白刃の女神(第十部 戸惑い) 前編

 忘れかけていた声があった。人混みの中にいると、ふいに
一言だけ、見知らぬ人の声が際立って聞こえることがある。
その忘れかけていた声はそれと同じように、僕の騒がしい無
意識の中から、不意打ちのように思いがけない言葉を意識に
浮かべた。
 僕はまるでそこに水死体でも見つけたかのように大きく目
を見開いてその場に立ち止まった。忘れかけていたのではな
い。できれば、忘れたかったんだ。それも、それをはっきり
と認識する前に。
 僕は長いことそれを奥深くに沈めてきた。上手く隠したつ
もりだったのだが、それは僕の目の届かないところで、常に
共にあった。
 「おい、愁? 大丈夫か?」
 つないだ手に引っ張られて、彩香は立ち止まった僕に戻っ
てきた。
 「あ、あぁ。大丈夫だ」
 人混みで疲れたのだろう。彩香は恐らくそう思って気づかっ
てくれたのか、まだ夕方前だというのに、帰ろうと言ってく
れた。目的の映画は既に見終わっていたが、できれば、彩香
の好きなカフェにも一緒に行きたかった。
 ところが、他方では浮き上がった水死体の行方が気になっ
てしかたがなかった。僕はその思いをまたひとり沈めたくて、
彩香の提案に乗ることにした。

 家に着くと、先に彩香を自室に通した。帰ろうとは言った
ものの、どうやら、僕が眠るまでは一緒にいてくれるらしい。
 例の声は無意識に沈み返し(浅かったが)、幾分体調も良
くなっていたので、僕は彩香のその看護士の申し出をありが
たく受けた。
 いや、もしかしたら、僕は水死体の犯人を別に見つけたかっ
たのかもしれない。いずれにせよ、いつものように飲み物を
グラスに注ぐと、爽香のお菓子をいくつか拝借し、僕も遅れ
て自室に向かった。
 「なんだ、気にしなくていいぞ。おまえ、体調悪いのだろ?」
 部屋に入ると彩香は僕の姿に困惑して抗議した。僕はかま
わずテーブルにグラス等々置くと、彩香に向き直った。とこ
ろが、これが僕をまた新たに滅入らせた。
 彩香がベットの横で、所謂、女の子座りをしていたのだ。
その新鮮な姿に興味をそそられて、僕の視線は彩香のミニス
カートに吸い込まれてしまった。そこで、現れたのがあのやっ
かいな暗闇だった。僕は目眩がした。そこに視線を入れてし
まえば、抜け出すことはおろか、足掻くこともままならない。
たちまちやってくる欲情に理性は駆逐されてしまうだろう。
 僕の自我はなくなる。彩香の内股にできた木陰に、荒々し
い欲情がその身を潜ませようと唸り始めた。欲情に意思はな
い。あるのは燃え上がるその身を冷やそうとする本能だけだ。
欲情は焼け付くその身の上に、何かを乗せていた。情念だ。
その身に食らいつく猛り狂う情念を満足させ、その身を充足
させるにはそこへ行くよりほかない。
 灼熱の情炎に理性は炙られ、もはや、肉体は欲情の奴隷だっ
た。肉体の新たな支配者となった欲情に情念がささやく。
 ――あの木陰に入れたら、どれだけおまえの身が安らぐこ
とだろうか。それに、もし、あの木陰に根付く湖沼をみつけ
られたら、その身を焦がすことなく、おまえはたちまち充足
されることだろう。さぁ、そこに身を浮かせ、優しい音色に
包まれながら、戯れるといい!
 その声に手を引かれて、欲情は走り出した。肉体は木陰が
どこにもいかないように、その世界をまず手でとらえた。
 「……どうしたのだ?」
 彩香は唐突な僕の行動に戸惑いながらも、平静を装った。
ところが、それに反して、彩香の脈拍は激しくその行為に抵
抗していた。これは、いま僕の身に起きていること、そして、
その結果生じることを彩香がよく理解している証拠だった。
 男性がしばしば欲情に伏すことを女性は知っている。女神
ではなく、淫女にひざまずく愚か者であることを知っている。
そして、その愚者にどれほど愛を諭そうにも、決して、目を
覚まさないことも当の男性以上によく理解している。
 この点に関して、女性は聡明だと思う。しかしながら、そ
れに見合った力を同時に持っていない点で女性は悲劇的でも
あると言えるだろう。特に、相手が恋人や夫である場合、ま
すます女性は悲劇的になる。このとき、彼女らはいっさいの
防衛手段を持てないのだから。
 僕は卑怯だ。それを分かっていながら、彩香をベットに連
れ出した。
 理性は焼きただれ、時間の経過はただ欲情にのみ、包まれ
ていく。彩香は僕の日差しを一身に受け止めて、彼女の海は
漸次、熱を帯びていった。海は日差しを容赦なく差し込まれ、
その衝撃で海水が空に舞い、とても艶やかな音をたてていっ
た。
 海の中に光の筋が通る頃、もはや、海と太陽との間には一
切のものがなくなっていき、やがて、その両者は地平線で溶
け合ってひとつになった。
 
