ダイエーさんと酒

私は、不真面目な学生だった。
ろくすっぽ勉強もせず、ダラダラと講義を寝過ごしては自転車旅行の夢想ばかりしていた。
そんな私にも、恩師と呼べる先生がいた。
夜六時過ぎからの遅めの講義をやられていたK先生である。
K先生の講義は参加人数も少なく、インタラクティブで楽しかったし、何より良かったのは講義後に食事に連れて行ってくださったことだ。
生意気で無教養な私に、K先生が与えてくれたものは計り知れない。
そんなK先生に頂いたものの中に、タイの少数民族の実業家との出会いがある。

ダイエーさん

その名をダイエーさんと言う。
中国雲南省にルーツをもつ少数民族ラフ族の方である。ダイエーさんの父は国共内戦で共産党と戦い敗れ、ミャンマーからタイへとラフ族を率いてきたリーダーである。
そんな父の名前を冠するタイ北部ローチョ村の山岳地帯で、植林と農業をミックスした農法を用い、山林を再生しつつコーヒーなどの商品作物を作り、フェアトレードで販売するビジネスをやっていた人だ。
ダイエーさんは、農業と社会教育に長けたK先生を頼って来日し、日本で農業を学んだ。
国籍もない少数民族の人が、タイで国籍を取得し、日本に勉強に来る、、、その覚悟たるや壮絶なものがあることを禁じ得ない。
ここまで書くと、ダイエーさんが、さぞ立派な大人物のように思えてくるだろうが、実際に会うと印象は違う。
面倒見がよく、太っちょなおっさんで酒が好き。そんな感じである。
私がダイエーさんに初めて会ったのは2013年の春。そして、最後に会ったのは2023年の今頃だ。
最後に会ったのは、来日して日本各地を北タイの農家の方と廻っておられる最中だった。
そして、最後に会った数日後に、ダイエーさんは日本で亡くなってしまった。突然のことだった。
そんなダイエーさんの死から1年たった今、ダイエーさんと飲んだ酒の思い出をここに綴ろうと思う。

チェンマイのシンハービール2013

2013年の春、私はK先生の催す北タイでのダイエーさんの農業を見学するスタディツアーに参加し、ダイエーさんに初めて会った。

チェンマイの空港から乗合バスで市街地に入り、宿に荷物を置くと、夜市のレストラン街へと向かった。
そこでダイエーさんと合流して、豪華なウェルカムパーティーをした。
タイに来たのだからとシンハービールを飲む我々に、ダイエーさんはハイネケンを勧めた。
「Heinekenもありますよ!」
あとからK先生から聞いたが、ハイネケンは贅沢なビールという括りらしい。
ダイエーさんのもてなしの気持ちだったのかなと思う。

皆呑むのはシンハービール


ホイナムクンの密造酒2013

K先生のスタディツアーで、私は数日間ダイエーさんの地元である北タイのローチョ村というところに滞在した。
山岳地帯の尾根にある村で、未舗装かつインフラも弱い村だった。
そんな村では農業の現場を見学したり、古着のバザーを催したりしたのだが、正直何より楽しみだったのは食事と酒だ。
とりわけスペシャルだったのは、中華系移民の村で作られる泡盛系の密造酒だ。
ローチョ村から自動車で山を下り、谷間の村で買付をする。
軒先には違法賭博に興じる若者の屯する雑貨屋でなにやら注文すると、ミネラルウォーターのペットボトルに入れられた密造酒が出てくる。何とも雰囲気のあるやり取りだ。
それをローチョ村に持ち帰って、一汁一菜の夕食後に小屋の中で車座になってみんなで飲むのだ。
米の香ばしいかおりが気持ちよく、みんなホクホクした。
そんな気分でダイエーさんにラフ族の昔話をたくさん聞かせてもらった。
雲南省から国共内戦に負けてビルマに逃げ延びたダイエーさんの父の話、ビルマでの迫害とタイへの逃避行や、山での暮らし。20代前半、大学生の私には途方もない話で、心がふわふわとした。
ある晩飲んだ密造酒はやたら薄く、K先生が「薄められてるよ!水混ぜられたんだよ!」とダイエーさんに文句を言っていたことも思い出される。

