのだ。
 「……うん、まぁ、あるよ? 何回か」
 悪ふざけを終えて、背を壁にもたれかけさせると、静香は
上を見上げながら、そう言った。
 「まぁ、気分的っていうか、生理のときとか無理だしさぁ」
 お互い視線を合わせてこういう話をするのが苦手なのだ。
 私も視線を校舎に移したまま、話し始めた。
 「そうじゃない。普通の時に、だ」
 「え~? それはないよ」
 「そうか……」
 思わず出た声の力なさに驚いて、私の背中が丸まった。
 ふいに、抱き合ってるカップルの男の方と視線があった。
そいつは彼女に何かを言ったのか、今度は女の方がこちらを
向いて、私と視線が重なった。ふたりは勢い良く離れると、
ぎこちないほどの距離をあけて、歩き出した。それを見て、
抱きしめることが一大事であったことを私は思い出した。
 ――愁の奴、いったいどこまで大胆になる気なのだ。
 あいつの放蕩さに肩を落としていると、現実の世界でも静
香に肩を落とされた。
 「な、なにをするのだ!?」
 しゃがみながら静香に抗議をしたが、当の本人はどこかを
向いたまま苦笑いを浮かべて頭を下げていた。
 静香はきびすを返すと、私をしゃがんだまま喧騒のなかに
放り込んだ。
 「生徒指導にでも見つかったのか?」
 「違うわよ、会長」
 「あぁ……監視塔にこもっていやがったのか、あの老害」
 老害、このフレーズは静香の好きな言葉だった。案の定、
彼女は身をよじらせて笑った。
 「アンタも来年にはそう言われるわよ? 副会長さん」
 「冗談じゃない。私はあいつほど堅物じゃない。知ってる
か? あいつの頭じゃ、世界が砕ける」
 「あははは、何よ、それ。でも、私は彩香を応援するから
ね」
 「見返りはないぞ? ……あぁ、でも、あいつには後で申
し開きをしておく」
 私はそう言って、後ろ越しに手を振ると、教室を後にした。

 ところで、愁は純情そのものだった。会長が何かお触書で
も出したのか(この前のベランダの件は抱き合っている生徒が
襲われているように見えて思わず確認しようとベランダに出
たという報告にしておいた。もちろん、お咎めなし。悪い奴
だ)、いや、それなら私にも報告があるはずなのだ。でも、そ
んな報告は受けていない。それなら、愁、どうしたのだ。そ
もそも、お触書に落書きするようなおまえが、どうしたのだ。
 あの屋上以来、あいつは家での様子もおかしい。私がソファ
に座っても、あいつは素通りして机の椅子に座りやがる。私
がベットに寝転ぶと、あいつはソファに座って、私がまたソ
ファに座ると、あぁ! ジュースがない! お菓子がない! 
だのと言って、部屋を出るのだ(爽香の真似か)。
 それから、戻ってきてその口実を私の前に置くと、また、
素通りして机の椅子に座りやがる。いったい、なんの真似な
のだ。まったくもって、くだらない。でも、そんな日が何日
も続いている。
 いいかげん、この状態に飽きて、膝を抱えて目を細めてい
ると、愁が困ったように声を椅子からかけてきた。
 「どうしたんだ? 何か怒ってる?」
 「……ふん。おまえが嫌いなのに嫌いだって、はっきり言
わないからだろ。おまえにリモコンを投げつけてやろうか、
いま迷っているところだ」
 私はそう言って拗ねた。顔を背けて見えた窓の向こう側で
は、荒れた風の景色が広がっていた。
 「なんで? 嫌いなわけないじゃん」
 愁はそんなことをまたしても椅子から言ってきた。私は不
満たっぷりに空いている隣のソファを手で叩いてみせた。
 「だったら、こっちに来たらどうなのだ? おまえ、遠い
だろ」
 愁は困ったように頬をかくと、ゆっくりと私に寄ってきた。
 「ごめん」
 でも、困ったことに愁が来た途端、嬉しいはずなのに、私
は物凄い嫌気がさして、愁に背を向けた。ゆっくり来られる
のが嫌だったのだ。
 「嫌なら来るな」
 何か変だ。愁とふたりでいる時間がいまは嬉しくない。ふ
たりでいるのに、こいつはまるで遠くにいる。
 私の背中で愁はしばらく黙っていた。
 風が止む合間を見計らって、愁はひとり話し始めた。