 しばらくして、僕は窓の方を見ていた。そちらでは太陽と
海はまだまだ重なろうとしていなかった。日は一向に暮れそ
うもない。
 ――あの熱い太陽の方が、よっぽど冷静だ。
 心の中でそう呟くと、妙に傷ついた気分になった。
 僕は彩香の顔を眺めた。まだ彼女の顔は汗に濡れていて、
ところどころ髪が束になってくっついていた。彼女も僕の方
を見たが、息があがっていて、声にならないようだった。僕
の方でも声をかける気力がなくて、ただ、タオルで顔をふい
てあげた。
 僕はそこで腕が幾分か鈍っていることに気がついた。とこ
ろで、彩香はそのタオルではっきりと認識したのか、困った
ようにそっぽを向いた。
 「シャワー……借りていいか?」
 僕はいじわるをしようと彩香に覆い被さろうとしたのだが、
動けなかった。彼女の視線の先にあの破れたパッケージがあっ
たのだ。それを心許なさそうに見つめる彩香の視線は、普段
見ることのない、悲哀に満ちたものだった。
 僕はそれを見て動けなかった。また、犯人を僕は沈めるの
だろうか。しかし、警察の手はすぐそこにまで迫っているの
はわかっている。
 こめかみが刺すように痛んだ。さび付いた手錠の擦れる音
が僕を捕らえて放さない。
 僕は咳払いをして(名前はとても呼べなかった)彼女の視
線をこちらに向けさせた。目が合うその一瞬に僕は恐らくぎ
こちない笑みを作って彼女の髪を撫でた。
 「すぐ片してくる。待っててくれ」
 きょとんとする彼女を横目に僕は足早に部屋を出た。

 ――これが本当に愛情なの?

 無意識から溢れ出す言葉はもう押し戻せなかった。はっき
りといまその言葉を認識したのだから。
 あの日、彩香と初めて身体を重ねた日に見た景色と、いま
見ているそれとは同じだった。夏の強い日差しが僕の姿を逃
さない。あたかもあの日からずっと僕を見ていたかのように。
 僕は脱力してその場に崩れ落ちてしまった。ところが、そ
こで耳を塞いでも目を閉じても、容赦なくその言葉は雷鳴の
ような金切り声をあげて全身に震え渡り、瞼の裏ではその存
在を何度も点滅させた。この落ち着きどころのない自己同着
は苦痛を急激に増幅させ、僕を疲弊させた。
 自分の行動が理にかなわない。意思に統制を失ったときほ
ど混乱することはないだろう。それから逃れようと僕は必死
に止揚を求めた。けれども、思考するいずれの帰趨も、その
すべてが一方的な答えに合理化されてしまうに違いなかった。
 苦痛を取り除くためには、忘却を麻酔として用いるか、も
しくは、治癒のために先の行動に対して善の認定を行う必要
があるのだから。
 だからこそ、僕は一番考えたくもないことをあえて想像し
た。爽香がまったく同じような状況に出くわし、それを見て
しまったのなら、僕はどうするだろうか、という想像を。
 ――こんなのは悪夢だ。
 ところが、思いに反して、ふいに、悪寒が想像力を刺激し
た。もし、それを見てしまったのなら、僕は相手を拳が握れ
なくなるまで殴り続けるだろう。
 そして、僕は受け入れてしまった妹の前で泣きじゃくり、
その涙を止めるために、自らの首筋に浮かんだ青筋めがけて、
あの寛大な太陽の眼差しを突き刺すことだろう。
 このイメージはそれまで揺れ動いていた天秤の結末を簡単
に指し示していた。結局、僕がしでかした行為を他ならぬ僕
自身が悪とみなしていたのだ。
 僕は彼女を愛したのではなく、ただ、襲ったのだ。

