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小学生、嵐の剱岳に挑む

 両親が山岳部の出身ということもあって、小さい頃からおよそファミリー向けでないようなハードな夏休みを過ごすことも多かった。
 その中で、今でもはっきりと光景も覚えているのが、小学五年生の時に家族で行った剱岳・立山縦走である。
 その様子は、例の母の日記に詳しく記されており、なかなか臨場感にあふれているので、今回はほぼそのまま引用しながら説明していきたいと思う。


7/30
 富山までの飛行機の切符が手に入らなかったので、中央本線経由で行くことにする。
 六時過ぎに起きて、八時前に家を出る。東神奈川から横浜線に乗り、八王子に出る。九時四十二分のあずさ5号に乗る。席はなく、子供達はザックに腰かける。
 今年の夏は天候が不順で、からりと晴れる日はあまりない。この日も、小雨がパラついていた。
 小淵沢あたりで席が空き、四人そろって座れた。
 松本で大糸線に乗り換え、信濃大町に十四時五十一分着。扇沢までバス、その後トロリーバス、ケーブルカーなど乗り継ぎ、室堂に着いたのは六時近かった。
(注:この行き方は、最近行った方の旅行記などを見ても、今もあまり変わっていないみたいです)
 室堂では、まだ雪がたくさん残っていて、次男(弟)は「ここはまだ冬なの?」と尋ねたほどだった。
 雨の中を、立山連峰ホテルまで歩く。雷鳥沢の真下にあるホテルだ。
 七時半ごろ夕食をとり、お風呂に入った後は何もすることがなく、九時ごろみんなで寝てしまう。

7/31
 天気は晴。六時ごろ起きる。
 ホテルを七時半に出て、剣沢に向かう。次男(当時2年生)を先頭にして歩いたが、次男は張り切ってピッチが速く、私(母)は少々遅れ気味になる。三十分ごとに休憩をとりながら歩く。途中、雷鳥を見かける。
(注:見かけた雷鳥の様子は今でもよく覚えています)

 九時過ぎには、剣御前小屋に着いてしまう。予定していた時間の半分で着いたが、これは予想以上に次男がよく歩いたためだ。兄弟二人とも、ザックの中には、自分のシュラフと着替え、食料少々入っていたのだが、二人とも強い。ここで、ビスケットだのジュースを飲んでしばらく休む。

 そして剣沢に下る。何回か雪渓を渡り、三十分ほどでテント場についた。大学の山岳部のテントを探して、その横に我々のテントを張った。兄弟二人とも初めてのテント生活だ。学生たちは四時近くに戻ってきた。
(注:この時、父親が出身大学の山岳部の監督をしていたらしく、その関係で今回の剣山行となったらしい)

 夕方から雨が降り始める。お父さんは夜、現役二人を連れて、登山監督所にあいさつにいき、九時過ぎにテントに戻る。
 兄弟二人ともすでに寝ていたが、大源太の寝相の悪さに参ってしまった。テントに吊り下げたローソクをシュラフに入ったままけとばし、私は頭から熱いロウをかぶってしまうし、夜中、あの狭いテントで大暴れだった。
 雨は夜の間ずっと降り続き、一番端に寝ていた次男のシュラフが濡れてしまう。

8/1
 朝、目を覚まして、次男はたまげる。シュラフを通して、ズボンも濡れていたので、おねしょをしたと思ったらしい。「しまった!」という顔をしているので、雨のせいだというと、ホッとした顔になった。

 晴れていたら、剣山に行く予定だったが、この雨では現役も停滞だという。台風が近づいているので、天気予報に注意する。
 狭いテントの中で何もすることがなく、一体、長い一日をどうやって過ごすのかと不安になる。天気はどんどん悪くなる一方で、風も強くなってくる。お父さんは現役のテントに行く。雨がもらないように、テントの外にビニールのレインコートをはりつけておいたが、風で横の方に飛んでしまい、下が水浸しになるので、直しに外に出ると、子供二人だけ残ったテントは今にも吹き飛ばされそうだった。
 雨がテントを通して吹き込んでくるので、どのシュラフも濡れてきた。周りのテントも総出で補強したり、雨風の中でたたんでいる人もあっちこっちで見られた。ラジオでは、台風はまだ太平洋上にいるというのに、こんなにすごい天気だ。

