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クソの弁証法

あるものを見て、それがクソだと思うか意味のある何かだと思うか、それはその人の心持ち次第ってことがたまにある。

それが本当の、実物のクソだとしても、それを肥料として作物を育てたりしていたこともあるわけで、いつの時代の誰にとってもクソでしかないものというのは意外と少ないのかもしれない。

ある一日の出来事も、そんな感じだった。

その日は在宅勤務の日で、午前中からいろいろのタスクがToDoリストを埋めている。何をどの順番で消していこうか、その日の朝も考えながらタスクをこなす時間や行動予定などを頭の中でシミュレートしていた時だった。

「今日通院だったよね?」

出勤準備をしている妻からの一言。娘の通院日を1週間完全に勘違いしていた。てっきり翌週だと思っていたのになんということだ(しかも予約したのもあたしである笑)。

この「なんということだ」には二重の意味がある。娘を病院に連れて行くという家族の重要タスクを危うく忘れていた。なんということだ。

そしてもう一つ。あたしの一日はこの一言によって仕事その他の予定の大半をこなせなくなる進捗を生まない日になることが確定した。なんということだ。

もちろん日程を勘違いしていたあたしが悪いのだが、予定していたタスクがこなせなくなる精神的ダメージはとても大きい。仕事上の進捗を生まない日のことを私は「クソな日」と呼んでいる。この日はクソな日になった。

クソだろうとなんだろうと、とにかく病院には行かねばならないので、その後はいつもの通りの段取りで娘を病院に連れて行く。ToDoリストは一向にDoneしないまま時は流れていく。

予定していたタスクがこなせない辛さは、娘が生まれた瞬間から、家族が増えた喜びと同時に嫌というほど感じてきた。それは時として、この先ずっとこんなふうに多くを諦めながら生きねばならないのだろうかという深い深い絶望感の沼に自分を追い込むこともあった。

大袈裟に聞こえるかもしれない。たかだか一日タスクがこなせない程度のことでそんなにしんどいもんかよ、と。しかし、完全核家族で育児にフルコミットする人ならわかると思うが、その辛さは事実としてその日1日の予定が狂うことよりも、自分のコントロールが効かない事情で自分の予定が狂わされる日常がこの先も続くと思い込まされることによる切迫感、人生のコントロール権を剥奪されてしまうことの絶望感なのだ。

しかし、あたしのこうした絶望感からくる「なんということだ」は、実は自分の狭い視野、いや人生に対する考え方の狭量さからくるものであることが後に判明する。実際はそれの意味ある側面が見えていないだけなのだ。

以前に「人生という舞台の主役から降りる」という記事を書いた。

それまで「自分」を主語に語っていた人生。自分という主役を際立たせるためのストーリーが繰り広げられる舞台、それが「自分の人生」だ。しかしながら、家族、特に子供という親とは違う個人と共に生きることになった瞬間、自分の人生を生きることはままならなくなる。

そして、ままならなくなった自分の人生を取り戻そうとしてはいけない。なぜなら、もはや自分は人生の主役ではないからだ。人生の主役は「私」ではなく「私たち」となる。自分中心の人生の物語はそこで終わり、「私たち」の人生が新たに始まる。この気持ちの切り替えは本当に辛い。少なくともあたしにとっては非常に苦しかった。人生の主役を降りられるようになったなぁ、と感じるまで5年かかった。

でも、まだ舞台を降りきっていなかった。降りきっていないからこそ、こんな日を「クソな日」だと思ってしまうのだ。しかし、そうではなかった。ふとしたことで、あたしはクソの弁証法について考えさせられることになる。

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