 私は背中からやってくる言葉に初め耳を疑った。後ろ向き
だから、変に聞こえるのか。気がついたら、私は愁の胸の中
に飛び込んでいた。
 「まったく、おまえって奴は……小説家か何かか?」
 愁は返答の変わりに私を強く抱きしめた。
 「ごめん、本当はずっと、こうしたかったんだ。でも、ま
た、ああいう気持ちになるのが怖くて、抑えられる自信がな
かったんだ」
 「……なら、襲えばいいだろ。ただ、学校は困る」
 ここでようやく愁は笑ってくれた。
 「違うっての、あれは。本当に夢のフラッシュバックみた
いなのに襲われて、不安になった。彩香がいなくなってしま
いそうで……それで、無我夢中に抱きしめていたんだ。悪かっ
たよ」
 今度は私が強く愁を抱きしめてやった。
 「いなくなるわけないだろ、バカか、おまえは」
 まったくもって飛躍しすぎているし、ドラマの見過ぎだ。
でも、こいつがいま話した悪夢は妙に生々しかった。私が
見たのなら、しばらく、家から出られそうにない。
 「おまえ……爽香に何か見せられたのか?」
 私は愁の顔を見ずに聞いた。
 「いや、そうじゃなくて。ただ、親父が出て行くときに渡
された本があって……いま思えば、それの影響なんかな」
 私は顔を起こすと、愁にその本をすぐに持ってこさせた。
 「なんだ、これは? さらば、悲しみの性(49)?」
 「ん、そう。おれもそのときはなんだよ、これ? って親
父に言ったんだけど、いまはそれがあって良かったと思って
る」
 「何が良かった、だ。私は全然よくない。おまえがその悪
夢を見るきっかけになったのだろ?」
 愁の頬に行く前に、私は右手にその本を盗ませた。そして、
しばらく愁の隣で読んだ。次第に私の胸中がムカムカしてく
るのが目に見えて分かった。まったくもってクズな奴ばかり
が載っている。
 「なんだ、ここにおまえはいないじゃないか。何をそこま
で苦しむ必要があるのだ?」
 登場人物と愁を切り離したくて、本を出来る限り机の遠く
の方へ放った。
 「いまはそれに近いことはしていないかもしれない。でも、
そういう欲求がおれの中にもあることは確かだから」
 本当にこいつは見た目と中身がまるで正反対な奴だ。私に
対してもうちょっと不真面目でも良いのだぞ。いや、浮気で
もしようものなら、それは、タダではすまないが。
 「彩香が不安そうにパッケージの注意書きを見てるのが、
正直つらかった。いや! もちろん、彩香が悪いんじゃなく
て! そんな不安を植えつけるようなことして……何してる
んだろうって。笑顔にしたいのに。でも、ふたりきりになる
と、そういう気持ちになるし、自分でも認めたくないけど、
そういう衝動は抑えられなくて。自分の欲求しか考えられな
くなるんだ。その点では、あの本に書いてある人たちと変わ
らないと思う。それで、いつもひとりになるとつらくて……
タチが悪いだろ?」
 愁はそう言って自虐めいた笑みを浮かべた。私はそういう
愁の笑い方が大嫌いだ。
 「なんだおまえ、いつもした後、後悔していたのか? そ
りゃ、不安になるときはある。でも、私は後悔したことなん
てないのだぞ?」
 嫌な箱を開けてしまった。私は思わず、愁の胸を叩いてし
まった。
 「彩香のことが……本当に好きなんだ。でも、それなら、
どうして不安になるようなことをあえてさせるのか分からな
くて……それで、混乱してる」
 「おまえは頭でっかちだ」
 きょとんとする愁の顎めがけて、軽く頭突きをしてやった。
こいつは私になると、本当に無防備な奴だ。おかげで頭が痛
いじゃないか。
 乱れた髪を振り払うと、愁を見ずに言ってやった。
 「そもそも前提が間違っている。別におまえだけがしたい
わけじゃない」
 「ありがとう……でも、いつもってわけじゃないだろ?」
 ――まったく! こいつはどこまで恥ずかしいことを私に
言わせる気なのだ。
 「本にもあったけど、恋人だからって、それで、イコール
していいわけじゃないのに。突然、襲ったこともあるし」
 「おまえ、私をどう見ているのだ? 嫌なことをされて黙っ
ているタイプだと思うか? 嫌ならおまえを蹴飛ばしている
ぞ?」
 「確かに、そうだな」
 頬をかく愁の仕草に、私の大好きな、あの穏和な表情が戻っ
てくるのを感じた。
 「すぐ納得するな! おまえ、嫌な奴だ」
 「ご、ごめん」
 「別にいい。……愁?」
 「ん?」
 「私は嫌じゃない。おまえが……好きならな」
 「……そういうことを?」
 「そうじゃない!」
 ――まったく! 本当にこいつも静香と同じだ。言葉足らず
でも理解しろ。恥ずかしいではないか。
 「……私を、だ」
 「あ、あぁ。それは間違いないよ」
 こっちが恥ずかしいのに、まるで、愁の方が恥ずかしそうだっ
た。でも、こういう姿を見ると、私も嫌な奴だ、もっと、辱め
てやりたくなる。
 「ああいうのだって、おまえが用意してくれるだろ? 爽香
に隠れて。たゆまぬ努力だ」
 愁は恥ずかしさに耐え切れなくなったのか、吹き出した。
 「あぁ、そりゃそうだ。さすがに、ああいうのは買わせたく
ない」
 ――そうだ、陽気でいろ、愁。
 私はその方が好きだし、そうしてくれたなら、私もどこまで
も陽気になれるのだ。
 「愁?」
 「ん?」
 「おまえはいつも私に対して、マイナスな状況にならないよ
うに色々対処しようとするな。嬉しいとは思うが、でも、そん
なの望んでない。いつもおまえは身勝手な優しさを爆発させて、
私はその爆発音に驚くのだ。いいか? おまえは私の親父じゃ
ない。不幸にならないようにあれこれ勝手に考えるな。それは
私が考えることだ。私がおまえに望んでいるのは、どんな状況
になっても、ふたりでいることだ。どんな状況でもふたりで対
処していくことなのだ。少しずつでいいから、おまえのその判
断基準のもとに私の考えも置いてくれ。自分の感情だけで突っ
走るな」
 「……ごめん」
 「許すもんか」
 私は愁の膝の上に乗っかると、今度は頭めがけて頭突きを
してやった。
 「いてて……」
 「いいか? 愁。くどいのは嫌いだ。だから、これで言う
のは最後だからな?」
 私はそう言うと愁の胸に顔をうずめた。
 「確かに不安にはなる。でも、いまはもう、それがない方
が不安なのだ。だから、おまえ……責任取れ」