 ――いま彼女を抱くことが、果たして本当に愛する行為にな
るのか。

 昔、そんな投げかけをした男がいた。僕はその男に背を向け
た。答えが返せない苛立ち、それに対する自身への困惑(自ら
の行動には必ず意思が伴うと信じていた)、さらに、身体への
作用として目頭が熱くなり、乱心を悟られるのを嫌ったのだ。
 僕はそのまま歩みを進め、いま聞いた投げかけをそもそも
聞かなかったことにしようとした。
 ところが、その男は僕の手首をつかんでそれを阻んだ。
 それが、合図となった。
 僕は振り返るなり乱心に身を任せ、彼を殴り飛ばし、彼に
重荷を背負わせて、断崖から蹴落とした。落下する彼と、お
ぞましい速度で這いあがる悲鳴に僕の精神はそこで擦り切れ
た。強い精神的ダメージを味方に僕はこの光景のおよそ大半
を忘れることができたのだ。
 しかしながら、断崖に戻ると彼は必ず浮き上がってくる。
そこには行きたくないが、彩香があのパッケージを手に注意
事項を見つめるあの眼差しを目の当たりにすれば、僕は既に
にそこに立っているのだ。
 すると、あのときのように下方から声が這い上がり、届く
はずのない水しぶきが僕の頬に冷や水をかける。僕がそこで
気づかされるのは、この問いかけから逃れたい真意が、決し
て、彼女に余計な不安や恐怖を追わせる罪悪感を直視しなけ
ればならない、と、いこうとのみではないということだ。
 彼女が身ごもることによって、彼女を失うことをもっとも
恐れているのだ。いや、本当はそれ程にセンシティブなもの
でもないだろう。もっと心情の皮を剥けば、きっと、単に殺
人者に自分がなることを恐れているだけだ。問いかけ主を殺
害したように。
 甘いと言われようが、若さはあるし、それも、働けない若
さではない。彼女とこどもを守るにはそれなりの選択肢があっ
て、彼女のこどもとしての生活を守護することも負えないと
言えるはずもない。けれど、身ごもることはその若さがかえっ
て危険なことを理解している。
 時期を得ない妊娠は彼女の健やかな肉体を蝕み、脳は成長
の記録にペンを置くだろう。
 彩香を発育途上のこどもに見たことは一度もない。いまで
も、大人として綺麗な女性に見えている。ところが、これが
あてにならない洞察であることも十分に心得ている。初めて
会った初等部の頃にも、恐らく、僕はいまと同じような視線
で彩香を見ていただろうから。
 いまみれば、明らかにこどもだが、そのときの僕には立派
な女性に見えていたことだろう。いまみている同世代の姿が
結局、完全なそれなのだ。
 
「おい? 愁。いるのか?」
 階下へ降りていく音がしないのを不審に思ったのか、部屋
から彩香の声が聞こえた。
 点が線となって飛び交う、幾千の思考が一度に振り払われ
た。その衝撃で僕は瞬時に言葉を返すことができずにむせ返っ
てしまった。
 「……バレちまった? もっかいしたくて、なかなか風呂
場に足が向かなくてさ」
 自嘲した言葉が彼女の方に身体を向けさせなかった。
 「それなら、おまえ……どうして、襲いに来ないのだ?」
 「……ん? あぁ、べたついてっからさ、おれ。汗臭い感じ
で飛びつきたくないんだよ、やだろ? そんなの」
 「随分、理性的なのだな? つまならない奴だ」
 「本能は破滅の案内人だってレイモン(48)が言ってた」
 「誰だそいつは……」
 その言葉を聞き終えるより早く、枕に沈む音が聞こえた。
僕はその音を聞いて、喰いしばった口元がそれでも激しく震
えるのを感じた。涙腺は既に崩壊していたのだ。もしかした
ら、僕の杞憂かもしれない。けれど、そうであっても、たま
たまでしかない。時期を得ない衝動は、きっと、いつか彼女
を傷つけるだろう。もし、そうしてしまったとしたら、僕は
果たしてその事実に気がつくだろうか。彼女の優しい嘘と、
痛々しい演技を見て取れるのだろうか。聡明な女性のあきら
めに僕は甘えはしないだろうか。
 口元に錆びた鉄の味が広がった。彼女ではなく欲情にひざ
まずいた、初めての敗北だった。それは、闇に飲まれまいと
過信していた自身の力を疑わせ、僕を急激に臆病にした。彼
女が泣き寝入りすることになりはしないか、とても、不安に
なった。
 ドア一枚向こうの彼女の笑顔を自ら壊さないように、僕は
先ほどの行為を静かに責めた。

