「西京都構想」のすすめ
橋下徹氏が構想し、吉村大阪府知事と松井大阪市長が継続進行させている大阪都構想は大阪府と大阪市の二重行政を解消することを主な目的とする構想である。
これに関して、そもそも大阪市の権限が大阪府へ吸い上げられることのデメリットが指摘されている。
それはさておき、わが国の歴史上、「都」とは「天皇のまします処」であるから、大阪を都とすることは我が国の国体として許されない。これを言語学的に説明しよう。
「みやこ(都/京)」に関して、まず「や(家/屋)」がある。これは我々国民一般の「家(いえ)」のことである。それに尊敬語の「み」がつけられることによって「みや(御屋/御家/宮)」となり、天皇がお住いのお家という意味となる。
現代ではよく「お宮」というが、これは漢字で表せば「御(お)御(み)家(や)」であって、実は尊敬語が重複しているのである。さしずめ「おお茶」・「おお水」と言っているようなものであって、本来「お宮」の「お」は不要なのである。同様に「おみくじ(お御籤)」も「みくじ(御籤)」でよいわけだ。
「みやこ(都/京)」の「こ」は、「どこ・ここ・そこ」の「こ(処)」であり、場所の意味である。従って、「みやこ」を意味に即して漢字で表せば「御(み)家(や)処(こ)」となるのであり、「天皇のお住まいのある処」ということになるのである。故に、平城京(みやこ)の中に平城宮(みや)があり、平安京(みやこ)の中に平安宮(みや)があるのである。
その宮は、『秀真伝』には日高見宮・原見宮・朝日宮・伊佐宮など数多くの宮が登場する。時代は下って奈良時代の聖武天皇の御世に、平城京→恭仁京→紫香楽宮(しがらきのみや)へと目まぐるしく新都・遷都がなされ、最終的には、元からあった難波宮と平城京の二都に収まった(これを「複都制」という)。桓武天皇の御世、複都制を改めて長岡京の単都制へと戻した。長岡京は不幸にも遷都の十年後、長岡京を流れる川の氾濫によって左京が水浸しになるという水害に見舞われ、桓武天皇は更なる遷都を余儀なくされる。それが平安京である。結局、その判断は正しかったのであり、平安京は以後明治維新までの千年間、わが国の都となる。
ちなみに長岡京から平安京への遷都が早良親王の祟りを避けるためであったと言う者が今でもいるが、それは平安京への遷都後に出た話であり、実際は水害が原因であったことは数十年前の論文ですでに解決されている。
明治天皇の御世、平安京から東京へ奠都された。つまり京都は都のまま、新たに東京を都としたのであって遷都ではないのである。この時わが国は聖武天皇以来の複都制となったのであり、その状態が今日まで続いているのである。「東京」とは「京都の東にある都」ということである。実際、京都には現在でも天皇のお住まいである御所(宮)がある。
以上から知られる通り、大阪都構想は大阪府に天皇のお住まい(宮・皇居)が不在であるから成り立たないし、あってはならない。
しかし、もしその都構想を御所のある京都を含め、なおかつ神戸など関西圏一帯に拡大した「西京都構想」であるならば、筆者はその構想を支持したい。上に見たように、都は一つでなければならないというわけではないし(実際現在は京都と東京の複都である)、東京への一極集中は安全保障上、危険であることは言を俟たない。大地震などの災害で機能がマヒしてしまうのを避ける、地方の活性化、などの目的から「西京都構想」はありだと考える。