―――――――――――――――――――――――――――

 彩香は僕の上にまたがって、両腕を僕の首の後ろへと回し
た。顔をよせた彼女の表情を読み解くのに、それほど暇はい
らなかった。
 彩香は優しい。要は、僕に誘ってみせているんだ。僕だけ
がしたいんじゃない。そう思わせてくれる。
 僕はいたたまれなくなって、そのまま彼女を引き寄せた。
彼女の柔らかな胸で僕は静かに泣いた。彩香は僕の髪をそっ
と撫で始めた。落ち着いた感情が優しさを身にまとって僕を
包み込む。
 どうして、こうも一つになることを求めるのだろう。でも、
と、思う。何も求めているのは肉体的なことだけではない。
ふいに、もし、本当にこの身体のなかに魂があるのだとした
ら、それを彩香のなかに入れて、彩香の中に宿る魂に溶け込
ませてみたくなった。
 そこで、僕は軽く息を吸って彩香の口をつぐみ、息をそっ
と吹き込んだ。可愛い小鼻こそつままなかったが、人工呼吸
をしているようだった。
 蘇生させる必要のない人間にこのような行為を行うのは常
軌を逸しているが、しかし、僕は彩香から新しい彼女が生ま
れてくるのを願ったのだ。魂を溶け込ませて、彩香に新しい
何かを受胎させたかった。
 彩香は初め驚いたようだったが、その行為をすぐに受け入
れてくれた。実態の伴わない情念が、彩香の身体に入ってい
く。
 即興の儀式が終わると、彩香はもう一度、僕の首に腕をま
わした。僕がいまそうしたように、彩香は唇で僕の口を塞い
で、自身の魂を吐き出そうとしていた。
 その刹那の間、どちらの魂も動かない凪の時間に、いまか
ら訪れる幸福を察知して僕の全身が一瞬にして喚起にわいた。
そして、背筋が盛大な前夜祭を始める。
 ところが、同時に別の情念が湧き出した。まるで、こども
のようなその情念はそれが稚拙であると分かっていても、服
従しなければならない魅力がある。
 僕は彼女の吐き出してくれた魂に僕の魂を向かわせた。二
つの拮抗的な風がぶつかり、それは、口元ではじけた。初め
こそ、その爆発音にふたりして笑い転げたが、すぐに彩香は
とても不満そうな顔をした。魂が受け入れられなかったから
ではなくて、恐らくは、僕がした行為を僕だけ受け入れなかっ
たからだ。
 僕は彩香の口を塞ぐと、そのまま待った。彼女から愛おし
い魂が送られてくるのを。そして、今度は寸分もこの世界に
漏らさずに飲み干し、それを全身に行き渡らせた。
 痺れた身体が本当に僕が期待しているような結果から生じ
たものなのか、それとも、目の前で僕を茶化している彼女の
えくぼがとても魅力的だったからなのかは、いまの僕には分
からなかった。

(49)河野美代子(1985)
    『さらば、悲しみの性―産婦人科医の診察室から』
    高分研

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