 四時半ごろ、登山監督所のスピーカーから、「テントを張っている人は早く避難するように」というアナウンスが流れてきた。お父さんは嵐の中、監督所に避難場所を聞きに行った。剣沢の小屋に一室を確保して戻ってきて、テントをたたんで四人で小屋に移ることにした。テントを空にすると飛んでしまいそうなので、まずお父さんが子供たちを連れて行き、その間に私がテントの荷物を整理した。

 九時過ぎに寝たが、あまりの風の強さに、私は寝れなかった。時々、小屋が壊れるのではないかと思うような突風があり、思わず布団をかぶってしまった。
 十時ごろ、自家発電の装置が止まり、廊下の電気も消えた。
 十一時ごろ、外で叫ぶ声が聞こえていたと思ったら、また自家発電の音がして、小屋の中が騒がしくなった。隣の売店が風で飛ばされたので、二階にいる人たちは一階に避難してくれということだ。荷物をまとめ、大源太を起こし、次男は寝ているまま、下の部屋に運んだ。一階に行く時、洗面所のガラスが割れた。台風は富山を直撃するというラジオのニュースが聞こえてきた。一晩、座ったまま明かした。
 テント場に残っていたいろいろな大学の山岳部のテントも全て壊されて、皆避難した。

(注:後半の淡々と畳み掛けるように凄みを増していく台風の描写が怖すぎる。完全にこれは遭難する人の手記のやつじゃないか。深夜に一階に避難した時のことは今でも良く覚えている。あちこちで窓ガラスが割れはじめ、お兄さんたちが小屋中の窓に畳を釘で打ちつけていた。その畳の向こうでピシピシとガラスの割れる音が聞こえる。強風に揺れる小屋。ちょっと怖いどころではない。何しろ、この小屋と大して変わらない作りの隣の売店の建物は、さっき実際に吹き飛んでしまっているのだ。いつ何時、ちょっと風の通り道が変わったら、その瞬間この小屋は跡形もなくなってしまうかもしれない。沈黙とうつむきと、打ちつける風の音、恐怖の一夜。後でわかるのだが、この時の台風はめちゃめちゃ大型で、しかも思いっきりこの場所を直撃していたらしい。しかしいくらなんでも、こんなの来る前に分からなかったのだろうか。こんなでかい台風が来ているのに学生の部活や家族づれで剱岳なんて、台風予報が出ると週末のお店のイベントが中止になってしまう令和では考えられない。)

8/2
 八時ごろ、各部屋に戻って仮眠したが、まだ風は強かった。
 昼ごはんは食堂で自炊した。ご飯を炊いて、子供たちはボンカレー、大人は漬物に味噌汁。

 そのあと、大源太とお父さんが(できれば)剱岳まで行ってくると出かけていく。まだ風が強く、時々雨もパラつく天気だった。大源太の腰にザイルを結び、猿回しの猿のように歩いて行った。二人が一服剣の頂上に立つまで小屋からもよく見えた。二人は前剣まで行ったということだ。時々突風が吹き、小屋の中にいても恐いくらいで、次男が、「お父さんと大ちゃん死んじゃったら、お母さん泣く?」と聞いたりしていた。

 私と次男は小屋を出たり入ったりしていたが、風の強い時は、昨晩壊れた小屋の一部が飛んできたりして危なかった。
 薄日がさしてきて、小屋の外に出てみると、大源太とお父さんが一服剣の下を歩いているのが見えた。私と次男はテント場をひと回りした後、二人を迎えに雪渓まで降りていく。
 前剣の頂上はものすごい風で、4〜5分、大源太はお父さんの足にしがみついて風に飛ばされないようにと必死だったらしい。

