その二十、6月中旬
20121年6月中旬
カミさんがソファーでぐったりしている。彼女は気圧の変化に敏感な質なので、明日あたり雨になるのかもしれない。もしかしたら、何日か前に受けたワクチンの影響かもしれない。そんな時は一応「ご飯の支度でもしようか?」と声をかける。私のご飯の作り方などお粗末かついい加減なので、野菜の洗い方、皮の剥き方、お肉を使った時の包丁やまな板の消毒など、彼女には見られないようにこそこそっとやるようにしている。彼女が仕事でいない日の食事当番の日はまだ気楽なものだ。私が作りたいものを作ってもいいよと気遣ってくれるのだが、それでも生魚など買ってこようものなら「お魚はお願いだからやめて!」と娘に泣かれる始末で、カミさんは「そんなこと言ってない」とは言うものの、臭いに敏感な彼女にはその後の流しの掃除が手間らしく、娘にはその内心が伝わっている… に違いない。
なるべくやれる時にはご飯作りをしようと思っていても、台所はやはり彼女の領域である。なるべく迷惑にならないように、冷蔵庫の残り物を使いながらも在庫にはなるべく手をつけず、使う場合には困らないように多めに買っておくようにする。「手伝う」という言葉は対等婚のつもりの男性には既に禁句であり、何事も進んでやりつつ迷惑をかけないように配慮しなければならない。なんにせよ私の方が手際も悪いし料理も旨くもない。「食えれば何でもいい」とは言ってくれているわけなので、問題はその作って片付けるまでの過程だ。そこをカミさんの目に入らないようにすればよい。彼女も見ていないものは気にしないようにしてくれているようだし、気になれば後で洗い直したり消毒したり、胃腸薬でも飲んでいるのだろう… きっと。
この日は母親思いの娘が「ご飯を作る!」と言い出したものだから、私はアシスタント係に任命され、母親の指示を待つ。私の作法がいい加減なのを娘も分かっているので、私の言うことを聞くわけもない。むしろ間違ってるだの文句を言われる。カミさんは「好きなようにやって」と言ったって、実際には娘はできないので、結局は母親が出てきて私の居場所はなくなる。〈好きなようにやって〉という言葉は、現実的には「私の分かる範疇で好きなように」という意味なのだろう… 実際には好きなようにはやれない。子どもに料理の仕方も教えられないのは不甲斐ないが、私も親に教えてもらってこなかったから仕方ない。人に習うということが苦手な私は、お店の仕事も自分で調べて考えて工夫してやってきたので〈正しいやり方〉というものを知らない。全てが自己流で、人に教える事もできない。〈正しさ〉というものを放棄してしまうということは、常に悩みながらいちいち考えなければならなくて、人との共同作業を困難にする。かくも孤独な方法論であるかと思う。
娘とお風呂に入って「お父さんはなんでそんなに機嫌悪いの」とかあれこれ言われる。このコロナ禍の時代に、どのように日々の家庭生活とお店の時間とを辻褄合わせながら過ごしていくか、ということについて、日々悩みつつ考えながらやっていかなきゃならない。それは、一人の商売であることの気楽さもありながら、そして協力金をもらって経済的にはかなり気楽であるはずなのだけど、それでもやはり葛藤を抱えてストレスが溜まっているのだと、そんなとき我ながら感じないわけにはいかない… 正しさがどこにもないわけだし。娘にはわりと対等に接してもらっているので、いろいろムカついてしまって「オレだってガマンしてんだよ!」とか言ってしまう。娘は大泣きしてカミさんとも言い合うハメになる。普段は何も言わないようにしているから、たまにドカッと出てしまうのは良くないと思いながら、自分はガマンしていたのか?という疑問が沸き上がる。そして夕飯の後お店に逃げるように出てくる。お店は客人にとっての逃げ場である以上に、私自身にとっての逃げ場でもあるのだ。
週に2回に増えた休みの日の夜は、娘よりも早く眠くなってしまう。夜中に目が覚めたら本を読む。読書の時間が増えた。深夜という時間が私は好きだ… というより、深夜は私の活動時間だ。眠くなったらまた寝ればいい。目が覚めたらまた眠くなるまで読めばよい。人文書を読むかフィクション(小説)を読むか、それぞれ日本のものと外国のものと、現行のものと過去のものと、その時の気分と自分なりの流行りで積んであるものの中から決める。それでもモヤモヤと読む気が起きなくて、ある夜には野球ニュースとスワポジ(スワローズのポジティブ)動画を一通り見終わってしまった後に、たまたまYoutubeに上がってきた算数問題を解いてみた。中学受験の図形問題なので小学校の算数レベルで解けるはずのものである。これが難しい。しばらくやっているうちに図形の相似や角度の定理などを組み合わせるような解法パターンが見えてくる。いつかのジグソーパズルの話と同じで、精神の無駄遣い… これはパズルゲームだ。すっかりハマって昼頃までやってた。高校受験の中学レベルはお手上げだったので数日で飽きた… が、これでこのところ分度器と角度の授業が始まった娘の、小学校の算数の勉強ぐらいはなんとかなるかもしれない。自分にも教えてあげられることがあるとすれば、やはり正解のはっきりしたものでしかないのかもしれない。算数には正解があるから有難い。
