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おじいちゃん・おばあちゃんとの再会

 1981年7月25日の母の日記は、以下の書き出しで始まる。

「待ちに待ったおじいちゃんおばあちゃんの所に行く日」

 そう、ついにこの日がやってきた。

 大源太くんのおじいちゃんとおばあちゃんは、この約9ヶ月前、経営していた会社が倒産してしまい、夜逃げ同然で北へ逃れて行った。
 それ以降、全く会えない日が続いていたが、小学校4年生のこの夏休みについに会いに行けることになったのだ。
 さらに、子供たちだけで夏休みの間ずっと、8月いっぱいまで長期間にわたって滞在することになった。母はおばあちゃんの家までは連れていってくれるが、数日後に1人で戻ることになっている。
 なぜかというと、母は中国の登山隊に9月頭まで参加することになったからだ。唐突すぎて意味がわからない理由だが、それについては前回書いたので、どういうことなのか見ていただければ幸いである。

 つまり、事情としてはやや複雑なところがありつつの東北行となったわけだが、先の日記の書き出しが「待ちに待った」であることからもわかるように、家族にとっては暗いイメージは全くなく、ただ単にとにかく楽しいイメージしかなかったようだ。

 母の日記には「朝の7時半過ぎに家を出て、9時33分発の特急やまびこに乗る」と書いてある。
 そうだったんだ。そうか、なんと、東北新幹線がまだなかった時代だったんだ。調べてみると、東北新幹線は翌82年の開業であった。
 今は調べると当時の時刻表のデータも見つけることができるが、ぼくらが乗ったのは9時33分上野発の特急やまびこ3号だったようだ。
 同年代の方はわかると思うが、当時日本ではブルートレインやL特急といった鉄道関連のブームがあり、全小学生男子が電車と特急に夢中になっていた。なので、特急電車に乗れることはこの上ない喜びであったに違いない。
 特に、我が家は両親の実家とも首都圏であったので、普段から長距離を走る特急列車に乗ることがなかったから、こんな滅多にないチャンスをより楽しんだことと思う。

 続いて日記にはこうある。
「列車の放送で食堂車があると聞き、お腹すいた、食堂車に行こうとうるさいので、11時前にお昼を食べに行く。カレーライス、お子様ランチを食べる。」
 そうだ、この頃の特急電車には食堂車が確かにあった。おぼろげにだが食堂車の雰囲気は覚えている。今考えるとチープなメニューだったかもしれないが、当時は食堂車でごはんを食べるというのは、それだけでとても特別感のあることだったような気がする。あれほどわくわくする食事って、これに匹敵するものってその後の人生でもそうあるものではないのではないだろうか。

 おそらくだが、首都圏を抜けるにつれ見えてくる田園風景も、当時のぼくたちにはもの珍しく、心躍る風景であっと思う。なにしろぼくらは横浜の新興住宅地の出身なので、こんなに広大な田んぼが広がる光景を今まで見たことがないのだ。
 そして「特急旅行ゲーム」「日本一周ゲーム」などでよく耳にした「郡山」「仙台」といったような駅を次々に実際に通っていくことも、なんだか夢が叶ったようで、とても嬉しいことだったはずだ。「ここがあの仙台なんだ」など子供ながら感慨に耽っていたと思う。

 列車は14時55分、約5時間ちょっとで岩手県の一ノ関に到着した。今考えると相当に時間がかかっている。でも、うっすらとした記憶でも、この5時間が長かった記憶は全くない。広がる景色に、憧れの特急電車に、食堂車に、楽しくて楽しくてあっという間だったのだろうと思う。

 旅はここで終わりではなく、ここで大船渡線に乗り換える。大船渡線は、気動車、すなわちディーゼルカー2両編成くらいの路線だ。うっすら記憶にある限りでは、オレンジのような赤茶色のような色の車体の列車だったように思う。
 この大船渡線は、かつてはその名の通り一ノ関から大船渡(正確にはその次の盛の駅)までを結んでいたが、震災で流されてしまい、今は気仙沼までの路線となっている。
 この時は、この大船渡線で終点の一つ手前の大船渡まで乗った。

「3時5分発の大船渡線に乗る。車内は学生がいっぱいだった。でもすぐに車両は空いて、ゆっくり座れるようになった。大船渡まで3時間、ディーゼル機関車は、タバコの畑が続く中をゆっくりゆっくり走っていく。窓から入る風がヒンヤリとしている。途中から海が見えだし、2人は外を眺めていた」
 どちらかというと、特急やまびこよりも、このディーゼルカーの記憶の方が鮮烈に残っている。
 一面に広がる畑と田んぼの鮮やかな緑。深く青い空。突如開ける海。
 ひたすら、密度の濃い色の世界が広がる。
 その圧倒的なまでの、色の強さ。
 全く、色と形に溢れる横浜の住宅地では見ることのできない光景だった。少ない色が広大に広がる、こんな力強さを感じたことはこれまでに一度もなかった。
 本当に新鮮で、そしてなぜかわからないが、この世界の中に入っていくことがうれしくてたまらなかった。

 大船渡には6時ごろに着いた。
 駅にはおじいちゃんが迎えに来てくれていた。
 当時は全く思わなかったが、今考えると、倒産騒ぎの後初めて会うわけだが、大人たちの心境としてはどのようなものだったのだろうか。
 おじいちゃんたちにしたって、さまざまな思いもあるだろうし、うちの母にしてもどういう思いだったのかとは思う。倒産騒ぎがあったこともあるし、無事再会できた喜びもあるし、子供を1か月以上も預ける母親の思いもあるだろうし。。それなりに双方複雑な部分もあったに違いない。
 ただ、それでも、子供たち2人が、そんなことは全く関係なく、おじいちゃんとおばあちゃんの家に遊びに来れたことをただめちゃくちゃ喜んでいることが、せめてもの大人たちの支えになっていたんじゃないかと、今となっては思う。

「家で、おばあちゃんは海からとれたあいなめを焼いて待っていてくれた。家の裏は畑で、タバコ、じゃがいも、とうもろこし、キャベツ、トマト、山芋などがうわっている。」
 ここに至るまでにあったストーリーなど何も関係ない、今はこんなにも豊かなのだ。本当に、今になって思い返してみると、何があってもどうとでもなるし、どんな状況でも幸せや豊かさを掴むことは割と簡単にできるものだと思う。

 そして、幼い兄弟がおばあちゃんの家に着いて一番衝撃を受けたことが日記に書いてある。
「トイレが汲み取り式で、2人とも初めてなので、くさいくさいと鼻をつまんで入る」

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