ダグラス・サークの『世界の涯てに』と『南の誘惑』において見られるメロドラマ的時間・空間について

ダグラス・サークのフィルモグラフィに通底しているのは過剰ともいえるファミリー・メロドラマ的要素である。まず、ファミリー・メロドラマの定義とは何か。
 トマス・エルセサーは『響きと怒りの物語』で次のような諸要素について注目している。

 ・照明、構図、色彩、舞台装置のスペクタクルの重要性
「最良のメロドラマにおいては舞台装置、色彩、身ぶり、フレームの構図は、登場人物の感
情的、心理的苦境を通して完璧に主題化されているのである。」(24)
・妥協を知らない感情のエネルギー
・プロットの連続性をかき乱す感情の壊滅的衝突(32-34)
・苦しみに対して受け身で、直接的に行動して問題を解決する力を欠く、弱い登場人物
(28)
(Thomas Elsaesser, Tales of Sound and Fury: Observations on the Family Melodrama ※「映画特講V」 第2回講義スライドNo.2より引用)

 このようにファミリー・メロドラマを構成する要素は様々である。
 
 サークのフィルモグラフィの中でも、とりわけ1937年にドイツで撮られた監督名がデトレフ・ジールク表記の『世界の涯てに』と『南の誘惑』では、その後亡命し、メロドラマ映画を量産するサークの作家性が存分に凝縮されている。サークの作品が論じられる時、もっぱら論じられるのは『風と共に散る』や『悲しみは空の彼方に』といった亡命後の作品であるが、今一度、サークの作品群を省みてみると、メロドラマ的要素や、メロドラマ的な時間・空間の背景、そして、サークの作家性が、浮き彫りになるのは、『世界の涯てに』と『南の誘惑』である。そんなサークのメロドラマ的な要素を多く持った『世界の涯てに』と『南の誘惑』におけるメロドラマ的時間・空間、さらにサーク自身の作家性とは何かについて検証していきたい。

 『世界の涯てに』と『南の誘惑』は物語は違えども、共通するのはツァラ・レアンダーという女優を起用している点である。さらに、ツァラ・レアンダーはこの『世界の涯てに』と『南の誘惑』において、「歌」を披露するのである。「歌」を披露する動機やシチュエーションは違う。『世界の涯てに』では裁判のシーンの前後で「歌」が披露される。これに対して、『南の誘惑』では自分の息子のために「歌」を歌うのである。この「歌」の場面について、  
サークはサークのインタヴュー集『サーク・オン・サーク』で、次のように語っている。

「ええ、ブレヒト的ですよ。いや、ヴァイル的と言ったほうがいい。ヴァイルとブレヒトとの共作では、ヴァイルのほうがずっと重要な存在でしたからね。今では信じられないかもしれませんが、当時のドイツでは、ヴァイルのほうがブレヒトより有名だった。とにかく 『世界の涯てに』と『南の誘惑』の二作で、わたしがヴァイルとブレヒトを参考にしたことはたしかです」(サーク、ハリデイ 90,91)

つまり、ブレヒト(劇作家)とヴァイル(作曲家)という『三文オペラ』などの二人の共同作業で知られる作品を参考にしている。いわゆるブレヒト的といえる「異化効果」と、当時、ドイツで影響力のあったヴァイル的な「音楽」の結びつきを、この『世界の涯てに』と『南の誘惑』において取り入れているのだ。

また、同書籍、ダグラス・サークのインタヴュー集『サーク・オン・サーク』で、次のようにも語っている。

「ええ、メロドラマというのは、本来ドラマ+音楽のことなんです。わたしがツァラ・レアンダー映画(『世界の涯てに』と『南の誘惑』)でやった音楽とドラマのミックスは、まったく新しいものだったんですよ」(サーク、ハリデイ 88,89)

このようにサークが『世界の涯てに』と『南の誘惑』で行った音楽とドラマのミックスは
サーク自身にとって新たな試みであり、そして、同時にサーク自身の転換点でもあるのだ。

『世界の涯てに』と『南の誘惑』ではツァラ・レアンダーの歌唱やその他の演出により、時間・空間ともに映画は大きな変貌を遂げる。それはメロドラマ的時間・空間の変貌である。『世界の涯てに』におけるツァラ・レアンダーは前半に出てきた歌を再度歌う。つまり、歌唱が繰り返されるのである。その時に、愛する人と目線が邂逅する。「待っているけれど、あなたはこない」という歌詞でエモーションは高まる。まるで二人が初めて出会った時のことを思い出すかのようにメロドラマ的に時間は遡るのだ。しかし、次のシーンで愛する人がツァラ・レアンダーの楽屋を訪ねる時、ツァラ・レアンダーは次のように言う。「もう、あなたは愛していないのよ」この裏切りのエモーションに我々観客は不意を突かれる。『世界の涯てに』は空間においても、裏切りがある。それは突然起こるアクションやコミカルな描写である。シリアスなムードのシーンに突拍子もないコミカルな台詞、過激なアクションが割り込んでくるのだ。すると、重い空間は突然軽さを帯びる。よって、軽いメロドラマ的空間に変貌するのである。メロドラマとしては一貫している。そして『南の誘惑』でも同様に歌唱のシーンがある。旅立ちの日に雪降る故郷の歌を歌うのである。さらに、物語の終盤、パーティーのシーンがある。そこでは歌唱というよりは熱唱するシーンがある。その熱唱によって絶えず刻まれていた記憶が蘇る。歌唱と熱唱の対比により、言い換えるならば、メロドラマ的に時間が蘇るのである。

つまり、ダグラス・サークはメロドラマという文脈を用いて、優れた演出の手腕を発揮し、メロドラマ的時間・空間を柔軟に変貌させることに成功しているのだ。

 最後に、ダグラス・サークの作家性について、サークはメロドラマの巨匠として今現在、映画史においてその名を刻んでいる。世界中の映画作家がリスペクトしているし、多大なる影響を与えている。今でこそ、このような、いわゆる偉大な良質なメロドラマを撮った映画作家の一人として数えられ、メロドラマというフレーズを聞けば、真っ先にダグラス・サークの名前を思い浮かべるだろう。そんなメロドラマ映画作家ダグラス・サークの原点ともいえるのが、冒頭で挙げた『世界の涯てに』と『南の誘惑』なのだ。この二作で行った「歌唱」に対するアプローチをはじめとする独自の演出によって、サークは、作家サークとなったのだ。そして、メロドラマ的時間・空間を鋭い批評精神と類稀なる演出により自由自在に変貌させることができるのがサークの最も評価すべき作家性だろう。



【参考文献一覧】
ダグラス・サーク、ジョン・ハリデイ『サーク・オン・サーク』明石政紀訳INFAASパブリケーションズ、2006年(Sirk on Sirk :Conversations with Jon Halliday by Douglas Sirk and Jon Halliday,1971)

【視聴覚資料】
『世界の涯てに』Zu neuen Ufern(長編劇映画)、監督: デトレフ・ジールク(ダグラス・サーク)、ウーファ、ドイツ、1937 年、95 分
『南の誘惑』La Habanera(長編劇映画)、監督デトレフ・ジールク(ダグラス・サーク)、ウーファ、ドイツ、1937 年、98分


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