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ぶどうの木 20
藤林邦夫の3分メッセージ(『生きる楽しみ』1991年版、pp.28-29。)
果物の中でも「ぶどう」は好物の1つです。特に房の大きい「巨峰」は美味しいですね。
「ぶどう」の話は、聖書にはよく出てきます。
イスラエルは、神の植えられた「ぶどうの木」で、神はこれを大切に育てられたのに、野生のぶどうのように酸っぱいものでしかなかったのです。イスラエル民族の背信を、神は悲しまれました。期待外れは寂しいですね。
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イエスはご自分を
「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」
と言われました。
クリスチャン(神の子・キリスト者)というのは、キリストの枝なのです。キリストというぶどうの木に、つながっているだけで良いのです。自然に樹液が流れ、実が結ばれます。
努力は要りません。
ただつながり続けることです。そこにキリストの命が流れてくるのです。
では、この樹液、命とは何でしょうか?
「人がその友のために命を捨てる。これよりも大きな愛はない」
愛こそ、キリストの樹液、命です。
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その人が神の子・キリスト者であるか、どうかは、何で計れるでしょうか。
それは、洗礼を受けているかどうかということは、勿論ですが、何よりもその人が「愛に生きているかどうか」が、最も問われるのです。
どんな時でも、自分の都合ではなく、神の御心を大切に思い、人々のために生きている人こそ、本当のクリスチャン、神の子・キリスト者です。
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枯れ木、枯れ枝のような人もいます。
残念ですが、「棄てられて焼かれる」とキリストは言われました。
命の流れている枝、実を結ぶ枝でありたく、主よ、と祈ります。
<著者紹介>
藤林邦夫 1935年(昭和10年)生まれ。日本純信聖書学院自主退学、京都福音教会で、35年牧師として従事。ホザナ園園長も務めた。1992年2月26日、56歳で召天。この一連のエッセイは、亡くなる直前に、4年間にわたり3分間のテレフォン・メッセージとして書き溜めたもの。
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