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【思煙】狩猟採集の本能に抗い、私はあなたを満足させたい

欲求と満足は違うという話を書きたいです。

人間誰しも、今日1日を満足して過ごしたいはず。
それでも後悔が多いのも人の世の常。
どっちが正解か分からない状況で選択して後悔する分には仕方ないけど、あるあるなのが、「こんなの後悔するに決まってるんだよな」と分かっているのに止められない状況。

僕はシーシャ屋さんで働いています。
お店に来てくれたお客さんには、100%満足して帰ってほしい。
一方で、お店に足を運ぶためには「シーシャ吸いてーな」「あの変な店にまた行きてーな」という欲求が必要なのも事実。
問題なのは、満足に繋がらない欲求もあるということ。

欲求と満足にまつわる、深夜の独り言。


経済学で人の選択について考える

社会に出て早々に会社をドロップアウトし、シーシャ屋ばんびえんで働き始めて丸2年。それ以前は大学・大学院で経済学を専攻していました。

経済学っていうとお金の話って思われがちだけど、結構分野の裾野が広いというか、研究の範囲って広くて、僕は人や集団の意思決定過程が研究対象でした。
そのジャンルに詳しい人向けに書くと、分野で言えば実験経済学、特に公共財供給ゲームが専攻。

で、本題。欲求と満足は違うという話。
経済学の大前提として効用最大化というものがあります。
ものすごくラフに説明すると、「人間はいろんな制約がある中で、自分が一番ハッピーになるように選択してるはずだよねー」という仮定であり、現代経済学の出発点とも言える発想です。

経済学はこの仮定を基礎に理論を発展させ、消費者や企業の行動を数式で記述して社会で習うような需要供給曲線を導いたり、市場以外に分析対象を広げたり、はたまた「その仮定って本当に現実の人間を正しく描いてるの?」と自己批判したりしてきた歴史があります。

その自己批判の中で面白いものの1つが、「人間は進化の産物なんだから、人間が長い間暮らしてきた環境で最も生存と繁殖に有利な行動を取るようにできてるんじゃない?」というものです。適応度仮説と呼ばれたりします。

人間が長い間暮らしてきた環境とは、よく言われるのが狩猟採集社会です。
この仮説が正しいとすると、人間は現時点での最もハッピーになる選択ではなく、狩猟採集社会で最も生存と繁殖に有利になる選択をしがち、ということになります。
であれば、本当は別の選択をする方が最終的な満足はより大きいのに、狩猟採集社会で培われたDNAによって、別の選択をする欲求が生じうるはずです。

よく例に出されるのは、なぜ人間はダイエットに失敗するのかという話。
伝統的な経済学であり得る解釈の一つは、人間は自分の効用(=満足度)を最大化するはずなので、ダイエットに失敗するということは、その人にとって痩せることよりも目の前のスタバのフラペチーノを飲み干す方が実は幸せなのだというものです。
あるいは、ダイエットの成果が出るのには時間がかかるのに対して、フラペチーノを飲むことによる効用は飲んだその瞬間に発生します。将来の幸せより現在の幸せを大きく評価する、経済学風に言うと時間割引率が十分大きい場合、痩せることの割引現在価値が目の前のフラペチーノの価値を下回り、合理的に飲むことを選択する。とか。

一方で適応度仮説を取る立場からすると、少し違った解釈になります。
我々ホモ・サピエンスは40万年前から25万年前に出現したと考えられており、その歴史からすると現代のように食糧がありすぎて痩せるより太る方が簡単、という期間はごくわずかです。人類の歴史において、その大部分は狩猟採集の時代でした。

その時代にあって、フラペチーノのようにカロリーたっぷりのものを目の前にした時、どのような行動を取るのが最も生存に有利か?
答えは言わずもがな、脇目も振らずにがぶ飲みすることです。そう言う選択をとれる個体が子孫を残し、できない個体は淘汰される。
翻って現代、世界はカロリーに満ち満ちています。しかし、狩猟採集社会で有利だった、ハイカロリーなものは食べられる時に食べておく形質は進化の過程で保存され、現代社会で不適応を起こしている、というわけです。
ここに欲求と満足の不一致が発生します。

ショート動画の魔力

YouTubeのショート動画ってあるじゃないですか。
30秒〜1分くらいの動画で、下にスクロールすると無限に次の動画が続いてるあれ。TikTokとかInstagramのリール動画も同じ作りです。

