【思煙】目的が支配する現代で、シーシャを吸う意味を考える
シーシャ。中東由来の水タバコ。
フレーバーと呼ばれる香り付けされたタバコ葉を炭で加熱し、味と香りを楽しむ喫煙具である。
シーシャを吸ったからといって、カロリーが摂取できるわけでもないし、消化酵素で分解されて血肉になるわけでもない。ニコチンを含む歴としたタバコである以上、むしろ人体には有害である。
それでもシーシャは、少なくない人々を魅了し、その提供を生業に選ぶような奇特な人まで現れる。
「人はなぜシーシャを吸うのか?」
筆者自身、シーシャを嗜むようになって4年が経った。改めてこの問いに取り組もうと思う。
タイパ至上主義、どこ吹く風
シーシャを吸ってもなんのカロリーも摂取できないことは先に述べた。シーシャを吸っても腹が減る。
言ってしまえば、シーシャを吸うという行為は、人が生命活動を維持する上で何の必要性もない。
古来、タバコの原産地であるアメリカ大陸において、ネイティブ・アメリカンにとって喫煙は神との交信という儀式だった。翻って21世紀の日本、シーシャにそのような霊的な要素を見出す人もまた皆無だろう。
腹も満たされない、神とも繋がれない。究極の無駄行為、シーシャ。
2023年、シーシャブームが来ている、らしい。東京都内の主要駅近辺であれば、たいてい複数軒のシーシャ屋がある。
一方で現代は、タイパの時代とも言われる。タイム・パフォーマンスの略で、単位時間あたりに得られる価値の最大化を追求する風潮のことである。Netflixでの倍速視聴、視聴前のネタバレサイトの閲覧。お値段以上の価値を追求するコスパに対し、お時間以上の価値を追求するのがタイパ、というわけだ。
5分程度で吸い終わる紙巻きタバコに対し、シーシャはざっくり2時間程度吸える。2時間かけてシーシャを吸い、得られるカロリーや栄養は0。タイパの時代に流行るシーシャ、これいかに。
目的という呪縛
タイパという言葉が生まれる以前から、それに通じる風潮はあったように思う。
「それ何の意味があるの?」
「それって何に役立つの?」
どの質問も、シーシャを吸うという行為に対して聞かれると答えに窮してしまう。
「うるせェ!!!吸おう!!!!」と答えさせてはもらえないものか。
あらゆる目的も究極的には当人の快楽に辿り着く。仕事も、食事も、睡眠も、趣味も。ある人が資格の勉強をしていたとして、その目的として職場でのスキルアップを挙げたとしよう。ではなぜスキルアップしたいのか。仕事の幅を増やしたいから、質を高めたいから、給料を上げたいから。様々な回答があり得るだろうが、それらも最終的には快楽に帰結する。
というわけで、シーシャを吸うことで快楽を得られるならそれでいいではないか、という結論を出したいのだが、それだとあまりにも味気ない気もする。
ここは一つ、いわゆる「目的」が呪縛になりうる、という話をしたい。
目的に基づく行為には、常に期待や予測が伴う。この行為によって、目的につながるこんな効果が得られるだろう、という期待である。これ自体は何ら悪いことではない。あるべき状態を設定し、現状とのギャップを埋めるための施策を打つ。仕事でも趣味でも必要な思考様式である。
一方でこの思考は、予測を超える事態と遭遇する可能性を減じてしまったり、そもそも結果が予想しにくい行為から遠ざけてしまうリスクがある。
「それ何の意味があるの?」
「それって何に役立つの?」
この質問にすぐに回答できない行為は、全て選択肢から除外されてしまうとしたら。
その人の取りうる行為は随分狭量なものになってしまうだろう。
人生に大きな影響をもたらす出来事というのは、得てして偶発的なものが多いように思う。ある人との偶然の出会い、ある本との偶然の出会い、ある場所との偶然の出会い。それら1つひとつはとても小さなもので、本人ですら明確に自覚していないかもしれない。
就職活動の志望動機で語られるような、1つの分かりやすくて明確なエピソードというよりも、ささやかで幾重にも折り重なった多数の偶然。人の人生というのは、工作機械で削り出された製品よりも、雨や川の流れで何十年もかけて削られていく岩に似ている。
閑話休題。
シーシャ、というよりシーシャをハブにしたシーシャ屋という空間は、安心感と偶発性が同居している。常連という仮固定された存在と、日々訪れる初めてのお客さん。店に訪れる顔ぶれは、変わり映えがしないように見えて、少しずつ入れ替わっていく。
気心のわかる友人、最近よく居合わせる顔見知り、初めて出会う人々。職場や学校では出会わなかったであろう人々。それらを結びつけるのは、シーシャが好きというただそれだけ。
そこでの出会いは思いがけないものになるだろう。自分が想像したこともないキャリアを築いてきた人との出会い。大学進学と同時に上京してきた同郷同士の出会い。自分の世界を広げてくれるような出会い。
シーシャ屋という居場所での出会いなど、どうやったら予想できるだろう。強制力を伴わない、ただシーシャを囲んで同じ空間を共有する、緩やかな連帯。気が合えば繋がる、合わなければそれまで。様々な人生が交錯し、安心感と偶発性が同居するシーシャ屋という居場所。
シーシャ屋を訪れるのに、明確な目的など持ちようがない。だからと言って無駄と切り捨てるのは尚早だ。「何となく何かが起こるのではないか」という、予想と呼ぶにはあまりに漠然とした期待を胸に、今日も私はシーシャ屋を訪れる。扉を開くと、常連同士がボードゲームに興じる傍らで、初めて来たであろう男女が店員と喋っていた。
【シーシャ屋ばんびえん】
高田馬場と中野に計3店舗を構えるシーシャカフェ。
毎日14:00-24:00で営業。
【つー@ばんびえん / Daiki Tsukamoto】
シーシャ屋ばんびえんスタッフ。
「知って楽しい、真似して便利」をコンセプトとした #シーシャ雑学 をTwitterで発信中。
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