(注:自分は人生で「死んだ」と思った時が2回ある。この前日の台風の小屋の夜と、もう一つが翌日のこの剱岳だ。
 いやもう、こんなのもはや炎上案件である。小学生連れて台風の中剱岳に登るなんて、今だったらすぐさま写真撮られて拡散されて人生終わりだ。そして、山の専門的な人や、山が専門ではないけれど何やら気の緩んだ人のことが許せないタイプの人たちが日本中から集まってきて、寄ってたかって罵詈雑言を浴びせられるに違いない。
 タイトルに偽りのようで申し訳ないが、実際にはこの時には剱岳には辿り着けず、その手前の前剣という頂上までで引き返してきた。ただこれは許してほしい。本当に怖かった。
 何しろ、小学生だから軽いので、本当の本気で何度も台風の突風に吹き飛ばされそうになった。特に怖かったのは一服剣と前剣のあいだの尾根道と、前剣の頂上である。そこは遮るものが一切ない場所なので、谷底から吹き上げる強風が信じられない勢いで「どんっ」と身体を直撃するのだ。しかもその周囲は右も左も断崖、バランスを崩すと完全に谷底で即死、そんな状況で明らかに殺意を持った風が前後左右から容赦なく襲いかかってくる。地獄である。風地獄。頂上では一回リアルに浮いた。本当に帰りたくて帰りたくて、もう景色を楽しむどころでは全くなかった(まあ曇ってたからあんまり見えなかっただろうけど)。ただ、剱岳を前にして前剣で引き返すのも、あとギリギリ出発できるラインを見極めるのもこれは登山家の父親のすごいところなんだと思う。
 今も昔も登山者に人気の剱岳だが、この日は登山の道中ほとんど他の登山者に会わなかった。当たり前である。こんな嵐の時に登るわけがない。一回だけ二人組の登山者にすれ違ったときは、彼らがぼくを見て「?!」という顔で二度見していたのをよく覚えている。
 当時の写真もないので記憶を頼りにここまで書いていたけれど、実際はどんな場所だったんだろう?と思ってYouTubeにある剱岳の登山動画を見て驚いた。全然、前剣まででも落ちたら完全に即死するような断崖を通るじゃないか。これを台風の中行ったんだ。。。小学生の時。。少し自分を褒めてやりたい。
 ちなみに、もう少しだった剱岳まで行くとどうなるのかな?と思い、そのままYouTubeを見ていたら、いやこれは無理だ。というより晴れていたって行けたか疑わしい、前剣を過ぎてから剱岳までの道のりはそれまでとは全くレベルが違っていた。「日本屈指の難易度」「デスマウンテン」という見出しをつけている動画もある。どう考えても台風の中行くような場所じゃない。引き返した父の判断は賢明だった。)

8/3
 朝四時起床。昨晩次男は寝るときに、自分の時計の目覚ましを四時に音楽(ミッキーマウス)が鳴るようにセットして、耳の下に置いて寝たが、寝ているうちに耳から外れてしまった。朝ごはんは、昨日のうちにお弁当を作っておいてもらった。

 しかし、起きてみると天気は良くない。今日は立山を縦走して室堂に出て、十時四十五分のバスに乗ることになっていた。しばらく天気の様子を見ていたが、なんとか行けそうなので、五時半に小屋を出た。大学生のテントに寄り、学生たちにコーヒーの差し入れをしたあと、別山を目指して歩く。風が冷たく、次男はしきりに手が冷たいというので、手袋をさせる。

 いいピッチで進み、大人を追い抜いてしまうほどだった。でも、途中大源太がトイレに行きたくなり、休んでいる時にまた追い抜かれてしまったが。
 稜線に出てからは、下から吹き上げてくる風が強く、時々吹き飛ばされそうになりながら歩く、
 大汝の小屋に着いたのが八時半ごろ。ここでジュースを飲んだり、ビスケットを食べたりする。
 雄山から立山に。立山では、知り合いの一家に会う。立山を出たのが十時十分。先ほどの知り合いは室堂まで三十分は無理だよと言ったが、結局30分で室堂に着いてしまう。途中、一の越の小屋の屋根が吹き飛ばされていた。

 室堂に着くと、もうここは観光客がいっぱい。
 人数が多すぎて、大観峰でロープウェイに乗るのに随分待たされて、信濃大町に着いたのは予定したより一時間も遅れてしまった。
 しかし予定していた中央線の特急は台風の影響で不通になっており、結局は長野経由で帰ることになった。十時上野着。家には十一時過ぎに着いた。

(注:帰りの立山縦走は、天気も回復してきたこともあるが、結構楽で楽しかった印象がある。何しろ、ここでは風に煽られても谷底に落ちて死ぬような危険がほとんどないのだ。ただ歩けばいいのである。こんな楽なことはない。台風の一夜、剱岳、本当に無事に帰って来れてよかった。ああ、街が見えてきた。帰ってきた。そんな思いを噛み締めながらの、自分なりのウイニングランがこの立山縦走だった気がする。)


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