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こだわりの是非

数ヶ月前、久々に会った歳下の友人に、インスタの文章が長いと言われ(その旨は以下の記事にも書いた)、自覚はあったものの、それでも書くということにこだわりたい思いが強かったからなんだけど、それに対して、「こだわりなんでしょ」と言われ、ハッとさせられたんよねぇ。

もちろん、今も読み書きの重要性は思うところではあるけど、画像/映像のSNSで長文を書くというこだわりは、自己満足を超えた、鬱陶しさになってたってことだろうし、それとは別に、インスタでなかったとしても、こだわるということ自体が、柔軟性の欠如だとの指摘だったと思ってる。

失ってはならないもの、守り伝えていく必要を思うものはあれど、時代が変わっていくことに抗いこだわりとなってしまうと、新陳代謝が滞り、結局は伝わらないのかもしれない。
伝えることが目的であるんだとしたら、その手段を変えていく必要があるんだろうね。

若者文化に迎合する訳ではなく、テクノロジーの進化を受け入れ活用することは、加齢する程に難しくなるけど、それを諦めると、どんどん取り残されるんだろうから、都度、理解対応していく努力はしていこうと思ってる。

こうあるべき、という思いの強さは、結局は自分を苦しめることになる。
その正当性を過去の思想に見出そうとしても、思想も進化する。

やっぱり自由でいたい。

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