さて逃げるようにお店に出てきた後は、いつものマーさんの陰謀論のスナックのママの話。ロックフェラー/ロスチャイルドにしてもイルミナティ、フリーメイソンにしても、疑う力のない者は信じたいものを探す… 信じられるものではなく。陰謀論が知られるようになったのはネットのせいでもありおかげでもあって、以前はそんな情報もあまりなかったはずだ。疑ったり考えられる個人が減ったわけではなく、むしろ信じられそうな旧来的な社会や組織、モラルや常識のようなものが劣化してきたと言えるのかもしれない。民衆に、懐疑心という意味での知性がないのは今に始まったことではない… 〈正しさ〉があった時代には疑いも必要なかったわけだから。懐疑心を持つような性質の人はいつだって少数派であるのだろう… というか、社会としては少数でなければ困るに違いない。
もし知性に疑う力というものが含まれるとしたら、疑うためには〈正しさ〉が必要で、懐疑だけの人生など孤独で困難にまみれてしまう。だから我々は疑うだけではなく、疑いながらどこかに〈正しさ〉を探そうとする。〈正しさ〉は極論ではなく、どこか中間的なところにあるように感じるとして、そのように感じる感性にはどうしたって理屈がなさそうだ。既存の、既成の〈正しさ〉というのはおそらく、極論への偏りやすさを自ずと持ってしまう。知性とは、何かの〈正しさ〉に対して疑問を持つということが、その極論への偏向性に対する逆作用としての中間性(あるいは錯綜錯乱として放散する)へと向かい、かつそのために、これまでの様々な学術的あるいは現実的な方法論を使おうとする、ということになるのではないかと考えるに至るわけだ。
議会民主制という参政の仕方として、我々有権者は賛成票かあるいは否定票しか投じることができない。そこには中間票というものはあり得ない。白票も棄権も投票率を下げることにしかならない。私は投票率の低さというのが中間的なものの表現になると思ってはいるが、それは制度上有効であった試しがない。投票率の低さには、賛成と反対という両極でものごとが〈動く〉ということに対する懐疑があるのではないかと私には思えるのだ。良い方に〈動く〉のなら当然みな賛成するはずだが、〈動く〉ということが(一部の利権者を除いて)おおかた悪い方に向かうことを民衆はさんざん経験してきたからだ。正しいものなどどこにも見出せず、ただ信じたいものを探しているか(選択肢を限定されて)選ばされるだけ。〈正しさ〉というものも、正しいと信じる〈正しさ〉で、正しかったことなどあった試しがない。世界的利権者の正しいと信じた〈正しさ〉を続けようとしたことによって、下の世代や途上国弱小国が巻き込まれてきただけのこと。時代や地域を超えた普遍性なんてものは採ろうともしたことがないのだから、普遍なんかであったはずもない。だからせめて、中間性を目指す、という知性が必要だと思う。究極的な中間性に到達することを目指す、なんて話じゃないんだ。だから目標を作って経済に利用されるSDGsとか軍事削減目標なんてものは、無意味とまでは思わないけど知性のカケラも感じられないんだ。バカにしてるよ。ねえマーさん…。
「まん防」も終わりかけの週末、月に一度のDJ会はこっそり7名ほど集まって当店なりに盛り上がった感じになった。「なんかフツーだね」とナーちゃんが呟いた。ビビる時期は過ぎたのかもしれないけど、ちょっとヒヤヒヤしなきゃいけない気もした。気が緩んで感染リバウンドになるかもしれない民衆の動きを見ても、自分も一緒だなと思う。感染済みの客人の体験談もちらほら伝わってくる。ホントに味覚なくなるよーとか。お酒弱くなったーとか。感染をタタリと捉えるとすれば、聖徳太子(法隆寺)も菅原道真(天満天神)もタタリを恐れた怨念の神格化で… 力のある者を殺した負い目を感じているからこそタタリを封じ込めようとして、むしろ祀り上げる。そういうマインドは古代的日本人だけのことではなく、もしかししたらキリスト復活の神格化も怨念の神なのだろうか?… 新型コロナウイルスという微小な存在でさえ、有症感染者のタタリやオソレが集結して神格化される。それに対する忌避さえ巻き込んで盛り上げて、身近に感じられるようになるほど我々民衆がこぞって祀り上げる。我々が恐れているのは、新型コロナウイルスも一応そうだけど、それ以上に神格化された新型コロナという宗教なのではないだろうか。私は逆に、身近に感染者が出てくることによって(テレビとかの情報ではなく)、つまり危険とそこからの回復が現実的になることによって、神格化よりは危機感が現実的になってくることの方がよっぽど健全であるようにも思える。