密造酒を飲み、鉄砲を撃つジェスチャーをするダイエーさん


滞在中に見た旧正月の催し
ラフ族とアカ族の共演

メタムのチャーンビール2017

スタディツアーの後、ダイエーさんと再び会うのには期間が開く。
国内で展開するサイクリングの閉塞感に苛まれていた2017年の春、私は学生時代に行ったローチョ村に自転車で訪れることを思いついたのだ。
K先生を頼って私はダイエーさんに連絡をとり、自転車で村を訪問する計画を伝えたところ、ダイエーさんは、山中のローチョ村への登り口であるメタム町の農場への宿泊と、村での宿泊先を手配してくれた。
チェンマイから北におよそ何十キロか走ったメタム町に立ち寄ったのはツーリング初日だった。
40度近い猛暑にやられて熱中症気見の私をダイエーさんは農場で待っていてくれた。
夕食には、にんにく系の調味料の効いた青菜炒め、ごはん、おつまみ、そしてチャーンビールを出してくれた。
トッケイヤモリの鳴く夜、白いコンクリ造りの農場オフィスで、土間に並べた食器とチャーンビール、ラフ族の昔話や明くる日走るであろうローチョ村への道順などを話した。
もう何年も前のことで正直話のディテールは憶えていないが、ダイエーさんの声は独特の高さがあって、トッケイヤモリと似た響きがあるのを思い出す。
翌日私は、喘ぐような酷暑と猛烈な斜度の山岳道路を登って、ローチョ村に辿り着いた。

メタムの農場で
自転車で村まで行くという客人は初めてだったらしい


ローチョ村
標高の高い尾根にある

浦和の日本酒とスーパードライ2023

タイでの再会の後、ダイエーさんからは節目節目でメッセージをいただいていた。
決まってクリスマスには「Merry Christmas please come to thailand again」とメッセージをくれた。
ローチョ村のラフ族の人はクリスチャンが多いので、たぶんクリスマスを大切にしているんだろう。
そんな感じのことが続いていくうちに、時代はコロナ禍を迎え、数年が過ぎた2023年、ダイエーさんから久しぶりに連絡が来た。
ラフ族の農家と日本に来るとのことだったが、今を逃してはいけないと思い、私はぜひ会いたいと連絡を返した。
すると、ダイエーさんは埼玉の滞在先のホストの方の連絡先と、訪問していい日を教えてくた。
そして、2023年の10月10日 これまた久しぶりにダイエーさんに会った。その場にはK先生はじめダイエーさんゆかりの人々も集まっていた。
ラフ族の人が作ってくださった料理、ビール、そしてK先生が持ってきたであろう日本酒を飲んだ。K先生と酒を飲むのも久しぶりだったので、これまた楽しかった。
しかし、このときダイエーさんは酒を飲んでいなかった。体調の問題なのか、お酒は控えているようだった。
集まった面々は、私よりもずーっとダイエーさんと顔なじみの方々だったが、ダイエーさんは「ローチョに自転車で来た人間だ!」と紹介してくださりすぐに打ち解けることができた。
このとき、私は近い内に子供が産まれるという時期だった、そのことをダイエーさんに報告できたのがとても嬉しく、ダイエーさんも喜んでくれ、来てよかったなーとほっこりして帰ることができた。
私と数人の人たちで連れ立って帰るとき、ダイエーさんが見送りに出てきて「またローチョ村に来てね!今度は親子で!」と言ってくれた時のことは今でも目に浮かぶ。

トムヤムクンとスーパードライ

ダイエーさんが、亡くなったのはそれから1週間も経たずしてだった。
Facebookのダイエーさんのタイムラインに遺影らしい画像と、ラフ族の言葉が書き込まれていた。
最初は悪い冗談だと思ったが、どうやら本当に亡くなったという知らせを受けたときは、ひどくショックを受けた。
ダイエーさんの葬儀は日本で行われ、骨になってローチョ村に帰られた。

数えるほどしか会った事がないのに、不思議な親近感を抱いてしまう、そんな魅力のある人だったと思う。
会いたい人には、会える時に会ったほうがいい。つくづく思った。

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