 それでもなお、僕は杞憂だと自身を欺き続けた。彼女をこ
どもだと認めつつも、大人じみた行為を要求した。
 突拍子もない展開はその場を冗談に譲るようになったが、
それでも抑えられない欲情は情事にもっていくための様々な
方策を取るようになった。
 変わったことは結局、彼女に良い合図を送らせるための行
動を取るようになっただけだった。結果として、僕は不安と
恐怖を彼女に与えるだけではなく、万が一、最悪の状況に陥っ
たときも、その共犯者に彼女を仕立て上げようとしたのだ。
その間、問いかけ主は姿を変え、何度も目の前に現れたが、
その度に殺害された。
  そして、それから、この状況は何の進展もなく数週間が
過ぎていった。

―――――――――――――――――――――――――――

 病室の入り口に僕は立っていた。奥にある隅のベッドで女
性が何かを抱きかかえ、嗚咽をあげていた。ただ、僕にはそ
の音が聞こえなかった。どういうわけだか僕は耳が聞こえな
くて、動作からそう判断した。
 女性の隣では男性が椅子の上でうなだれて動かない。その
背後に開け放たれた窓から風がなだれ込んでいてカーテンが
大きく揺らめいていた。
 ――誰かが亡くなったんだ。
 恐らく、あのふたりの娘なのだろう。女性が抱えこんだ隙
間からだらりと垂れ下がる細い腕が見えた。
 ――窓辺から、迎えに来たんだ。
 僕は見えるはずもないのに、その最後の来訪者の行き先を
たどろうと窓辺に近寄った。力強い太陽に僕は手をかざすだ
けだった。
 それから、病室に視線を戻すと、甲高い痛みが僕の心臓を
貫いた。もみくちゃにされた掛け布団のなかで、僕はそこに
彩香を発見した。
 亡くなったのは彩香だった。

 僕の視線の切れ端で誰かが僕を見ているのが分かった。花
瓶を持った女性と、椅子の足を握りしめた男性だ。
 僕はそこで初めて、誰がその最後の来訪者を招いたのか気
がついた。花瓶が頭の上ではじけて、椅子がこめかみを打ち
抜いた。何もかもが麻痺していた。そこにあるはずの痛みも
音も、僕には届かない。
 ただ、床の冷たさだけ妙に頬を伝わってくる。そして、そ
の冷たさのなかにどこからともなく断続的な振動が内包され
てくるのを僕は感じていた。
 やがて、横たわった病室の入り口にそれはやってくる。詰
め寄るふたりに看護士はタオルの包みを大事そうに抱えて、
それをそっとふたりに渡した。
 僕は180度よじれた世界からそれを眺めていた。ふたり
の僅かな隙間にそれが赤ん坊であることが見て取れた。
 ふいに、その空間の先で赤ん坊が瞼を大きく開いて僕を見
据えた。冷たくなる身体のなかで、そこで初めて、鼓膜をつ
んざくような鋭い呻き声が聞こえた。

