世の中全てが紙一重だと最近ホットワードになっている件

なんか最近、紙一重って言葉がホットワードである。まあ、そういうもんなんだろう。割とどこでも、当たり前のように聞こえるこの話が、私にとっても多くのしかかって来てるなー、と思える話でもある。

最たる例が、私は基本、自由主義であり、放任主義である。別に周囲の人間誰であろうと、どこで生きようが、どこで死のうが、何に挑戦しようが、ニートや引きこもりになろうが勝手なのである。その人が決めれば良い。自分の人生なのだから。

友人でも同僚でも家族でも同じである。唯一の例外は小さな子供だが、それは判断能力が不足しているというだけの合理的区別であって、それ以外は自由に自分の人生を決める権利があると思っている。

特に仕事場はそれが大事だと思ってる。仕事の間だけは業務のことを最優先に考えて動くという特殊な時間帯だけれども、プライベートの時間なんて誰がどこで何してようと勝手ちゃんである。もちろん私もね。

ただ、それって、それって、要は、人に関心を持つということを「放棄」している、いわゆるひとつの「事なかれ主義」なのと紙一重なのではないかと最近気づかされた。

私は母から少年時代より放任主義で育てられて来たので、完全にそれが染み付いている。そして厄介なことに、父はめんどくさい昭和の人間でいちいち私の行動に制約を加えてくる人だったり、不機嫌だといろいろグダグダ言う人だったので、私は無用な発言を避けようと同意形成第一の無難主義人間へと変わっていった。基本、会議の場などでも場の状況を見極めてから意見するようにして、出る杭は打たれないようにしている。そうしたスタイルを保持する自由も、母から与えられていたからである。素敵なビビリさんの誕生でもある。

そうなると、平穏無事な会議を創出し、日々当たり障りない人間関係を構築できるという利点はあるのだが、同時にウェットな関係性を放棄してしまう、主張が弱くなって言い負かされる、慎重になりすぎてどこにも踏み込めなくなるという欠点も生み出してしまっているようだ。

これは、ちょっと色々まずいことになっている。

ちなみに私は、プロジェクトマネージャー経験の一環として理論に則り、マイ・リスクリストを常に保持しているが、リスクは具現化してからではもはや遅いのであり、無難に解決するのは困難になる。

リスクは、予測し得ないところから突然発生するのがベースだ。即ち、リスクリスト作ってても「なんでそんなとっから来たのん!?」っていうのには太刀打ちできないしそういう場面が多いのである。いかんせん。

ウェットな関係性さえ作っておけば、ちょっと勇気を出しておけば防げたかも知れないのに、その情報収集をビビリだからできてないのである。

まさに紙一重。無難に行っているようであり、実は崩壊寸前なんてことも実態感値としてある。改善するしかないんだな。日々。凝り固まった考えだとダメなのだ。少年時代から培った性格は、そうそう変えられるもんじゃない。でも、そうも言ってられない。生き残るためには、紙一重を察知しながら、欠点を愚直に改善していくファーマーになるしか道はないのであろう。

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