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死にたかったんだ、本当は 2 (全8回)

僕がADHDだとの診断を受けたのは、四十歳を過ぎてからだったのだけれど、後から思えば、きっと生まれつきだったんだろうなと思っている。
国語と算数の極端な偏りも、気になったものへの傾倒の極端さ、そこへの過集中が酷くって、全財産って言っても学生風情のたかがしれた額でしかなかったけれど、それでも生活費どうするんだろ?なんてことは考えずに、全てレコードに費やしてしまって、やっちまった…なんてことはしょっちゅうで、小説や映画にハマってしまったら、三日三晩、寝食も煩わしい程に、読み観続けてしまって、下着と靴下の色が合っていないと機嫌が悪くなって、水平と垂直から1mmでもズレて置かれている物が気持ち悪くって、でもそれが僕の日常で僕の普通だったんだ。
仲良くなる子たちは、似たような傾向を持っていたから、僕たちなりの普通が共有出来ていて、だから僕は僕の世界を具現化させたカフェをオープンしようと、二十六歳で始めることにしたんだ。その年齢が、どういう位置付けになるのかはわからないけれど、僕の世界を好きだと思ってもらえた、小説家さんや、脚本家さんや、俳優さんや、ミュージシャンの方や、美容師さんなんかに支持してもらえたことで、いろんな雑誌に取り上げてもらえたところ、そうなると、僕の世界を否定する人たちが現れ出して、それでようやく僕は、僕の世界と世間の捉える世界とがなんかズレているんだと気付かされることになったんだ。
でも。僕は世間の普通の世界を否定はしないよ?なのになんで僕の世界は否定されちゃうんだろう…って思いながら、そのズレの原因を、小説以外の書物の中にありそうに思い、そこに答えを求め出したんだ。
小説という、心の機微や情景の描写を、言葉を通して映像化させる術は、作家によって違っていて、また、行間にある、言葉なきところにある含みをも読ませる力に魅力を感じていたけれど、僕のズレを確かめるために読み出した書物の言葉たちは厳密で、例えば、「やりたいと思っているということは、出来ないと信じているからです」なんて言い切りに、何故なんだ…?とサッパリその脈絡が理解出来なくて、なんだかイライラする~と、それ系の書物をいろいろ読んでいくうちに、僕には、数学的論理というものが欠如してたんだと、じゃぁそれを理解し、駆使できるようになってやると、全然使っていなかった脳の部位を覚醒させるべく、一旦カフェは閉店して、山の中に引き篭もって、三年間、徹底的に、数学の勉強をした結果、僕の世界と世間の世界が、言葉を通しては繋がるようになったんだ。国語が算数に裏付けられるだなんて、変な話だと思ったけれど、実際そうなのだから、不思議だなって思いながらも、僕の書く文章が、明らかに変わったのも確かで、その頃から、雑誌で連載をさせてもらえる機会を得て、言葉は書物的厳密さを持たせつつ、内容は小説的情緒を描くようなエッセイを書かせてもらったことで、再び書くことに少し自信を取り戻せたんだ。

それでも、所詮は、八百-二千文字程度のエッセイでしかなくて、しかも、編集者さんから与えてもらったテーマに沿って書いていただけで、僕自身がプロットを考えるとか、物語的構想力はやっぱり持ち合わせてはいないんだとはわかっていて、それは、インテリアはどうとでも出来るけれど、いざ建築となると、どう考えてもいいのかわからない…ということに同じだと思ったからなんだ。
そして、数学的論理を得たことで言葉の選び方、その配列やリズムが変わったんであるなら、インテリアに於いても、オブジェクトのそれも同様に捉えれば、最初に始めたカフェとはまた違ったものが創れるんじゃないかと、改めて空間表現をしてみたくなって、同時に、空間を扱うのなら、相対性理論的には時間との密接な関わりも意識せざるを得ないと思い、空間の内外で時間感覚が変わるという、時計時間からの解放を促すための装置、を考えて形にしてみたんだ。
そしたら、「なんか教会や寺院のような荘厳さと静寂さを感じる」だとか、「時間の感覚がわからなくなる」って言ってもらえて、ちゃんと伝わるんだ!と、創った本人が一番驚いたんだけど、そんな中、あるスタイリストさんが、「この店はあれね、この灰皿をどこに置いたかではなくて、この灰皿がどこに置かれたいかの視点があるわよね」と、仰って、本当に驚いて、実際、物の声なんて聞こえやしないけど、でも聴いてみようと、君、どこに置かれたい?なんて思いながらブラブラしてると、あ!ここなのねってちゃんと教えてくれるんだよね。あーこのスタイリストさんも同じことされてるんだって思ったら、凄く嬉しくて。その方とはそれっきりなのだけれど、それでいいんだよね。充分過ぎるくらい、その一瞬で内的交換は終わったんだ。
そして、利休は何故、もてなすための空間を、より小さくしていったんだろうと思い、僕もより狭い空間で、緊張と弛緩という、真逆の状態の同時存在を具現化させられるんじゃないかと、また新たな空間を創ったんだ。物理的矛盾が即ち精神的矛盾とは限らず、というよりは、そもそも精神的矛盾なんか存在し得ず、ただそれを言語化するに際して、矛盾をきたすに過ぎない、と僕は思っている。

つづく。

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