 何もかもが蘇った。それと同時に僕の身体は震撼し、訳も
分からずに病室を飛び出した。ここから出たかった。何人も
の人をはじき飛ばして、エレベーターに走りよった。
 待つ時間が針のように僕に押し迫ってきて、結局、一秒も
そこにいられずに階段をかけ下りた。僕は何をしているのか
分からなかった。ただただ、耐えがたい逼迫した何かが僕の
足をいまにもとらえようとしている気がして、とにかく足を
前に出した。
 長いロビーを通り抜けて、そこに溢れる場違いな笑みをか
き消して出口まで猛進した。ところが、あともう少しという
ところで、可笑しなことにドアが施錠されていくのを目の当
たりにした。
 ドアが閉まった。
 僕が出口に着いたのはちょうどそのときだった。
 「待ってくれ! おれを出してくれ!」
 恐怖にかられた僕は息を弾ませながら、そばにいた女性を
まくしたてた。
 「出してくれって、困りましたねぇ。時計をご覧になりま
したか? 本日は14時で閉館です」
 「いま閉めたばかりじゃないか!? 頼む! 出してくれ!」
 「いいえ、14時に閉館ですよ。例外はございませんので、
あしからず。本日はお客様のそばでお泊まりになってくださ
い」
 女性はきびすを返して院内に戻ろうとしたので、僕は彼女
から鍵を奪おうとした。ところが、どこからともなく警備員
がやってきて、僕はすんなり取り押さえられてしまった。
 「頼む! 頼むから出してく……」
 そう言いかけたところで、後ろからグシャリっという音が
聞こえた。警備員の人がほらみろ、と言った顔で僕を眺めた。
僕が出口の方を振り返ると、人が血を流して倒れていた。い
や、つぶれていた。
 「14時からは人が降る時間です。来院されたのならご存
じでしょう?」
 女性は服装を正すと、睨みながら去っていった。
 「接触して訴訟でも起こされたら、たまりませんのよ。
ホント困りますわ。お客様は要求ばかりなさるんだから。ひ
な鳥のガキの方がか弱いだけまだましです」
 また一つ、グシャリという音が背後から聞こえた。
 「どうなっているんです!?」
 冷や汗が目に入って、視界が痛みだした。警備員はそれに
答えずに見回りに戻ろうとした。僕は今度は彼につかみかかっ
た。
 「頼む! 出してくれ! ここから出たいんだ!」
 「……まったく、勝手だね、アンタは。そんなに出たいの
なら、非常口にでも回ればいいだろ」
 警備員は警棒で僕の顎をしゃくりあげながらそう言った。
 「そこなら、人はすっかり降り終えた後だしな」
 卑屈ともとれる笑みを浮かべて警備員はそう言うと立ち去っ
た。僕は声で彼を追いかけた。
 「どこにあるんです!?」
 警備員は振り返らずに左手で指を指した。
 「まっすぐ行った突き当たりの右手だよ」

 僕は言われた通りにまた走り出した。規則的に間隔をあけ
て取り付けられた電灯がまるで一本の線のように頭上に流れ
ていく。
 突き当たりまで来ると、確かに右手にはドアがあった。た
だ、そこには見慣れたはずの、あの非常口のプレートが取り
付けられていなかった。
 ドアノブにかける手が強張る。周りを見渡してみても、そ
こには誰ひとりいない。相変わらず何かに怯えていて、僕は
猜疑心の固まりで天井さえも確認した。そこにあったのはあ
の線のように見えた電灯だけだった。それでも、僕は落ち着
けなかった。その電灯は周囲の天井を黒く焼いていて、それ
がまるで不気味な目のように見えたのだ。何かに見られてい
る。何かに追われている。でも、何かって一いったい何だ。
 ドアノブにその答えを浮かび上がらせようとしたときだっ
た。ひたひた、と床を叩く音が聞こえてきた。何となしに
その行方を追うと、あの赤ん坊がいた。それも似たような
赤ん坊が2人、3人と増えてこちらににじり寄ってくる。
 目をこすったが、ぼやけて見えたわけではなかった。ふい
に一斉に立ち止まると、瞼を開いてまたあのつんざくような
呻き声をあげた。
 僕はドアノブを力任せに引いた。無情にも開かなかった。
ドンドン、という音と、迫りくるひたひた、という音が入
り交じって耳元を濡らす。
 ――いったい、僕をどうしようというのだ。
 諦めかけたそのときドアは勢いよく前方に開いた。僕は倒
れ込むと、すぐさまドアを閉じた。それでも、つんざくよう
な呻き声が僕の耳をえぐった。
 ――早くここから出たい。
 僕は忙しなく動く手のひらを眺めて立ち上がった。
 だが、振り返って見えたのは駐車場でも道路でもなかった。
むせ返りそうなこじんまりとした部屋で、人一人乗れる台が、
規則的に6台並べられていた。薄暗い部屋で、所々緑色のほ
の暗い明かりが僕の視界を守ってくれていた。
 台にはシーツと枕が置かれていたが、そこには誰もいなかっ
た。ただ、嫌な予感がした。警備員の先ほどの声が脳内を行
き交う。
 ――人はすっかり降り終えた後だしな。
 まさか、と思った。でも、恐らくここは霊安室だ。頭の中
であの警備員の卑屈な笑みが蘇る。握り拳に少しだけ自分の
力がこもった。
 唇を噛みしめ目を閉じていると、ふいに目の前に誰かの顔
があるように感じた。慌てて目を開けると、そこには誰もい
なかった。
 心許ない息を吐くと、一番近くの台でサラサラとシーツの
擦れる音が聞こえた。時間が本当に止まった。ただ、その得
体の知れない音の発信元を除いては。僕の動かない視線の先
で2本の線のような足が顔をのぞかせた。誰かが、台から下
りている。そういえば、身近な台は暗くてよく見ていなかっ
た気がする。
 身体の内部にある何もかもが喉元に差し迫っている感覚に
襲われて僕は口を両手で塞いだ。でも、塞ぐべきは口ではな
くて耳だった。
 ひたっ、という音が僕の精神を消し去った。

