「である」コミュニティと「する」コミュニティ
最近考えていることについて。
コミュニティの種類についてなんとなく考えたことを書く。なぜかというと、僕自身はこれからの社会でコミュニティの役割は一層重要になるという意見に対して賛同するのだが、どうもそのコミュニティそのものに対する考え方というか、役割というか、カテゴリーというか、互いに異なるものが“コミュニティ”の一言でまとめられてしまっている気がするからだ。
【既にこれから述べるようなことが一般論として既に流布していて、確立された概念になってるとしたら、ごめんなさい。僕はコミュニティ論の専門家ではないし、これまでこういったことには興味が無かったのでアンテナが鈍ってるのでしょう。これは学術論文ではないし、単なる個人的な思いつきをつらつらと書いているだけなので、その辺むしろ詳しい方はいろいろ教えてくださいまし。】
コミュニティの種類。タイトルにあるように、「であるコミュニティ」と「するコミュニティ」だ。(この分類は、言うまでもなく丸山眞男先生の『「である」ことと「する」こと』に依っている)
「『である』コミュニティ」
「である」コミュニティとは何か。それは、コミュニティの存在がメンバー同士の共通点などの属性(つまり〇〇である、という“状態”)に強く影響されており、例えば昔の大家族などは典型だ。血が繋がっていることがコミュニティメンバーの証であって、基本的に出産や婚姻、養子縁組以外にはメンバーの変化は無い。そのほか、学生のサークルや、趣味の集まりなどもこうしたコミュニティに含まれるものが多いと思う。
コミュニティの活動は、そのコミュニティであることが確認できることに限定されがちになる。
基本的にコミュニティ運営は安定したメンバーの関係で営まれて、計画も立てやすい。多分年間のスケジュールもだいたい決まっているということが多いだろう。
ただ、そうした安定性がある分不確実性や可能性といったモヤモヤとした部分が少なく、変化に乏しいとも言える。こうしたコミュニティは人間生活に欠かせない精神的な満足を与えてくれるものである一方、下で述べる「する」コミュニティが持つエネルギーは(プラスにもマイナスにも)相対的に小さい。
「『する』コミュニティ」
一方、「する」コミュニティとは何か。こちらはコミュニティがそのコミュニティであることではなく、そのコミュニティが達成するべきミッションのような目的があって、そのために活動する。各種ボランティア団体などは典型例だと思う。スタートアップの起業などもこれに当たるかもしれない。
「する」コミュニティのメンバーシップはメンバー同士の属性としての共通点ではなく、目的の共有で決まってくる。だからメンバー間の関係の中で共通の属性を持つ必要はない。
これは、場合によってはメンバー間のつながりを弱めることになる場合もあるし、目的の共有が出来なければうまく組織されない。でもその分変化に富んでいて、個人の自発性も活かされやすくなる。特に、全くバックボーンの異なる人たちのつながりは、マーク・グラノヴェッタが言う「弱い紐帯の強み(普段あまり関わりのない人との偶然の出会いは、よく関わる人たちよりも人間関係を豊かにしてくれる可能性が高いこと)」をもたらしてくれる。
トップの写真に貼り付けたgreenbirdもそんなコミュニティの一つだろうか。ゼミ生を連れて北九州に遠征に行った際に参加させてもらった活動だ。毎回の活動が同じメンバーで行われることはないだろうし、メンバー間の属性もバラバラだ。でも、共通の目的や理念があって、それに貢献する活動をするために集まる。多様なバックボーンの人たちが互いに刺激し合うことは、コミュニティとしてのメンバーシップの範囲を越えた影響を与える可能性を高める。
だからどうだと言うわけではないが
こんな感じで、コミュニティを超大雑把に二つに分類してみた。一般に「コミュニティ」という場合、(これは僕の肌感覚だが)前者のことイメージしている人が多い気がする。それはそれで全然構わないし、前者の方がなんかコミュニティっぽい。この分類自体は、まぁ何というか僕の思考整理のための便宜的なもので、これが正しいものでもないし、全部のコミュニティがきちんと分類可能なわけでもないと思う。要するに、だからどうだと言うものでもないのだ。
でも、コミュニティが重要!みたいな話の中に、なんだか「地域活性化」的なことが入ってくると、ちょっと厄介だなと思うことがある。
特に、行政主導で何かやろうって時には注意が必要だと思う。
何かを、とくにまちのような大きなものを何らかの形で活性化しようとするときには人も、金も、アイデアも、モチベーションも必要だ。でもそうしたエネルギーは「する」コミュニティからしか出てこないし、そして行政には「する」コミュニティは作れないし支援もきっとできない。
上でも述べたように、「する」コミュニティの特徴は「変化の可能性」にあって、これは行政が一番苦手な分野だ。年次計画を立てないと予算が組めないけど、事前計画に縛られてしまうと変化に乏しくなる。
またそういう変化に富んだコミュニティを行政で支援しようと思うと柔軟な人やお金の交流が必要になるけれど、それも上と同じ理由で難しい。
だから、「する」コミュニティは行政主導では作ることも支援することも難しいと思う。そうして、コミュニティまわりの話と地域活性化まわりの話が一緒になって行政サイドから出てくる時に(これは結構多いんじゃないだろうか)、「たぶん上手くいかない感」を感じてしまってちょっと萎えちゃうんだ。
木下斉さんがいろんなところで言っている補助金の害悪もこういうところにあるんだろうと思う。ここでの話に寄せて解釈するなら、「する」論理が貫徹すべきところに「である」論理が混ざると軋轢や不均衡が発生して上手くいかなくなる。みたいな。
別に「である」コミュニティを否定したいわけじゃない
こう書くと、「する」コミュニティは良いもので、「である」コミュニティは役に立たないと言いたい人だと思われるかもしれないが、当然そんなことはない。人間そんなに極端にはなれないものだ。
これは単なる分類の話だし、その分類に多少とも認めるべきところがあったとして、両者とも必要であって、ただ活躍すべき場面が異なるというだけの話だ。
「である」コミュニティは安定していて、メンバーシップにも共通点が多く、精神的なつながりや安心感を与えてくれる。人間生活には絶対に欠かせないものだ。
一方、「する」コミュニティは「である」コミュニティとは違ったタイプのエネルギーを持っていて、社会に「変化」を与えてくれる。前者がパワーを持つべき場面もあるし、後者が活躍すべき場面もある。
自分はどうなんだ?って言われたら、僕は現状と自分の目的に鑑みて、
「である」と「する」が両方生まれる母体コミュニティ作りをしたいな、と。
なんかもうこれまでの話はなんなんだ、という感じだが、イメージとしては、そこから「である」コミュニティも「する」コミュニティもどちらも生まれうるような、そういうコアを作りたいってこと。
それは、それ自体変化とエネルギーを持つことになるだろうから、「する」コミュニティかも知れない。
自分の本業は大学教員なんで、その気になればいろんな世代の人たちと出会うことが結構ある。もちろん学生とも繋がれる。これはちょっとした強みかも知れない。
そんなことを考えながら、常磐ラボという変態(「する」コミュニティが向いている人たち)が集まるサードプレイス作りをしている中で、コミュニティのことについて考え始め、ちょっとずつ自分の思想を彫琢する途中だ。
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まぁこんな感じで、北海道の真ん中旭川市でこういうことを考えている人の話にお付き合いいただきありがとうございました。
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