DJ会ではLAスワンプあたりをかけてくれていた数学者のサーさんに、小学校の算数問題を解いてる話をしたら、ゼロの話をしてくれた。超限、高次元の研究をしている彼からすれば、学校数学はゼロがはっきりしている限定の上での話だ。逆に言えば、ゼロさえはっきりしていないのが数学の世界なのだ。むしろゼロの発明とは、日本の歴史で言えば天孫降臨なのではないか?… いや、これは拡大解釈だったかもしれない。そんなことを話していたら、わりとマニアックなレコードばかりのこの月例イベントの中で、今回のゲストのジーさんが「たまにはストレートも大事」と言ってブルース・スプリングスティーンをかけた。微細でマニアックな領域を研究しているサーさんは、それを聞いて「ストレートだよなー!」ってずーっと言ってた。
ストレートは変化球ピッチャーにとっても大事で… 野球好きナーちゃんと話は展開する。ストレートがキレイに回転してこそ変化球が活きる、その基準としてのストレート。(ナックルボーラーはちょっと特殊。)キレイな回転ではなく、シュート回転して打ちごろになってしまうストレートは、例えるなら真っ直ぐなつもりでナチュラルに変化してしまう我々のようなタイプの人間だ。キレイでまっすぐな人間を基準とするためにストレートがあるとすれば、ストレートとはむしろ単純化なのではないか!ストレートほど、球速と回転さえあれば打ちにくい球でありながら、ちょっと間違えばホームラン・ボールになってしまう危険な球もない。まっすぐな(つもりの)人間ほど打ちのめされる。だとすればヒネくれた人間は、どういう風に曲がるか毎度投げてみないと分からねー、っていうナックルボーラーとして生きていくしかないのかもしれない… ちょっと言いすぎた。
ちょうど一年前の今頃、最初のコロナ禍が落ち着いた頃に遠くに移住してしまったボーさんという客人がいた。彼に誕生日プレゼントで本を贈った。そしたらSNSに僕のことを〈親友〉と書いてくれた… 贈った本がよかったんだろう。約10年間にわたって、彼の40代の青春を、この店で過ごしてくれた。一緒にバンドをやったり、レコードのイベントをやったり、酔って深夜に寝てしまって起きるまで待って、そこからまたもうひと話したり、数えきれない時間を過ごしたアニキだった。数えきれないお金を使ってくれた客人でもあるわけだけど、そんなボーさんが僕のことを〈親友〉と書いてくれて、僕は嬉しくて自慢げにその話をしたら、その日に集った客人たちはみんな面白くなさそうだった。僕よりも長く付き合っている学生時代からの友人ターくんもいるし、短い間でも付き合ったことのあるキーちゃんもいるし、ナーちゃんまでヤキモチ妬いてた。みんなに愛された人だったのだ。親友とか友達とか、言葉にすると難しい概念だ。愛が含まれているからこそ人を縛り、またある人を疎外さえするかもしれない。
そんなことでボーさんの話をみんなで、昔話のようにした。みんなお金のやり取りをする客人でありながら店の人間である僕のことを友達や仲間のように感じてくれてるって、まあ分かってるんだけど言ってくれた。むしろお金のやり取りによってイーブンになれるような関係はフェアトレードで、気持ちの貸し借りの関係であることよりも与え合いであるんだ。それは等価交換の儀礼としてのお金のやり取りで… どちらかが儲かってしまうような非対称な関係を避けようとしているんだ。友達になれるようなフェアトレードは、ネット越しとかステージ越しとかレコードを聴いたり本を読んだりっていう間接的なものなんかじゃなくて、実際の付き合いがなければ、それもお酒と酔いと、それによって言いたいことを言い合って、介抱し合った関係があることによって… 言ってみればお互いに傷つけ合って、それを乗り越えることによって生まれるんだ。
だから僕は、酒場というツールはまだまだ有効だと思える。お酒とタバコで身体を傷つけていると疫学的な常識には言われるかもしれないけど、そういうことが友達を見つけることにつながる。戦争やスポーツで闘い合うことによって生まれる友情もあるかもしれないが、それは補い合うことにまでつながらなければ本当のものにならない。それはある人からすれば無駄でしかないのかもしれない。だからこそ、やはり無駄をムダにしてはいけないんだ。
知識欲も陰謀論も知性の無駄遣いかもしれない。アートとは、脳みそや感情の無駄遣いのアウトプットなんだろう。経済を回すためのお金の無駄遣いと、精神の無駄遣いとは似ているようで違う。どちらにしても消費消耗で、どちらにもそれぞれの喜びがあるのだと思える。その消費消耗の負荷を誰が引き受けるのか。その負荷を内面化して、自分でそれを引き受けようとするとき、経済論理ではない価値が生まれる。それは縄文と弥生の、農耕の余剰を取るか循環で(酔いごしの銭は持たない!)イーブンでいくのか、っていうちょっとした違いと似ているような気がする。友だちや商売やアートなどは、言葉にしようとすればそれぞれにどれもビミョーになるだろう。でもそのエッセンスは、無駄を介した中間性というものに〈正しさ〉があるような、直観みたいな感覚を持っている人だけに分かることなんだろう。それはどんな人にも理解できる倫理となりうるはずだと思うが、そういうことを経験する縁や機運に恵まれなければいけない。そのために私は酒場をやっている。私のお店が続いてきたということは、数多くはなかった客人たちの、そのような〈正しさ〉に根ざしていると私は思いたいのである。
大源太ゲン