 臓物がなにもかも口から出てくる感覚だった。でも、その
瞬間が僕をまだ救ってくれていた。足音が僕のすぐそばまで
やってきて、そこで止まっているのを僕は気にとめなくてす
んだのだから。
 「……愁?」
 僕の横で信じられない声がした。幻聴だと思った。でも、
そこには確かに彩香がいた。白いローブをまとって感情のな
い表情で僕を見下ろしている。僕は途端に彼女の両肩をつか
んだ。
 「彩香!? 本当に彩香か!? おまえ、無事なのか?」
 僕は何度も揺すってみたが、彼女は先ほどから視線を変え
ずにうつむいたままだった。
 「彩香!? なんとか言ってくれ!!」
 すると、下の方から彼女の消え入りそうな声がゆらゆらと
立ち上ってきた。
 「……愁……離して……はなして……ハナシテ」
 僕はどういうわけだか、彼女の声を聞くと、彼女を抱きし
めた。
 「イタイ……itai……iⅾai!!」
 それは、本当に足下から頭まで駆け上るような金切り声だっ
た。
 「彩香……」
 彼女を離すと、ポタポタと血が滴り落ちていた。その音と
合わせるかのようにひたひた、と、あの脳を破壊する音が聞
こえる。
 「どうして……」
 「彩香?」
 「いたい……いたい……愁……赤ちゃん……いたい……こ
わい……こわいよ……やだ……やだよ……どうして……」
 僕はもう訳が分からなくて、ただただ後ずさりするしかな
かった。
 壁にすっかりと背中がついたときだった。
 「愁……どうして、こんなことさせたの? ねぇ、愁……
教えてよ……愁」
 僕は頭を抱えて座り込むしかなかった。気が触れたように
頭を左右に振って、叫べるだけ叫んだ。でも、声になるより
早く廊下からあの呻き声が聞こえた。
 「あぁ……赤ちゃん……私の……いや……私も……私も……」
 僕が顔を上げると、そこに彩香の姿はもうなかった。

 台の上には彩香が綺麗に寝かされていた。白いローブも、
朱の模様をつくることなく、その純白さを守っていた。ウエ
ディングドレスだったら、どんなに綺麗だと言ってあげられ
ただろう。
 僕は彼女の台に倒れ込んで、謝り続けた。でも、むせび泣
く声は、もはや、声にもならなかった。
 シーツを綺麗に直して、部屋を掃除してから僕は部屋をあ
とにした。
 すると、待ちかねたようにそこで赤ん坊たちがまた一斉に
呻きだした。似たような、それも何百もの赤ん坊たちが。
 身体全身にまたあの恐怖が立ちこめてきた。
 ――なんなんだこれは。
 僕はまた声をあげて、逃げ出した。ところが、ロビーに出て
も、その赤ん坊たちが消えることはない。ありとあらゆるとこ
ろからその子たちが迫ってくる。
 「ちょっと、あなたですか!? 先ほどから院内を走り回っ
ている方は!」
 僕はそこに人がいたことに驚いた。周りには赤ん坊しか見え
ていなかったのだ。でも、とにかく助かった。
 「すみません! でも、なんなんですか!? この赤ん坊た
ちは」
 僕は息も切れ切れに看護士にそう尋ねた。
 「赤ん坊? いったい何をおっしゃっているんですか?」
 「え、何って……だって、赤ん坊だらけじゃないですか!?
しかも、似たような子ばかり! ほら、こっちにきてる!」
 看護士に指の先を見るように促してみせたが、彼女は僕に
怒鳴りだす始末だった。
 「いいかげんにしてください! とにかく、私とここにい
てもらいます。いいですね?」
 彼女はタブレットPCを取り出すと常駐の警備員に連絡を
入れた。でも、そんなことよりも僕の恐怖は背後にあった。
いままさに何千もの赤ん坊が僕に差し迫っていた。
 僕は彼女を払いのけて、また走り出した。彼女の罵声が聞
こえてきたが、そんなものはすぐに呻き声に消されてしまっ
た。

(48)レイモン・ラディゲ(1903-1923)のこと。
    パリ近郊のサン=モール生まれ。主な作品に、
    『ドルジェル伯の舞踏会』『肉体の悪魔』等がある。


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