【♯4】 写真の場所性と記念碑性についての考察及び歴史伝承への応用━ 【第2章 写真の場所性】 -1
第2章 写真の場所性
第一章で触れた写真が持つ過去とのつながりの過程と、過去とのつながりによって得られる写真の深みの正体を考察したところで、この論文の本題に入ることにする。
写真とは時間の流れから瞬間を切り取るものであり、動から静を生み出すものでもある。しかし我々はしばしば完全な静止画であるはずの写真から、その写真の中に存在する大小の時間の流れを体感として感じることがある。それは「静から動を生む」こと、つまり、写真術それ自体の機能である「動から静を生む」ことの逆転の現象が起きることがあるのだ。それは構図や的確なカメラ操作など撮影者の技巧による影響ももちろんあるが、「写真から時間を感じる」ことの主な要因は、第1章で考察した時間と写真術の深い関係から生み出される写真特有の効果なのではないかと考える。
私がこの章で提示したいのは、写真術が機能的にはらむ「写真の場所性」と言う性質だ。簡単に言うとすればこの性質は、“写真術が、ある写真における「場所」を強調する”という性質である。正確には、時間の知覚方法の転換が起こることによって場所そのものと、その場所に流れた時が強調される性質である。したがってこの性質には時間の概念が大きく関わることになる。では順を追って説明していく。
2 - 1 写真の場所性とは
2 - 1 - 1 撮影による時間との切り離し
我々が見ることのできるこの世界のあらゆる事象は絶えず生成や消滅を繰り返し、一瞬たりとも同じ姿でいることはできない。これは生き物に限った事ではなく、植物や建物、土地そのものから風景に至るまで、過去から現在、そして未来へと流れる時間の中で常に変化している。人間は「一瞬」を視覚的に知覚する能力が低いと言えるため、我々が見ているそれらはその時間軸の中でもある一定の長さを持ったものとして知覚されている。反して写真術は我々が認識する過去から現在へのリニア的な時間軸の中から一瞬を取り出すことができ(カメラの性能にもよるが、1/8000秒の世界を切り取ることは可能である)、撮影によって取り出された一瞬の撮影対象は、対象が像としてメディアに定着して以降、我々が認識している一方向へ向かう時間軸から独立して存在することになる。撮影されたオリジナルの撮影対象は生成や腐敗、建造と崩壊などを繰り返しその姿を変えていくのに対し、過去のある時点で対象が放った光の影響を受けた“写真の中の”撮影対象は、永遠にそのある一時点の光を我々に向けて放ちつづけることになる。撮影から長い時間が経過し、仮にオリジナルの撮影対象が元の形を保てなくなり最終的に消滅したとしても、過去にその光の反射を保存した写真の中の像だけは残り続ける。このように写真の中の対象は、撮影時点以降のどの時点からもその像について時間による生成や消滅などの干渉を受けることは一切なく、過去から未来へ向けた時間軸から永遠に解放されるのである。この写真に写った像が単なる色の組み合わせであればそもそも時間軸(ここでは現実世界と言っても良い)との関わりはないのだが、前章で説明した「光による実質的なつながり」が写真の中の像と時間軸を切っても切れない関係に仕立て上げている。写真術が日常の中で一般化した現代では、このような写真と時間との関係を認識することは難しいことであるかと思われるが、実際は根本的な写真の魅力を象徴する要素なのではないかと考える。
2 - 1 - 2 場所の強調
さらにこの時間軸からの切り離し現象は、時間経過とともに強調されることになる。当たり前だが撮影から時間が経過すると共に、撮影者さらには鑑賞者も撮影時点との時間的ギャップは広がっていき、伴ってその撮影時点と我々の関係性は薄くなっていく。関係性が薄くなると言うのは実質的な時間のギャップそのものでもあるし、その時の記憶や時代に対する認識の薄れでもある。このような時間の経過とともに、「いつ撮られたか」は次第に不明瞭になってゆき、最終的にその写真は完全に我々の時間軸からは切り離され、我々にはもはや撮影された対象の過去や未来を把握する手段は無くなってしまう。それに伴って、次第に写真の中に存在する撮影対照が浮き彫りになり、我々の意識はその撮影対象そのものに集中することになる。この時間の概念の剥離に伴って強調された写真に写る対象こそ、この論文で言うところの「場所」である。要するに、ここでいう場所とは、現実世界との実質的な関わりが薄れ、ある意味で「概念」となった像のことである。現実の風景と時間軸から切り取られ写真の中に独立して存在する場所である。そしてこの場所が撮影と時間経過によって浮かび上がってくることが「写真の場所性」である、と提唱したい。さらに、我々の認識から離れていくことにより、感覚的には“どんな場所の写真でも無く”、“いつの時間の写真でも無く”なってしまったその場所には、新たな時間概念が浮かび上がることになる。
2 - 1 - 3 時間軸の転換と、時間の浮遊
我々が生きる現行の時間軸と写真との関係性が無くなるとともに、写真の“中で”新しい時間軸が浮かび上がる。この新しい時間軸とは、その場所に地層のように堆積する時間の軸である。これは場所が記憶した時間の流れとも考えられるかもしれない。仮に、我々が知覚する時間の流れを、過去から未来へ向かう横軸的な時間軸だとする。私たちが知覚するある一瞬の風景は、横軸的な時間軸の中に点在する風景で、それらはその時間軸と共に変化している。逆に、写真術によって切り取られ時間軸から解放された一瞬の風景は、次第にその一瞬の像の中に過去から現在までの時間を生成し始める。このように「写真の場所性」によって知覚される時間の流れは、「場所」から生成された(または「場所」に堆積した、記憶された)縦軸的な時間軸であると考えることができる。時間軸から解放された写真には、このような過去から現在までに堆積した時間が濃縮されている。我々はその場所に堆積した時間を、写真を通して浮遊するように瞬時に知覚でき、静止画である写真の中に確かな時間の厚みを感じることができるのではないだろうか。
自分が生まれるはるか前の写真を想像してみるといいだろう。仮にその写真は、あたりを山に囲まれた日本式の瓦屋根の古ぼけた家と、生活を感じさせる雑貨がそこかしこに写る変哲もないモノクロ写真だとしよう。その写真の鑑賞者である我々は、無意識に、そして瞬間的にその家に流れた月日や家族の様子を知覚してしまう。そこでどんなことがあり、どのようにして写真のような状態になり、今は一体どうなっているのか。それが正確か正確でないかはなんら問題ではない。その場所(この場合ではこの写真に写っている家とその環境)から過去−現在を同時に体感できるという性質こそが重要なのである。この性質には、言わずもがな前章で詳述した「過去とのつながり」が大きく関わる。その過去−現在の瞬間的な知覚も、この「過去とのつながり」という過去の現実との絶対的な関わりを基にして行われるものであるからだ。この論文において「場所」としている、写真に写る家とその環境は時間と認識からすでに解放された「概念」であると共に、この写真と「実質的なつながり」を持っている現実に存在した(する)場所であるという二つの写真特有の性質を同時に備えているため、このような時間感覚の転換が起こるのではないかと考える。これが私の提示する「写真の場所性」に関する考えである。