あれ、なんとなく見始めていつの間にか1時間くらい時間が溶けてることありませんか。
僕はあります(悔しい)。

あれってまさに狩猟採集の本能に訴えかける作りだと思います。
どこかに獲物はいないか?どこかに美味しい木の実はないか?
栄養源にたどり着くために場所を転々として探し続ける人間の本能を真正面からハックされてる気がします。

で、1時間経った後に思うわけです。

「この1時間なんだったん…?」

ショート動画の怖いところは、視聴し始めるまでのハードルが異常に低い点。
2時間の映画、1冊の本。見終わるまで、読み終わるまでそこからどれだけの満足が得られるか分からない。
一方のショート動画は、1本あたりの時間が極端に短いので、ダメだったら次という動作が極めて簡単です。

「暇だけど映画1本観るのはちょっと重いから、とりあえずショートでも見るか…」

そして1時間半が経過。

「この1時間半あったらほぼ映画観れたやんけ…」

以下繰り返し。どうして。

僕は本が好きです。映画も結構好きです。
でも、仕事から帰ってきて疲れている状態だとなかなか本を開けないことも日常茶飯事。
そしてショート動画に手を伸ばし、1時間が経過し、「え、この間に本読めたじゃん」と虚無になる。

欲求と満足はイコールじゃないんです。
1時間本を読んで得られたはずの満足が、手軽に視聴できるショート動画を見たいという欲求に負けてしまう。
それによって得られる満足は、読書によって得られる満足を遥かに下回ると最初から分かっていたとしても。

僕はシーシャを通してあなたを満足させたい

シーシャって割と流行ってる文化だと思います。2025年現在。

それもこれも「シーシャ屋さんに行きたいな」というお客さんの欲求が存在しているからですが、なんで行きたくなるのか。

まだ吸ったことがない人にとってはなんだか目新しい娯楽に見えるシーシャ。
新しいものに触れたい、友達のストーリーに上がってた派手な煙が気になる、面白そうなものは採集したい、狩猟採集民としての本能。

シーシャ屋さんに来るという体験が人生1回きりなら、その欲求だけで商売は成立します。
大事なのはいかに欲求を生むか。シーシャというものを見てみたい、行ってみたい、そんな欲求を煽る刺激を発信する。
欲求が存在し、その欲求解消のためのハードル(お金や時間、物理的な距離など)がクリアされた時、その欲求を解消するために消費が行われ、シーシャ屋さんにお金が入る。

でも、それだけじゃダメなんだよな。

客単価数千円の商売、来店が続かなければ速攻で潰れる世界。
ライフタイムバリューを最大化するためにも、シーシャ屋さんという空間を形作る常連さんという住人を作るためにも、「来てもらえればそれでいーや」とはならない。
そもそもシーシャが好きで仕事をしている以上、自分が働いているお店にシーシャを吸いにきてくれたお客さんには、絶対に満足して帰ってほしいです。そうしないと僕は満足できない。
目の前のお客さんに「また来ますね」「今度は友達連れてきますね」と言ってもらうためにも、満足してもらわなきゃ意味がない。

バズってるものにはみんな興味を惹かれます。欲求を掻き立てられます。
多分だけど供給が需要を上回ってるシーシャ産業にあって、まずは知ってもらわないと話にならない。認知されるために一番手っ取り早いのは、現代においてはバズることだと思う。
シーシャに限らず、何かをSNSで発信したりするときに「伸びてほしいな」と思うのは当然だし、その気持ちの延長線上には炎上商法や、そこまで行かなくても人の気持ちをどこか煽るような発信も存在している。

でもいざそこに行ってみたら大事なのは、いかにそこで満足できるかだと思う。
バズはいらない。満足してほしい。
最初の来店には興味が必要だから、それを用意する仕掛けはもちろん必要です。でもそこは本質ではない。また来たくなるだけの満足がなければ意味はない。

SNSも、今書いてるような記事も、お店も、バズらなくていいから長く愛されてほしい。
注目を集めるようなコンテンツや発信は世に溢れているけれど、それは欲求を刺激しているにすぎない。大切なのは実際にそこを訪れた時、本当に必要としている人が満足できるかどうか。

狩猟採集の本能に抗い、私はあなたを満足させたい。


【シーシャ屋ばんびえん】
高田馬場と中野に計3店舗を構えるシーシャカフェ。
毎日14:00-24:00で営業。

【つー@ばんびえん / Daiki Tsukamoto】
シーシャ屋ばんびえんスタッフ。
「知って楽しい、真似して便利」をコンセプトとした #シーシャ雑学 をTwitterで発信中。最近パパになった。

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